おねむ
平時では授業終了、放課を表すチャイム。現状では、文化祭準備のための話し合いの終了を告げるチャイムが鳴る。
「……ふぅ」
教壇に立っていた藍が小さく息を吐き出し、書記代わりに黒板にいろいろとチョークで書きつけていた斎藤がぐるんぐるんと肩を回す。
「……一応、全部の役割は決まりましたね」
「だな」
もはや相槌を打つくらいしかやることがないのか、今日何度目かもわからない、『だな』を口にし、疲れたように斎藤が首を回す。
「今日は解散です。お疲れさまでした」
「お疲れー」
実行委員二人の号令とともに、今日の文化祭準備の終わりが布告され、クラスメイト達が三々五々席を立つ。
その波をかき分けて自分の席まで戻ってきた藍がすとんと椅子に腰を下ろした。
「……つかれた」
「だろうね。お疲れ様」
先週からこっち、ずっとクラスでリーダーシップを取る仕事を続けているのだ。
今日は週初めの月曜日。そんな日からこうも密度の濃い時間を過ごせば、自ずと疲れは溜まるだろう。
「でも、だんだん上手くなってるよね。クラスをまとめるのも」
「……るりや珠洲さんや他の人たちに助けられることも多いけど……、でも、ありがと」
小さく笑んだ彼女がそう言って、ぐったりと机に突っ伏する。
ふわさあ、と肩先を超えるぐらいのきれいな黒髪がやわらかく広がった。
手を伸ばして頭を撫でる。
「よしよし」
「……ふにゃあ」
顔半分だけこちらに向けた藍が気の抜けた声を上げる。
だらけた猫みたいだな。
「……だいぶ、お疲れの様子ですね、藍ちゃんも」
「……そのようだな」
荷物をまとめていた栗原が、壁になっている僕から顔を出して藍を覗き込むようにしてそう言った。
要所要所で藍をフォローしていた彼女自身はそういった様子をおくびにも出さない。
けれど、きっと栗原もまったく疲れていないというわけではないのだろう。
自分が前に出るのではなく、誰かのサポートをするというのは、それはそれで精神的にもかなり疲れる行為だと思うから。
それでも、僕は彼女に優しい言葉をかけたりはしない。
僕が一番に優先すべきなのは藍の方であって、大事な友達ではあっても、そういった折衝に慣れている栗原にかけるべき言葉など僕にはないのだ。
器の小さい僕に配れる心はそう多くはない。
「るりもおつかれ。大変だよね。優しさの押し売り」
「……なんかちょっと引っかかる言い方だけど……。ありがとダリア」
だから、僕の代わりに前の金髪がその意を汲んでくれた。
もちろん、別に僕のためにそうしたわけではなく、単純に栗原を気遣ってのことだろう。この二人はもはや気の置けない仲と言える。
「……ちなみに、るり、今日暇?」
「なに? 何か行きたいところでもあるの?」
「いやあ、別にそういうわけでもないけどさ。なんとなく、四人でお話でもどうかと思って……」
「四人?」
百日の言葉に、栗原がつぶやいて、百日を見、僕を見、突っ伏する藍を見、それから自分自身を指さす。
それから、何か引っかかるとでも言いたげにゆっくりと首を傾げた。
その視線が、たった今荷物をまとめ終え、教室を後にした斎藤の方に向けられる。
「彼は?」
「ノーカウント」
なんだよ、ノーカウントって。
「わたしはかまわないよ」
「そう。一応、訊くけど、相田は?」
「別に何も」
「じゃあ、藍ちゃん」
「……ふにゃあ」
「……どういう返事かわからないけど、とにかくだめではないんだよね、それ」
顔を伏せたまま、左手をふにゃふにゃと上げた藍は意味不明な声を上げただけだった。
持ち上がった左手がぱたんと糸が切れたように机の上に落ちる。ごんと鈍い音がした。肘でも打ったのではないかと思われる。
その証拠に、顔を机につけたままの状態で、肩を震わせた藍はうずくまるように左腕をお腹に抱え込んでいた。
相当お疲れのようだね、とおどけるように肩をすくめた百日はその形のいい眉を軽く寄せる。
「この辺何もないからさ。藍ちゃんの家とかじゃだめ?」
「……にゃむにゃ」
今度は右手をすっと上げた藍は、ぶつけないようにそれをゆっくりと下ろす。
「……ごめん、さすがのボクも宇宙の言葉はわからないんだ」
「……問題にゃい」
「……そう。ありがと」
百日が素で困惑したような表情を見せたのを僕は初めて見た気がした。
「……えーっと、とりあえず、藍ちゃんすぐ行ける?」
「……あと五分」
「そ、そう。わかった」
藍を気遣うように訊いた栗原が寝ぼけた朝のような回答に若干、困惑したように頷いた。
疲れてるなあ、藍。
十分後。
軽い寝息を立てて五分延長のお昼寝を強硬している藍を、寝るなら家に帰って寝なさいと叩き起こす。
……眠い……。
起きなさい。(相
…………眠い。
こんなところで寝たら、風邪引くよ。(栗
眠い。
はいはいこの隙に寝顔パシャっと。(もも
などというやり取りを経て、最終的に微睡む藍を僕が背負うことで事態は収束する。
足を滑らせたらシャレにならない階段を戦々恐々としつつ下り、軽いけれどもやっぱり重い藍の体躯を支えてようやっと昇降口に至る。
背中がめちゃくちゃ温かい。
吐息が首筋にかかってくすぐったい。
「藍の下駄箱どれだっけ?」
「それ」
僕の背に完全に負ぶさって、起きる意思のない藍の代わりに、栗原が気を利かせて内履きを履き替えさせてくれる。
「ついでに僕のも履き替えさせてくれない?」
片足を内側に折り曲げるようにして栗原に差し出すと、ぱちぱちと二回瞬きをした彼女は、呆れた表情で息を吐く。
「……さすがに自分でやって」
「……はい」
仕方がないので、藍を負ぶったまま、若干前かがみになるようにして、片手を使わずとも藍の体重を背中全体で支えられるようにする。
それから、左手をぎゅっと藍の臀部の辺りに据えて、残った右手で器用に外履きに履き替える。
「……ねえちょっと、相田君。どこ触ってるの?」
「おしり」
「……開き直らないで」
「この体勢を維持する辛さを考えてから物を口にしてくれ」
「……それはわかるけどさ。一旦、下ろしたらいいじゃん」
「……この眠り姫の忠実なる下僕たる僕は、彼女が眠りから覚める可能性を看過できないんだよ」
「……言ってて恥ずかしくないの? それ」
「別に」
実際、言った後、消えてなくなりたくなるぐらい恥ずかしかったが、もちろん表情には一切出さない。
遠巻きにやや距離を置くようにしてこちらを傍観する様子の百日は、ぱしゃりとまた一枚写真を撮った。
薄桃色のカバーのついたスマホをポケットにしまいつつ、彼女がつぶやく。
「こうしてみると、藍ちゃんもまだまだ子供だねえ。寝顔かわいい」
残念ながら、そのかわいい寝顔は彼女をおぶっている僕の視界にはまったく映らないのだ。
徒歩五分の道のりでなければ、僕の腕の筋肉は死滅していただろう。
家の前に車はない。彼女の家にはまだ誰も帰ってきていないようだ。
九々葉家の門扉をくぐり、藍のリュックから彼女がいつも家の鍵を入れているポケットを探り、栗原に鍵を開けてもらう。
それからリビングに至ったところで、ようやくソファに藍を下ろすことができた。
「……明日は筋肉痛だな」
「名誉の負傷って奴?」
「別にそんな大げさなことでもないだろ」
藍の部屋からブランケットを引っ張り出してきて、安らかに眠る藍にかけてやる。
短めのブランケットからまろびでた白い太ももを、栗原がどこからか持ってきたバスタオルで包み隠す。
「……ここには女子と相田君しかいないけど。一応、ね」
なぜか僕に咎めるような視線を向けつつ、すでにテーブルについてスマホをいじっていた百日の隣に腰を下ろす。
僕もその正面の位置取りに着いた。
背中では、ソファーで眠る藍のすー、すー、という寝息が聞こえる。
安定しない僕の背から、固定されたソファーに移ったことで眠りが深くなったようだ。
「それで、話っていうのは?」
穏やかな顔で藍を見守る百日に、おむもろに栗原が切り出す。
「んー、いやー、大したことじゃないけど、藍ちゃんもいろいろがんばってるみたいだし。ボクらでもうちょっと力になれることでもないか、探ろうっていう感じ?」
自分で誘っておいて自信なさげに口にして、またスマホをいじり始める。
「人と話してるときにスマホ触らない」
「えー」
「えー、じゃない」
たしなめる彼女に唇を尖らせて、しぶしぶ百日はスマホを鞄の中にしまった。
腕を組み、背もたれにゆったりと体を預けて、探るように僕に目を向ける。
「で、雑用係に任命された気分はどう?」
「……そんなものに気分もなにもないだろ」
文化祭の役割分担。何の気なしにどこの班にも手を挙げずにいると、いつの間にか雑用係に割り振られていたのだ。こういう場面で自分の意思を主張しない奥ゆかしさは僕の美点でもあるが、欠点でもある。
「たぶん、やたらめったらいろんなところに引っ張りまわされると思うけど、がんばってね」
「……まじかよ」
「まじだよ」
にっと唇だけで薄く笑った百日は、残った蒼い瞳を細くすぼめる。
ちょっと苦笑気味になった栗原が付け足すように口にした。
「そんなにいっぱい仕事を押し付けられたりはしないけど、方々回ってもらうことにはなるかもね」
「なして?」
「……それはひみつ」
小さく人差し指を立てた彼女に、やっぱりそうか、と肩を落とす。
藍も栗原も、どうあっても僕に事情を詳しく説明する気はないらしい。
それならそれで、好きにやらせてもらおうという気持ちなわけだが。
「……二人は何班だっけ」
「わたしは装飾」
「ボクは当日」
「なるほど……。藍は料理班ってことだったっけ」
きれいに四つに分かれたな。
首を後ろに傾けて、さかさまになった視界に眠る藍を映す。
ちょうど彼女が寝がえりを打ったところのようで、足にかけたバスタオルがソファーの上にずり落ちていた。
白い太ももが露わになっている。
スカートがめくれかけていて、足の付け根がみえそうだ。
「……」
無言で見つめていると、喉元に鋭い一撃を食らった。
「ぐえっ」
「寝ている女の子にいやらしい目を向ける悪い子には、るりちゃんからのおしおきが待っています」
頭を戻せば、きれいな笑顔をした栗原が手刀をかまえるように右手を胸の前に置いている。
あれで喉をやられたわけだ。喉仏に食らったせいで、地味に痛い。
「いーやーらしー」
痛む喉をさすっていると、棒読みな口調で言って、僕に冷たい目を向けた百日がバスタオルをかけなおしに藍の下に向かった。
その際、また藍の寝顔をパシャリと撮る。
「……藍が寝ているのをいいことに、さっきからパシャパシャ寝顔撮りまくってる百日に言われたくないんだが」
「ボクは女子だからいーの」
「……はあ」
悪びれるでもなく言う彼女に呆れる。その行動の真の意図がわからないでもない僕だったが、さりとて藍の寝顔の写真が僕以外の第三者に所有されるという事実をあまり許容できるわけでもない。
栗原も同じように眉をひそめた。
「……女子でも勝手に寝顔撮りまくるのはどうかと思うよ」
「気持ちが落ち込んだときにこの安らかな顔を見れば、きっと幸せな気持ちになれると思うんだよね」
「でも、藍ちゃんの許可なく勝手に取るのはマナー違反だよ」
「……はいはい。ごめんなさい。あとでちゃんと断っておくね」
あとで、って果たしていつ言う気なんだろうなー。
僕は訝しんだ。