微変化_非変化_不変化
十月二十日金曜日の午後。
日程的には今日もまた授業はなく、お昼からは文化祭準備に当てられることになっている。
しかし、藍の話によると今週いっぱいはクラスごとまたは部活ごとにそれぞれ出し物を決める時間となっていて、すでに粗方の内容が決定されてしまっているわが一年三組ではやることがない。
他クラスと出店の案が被り、第二希望等に繰り下げされる可能性も考えれば、あまり細かい内容も詰めるわけにはいかなくて、決まったのはせいぜいメニューや材料に何を使うかと言ったおおまかな枠組みだけ。
今はそれ以上やることがないので、その日はそれで放課後となった。
他のクラスはまだ話し合いをしているところも多いから、なるべく静かに帰るように、という担任の鈴見台のありがたいお言葉をいただき、降って湧いた思わぬ余暇の時間にクラスメイトの数人が歓喜の声を上げる。もちろん、忠告された直後なので、音量は控えめだが。
「藍、また一緒に帰る?」
隣の藍を見やり、なんとはなしに提案すると、彼女は申し訳なさそうに首を振った。
「ごめん。四時から実行委員会で各クラスの提案を精査することになってるから、わたしは帰れないの」
「あ、そっか。そうなるのか」
「……ほんとにごめんね。また今度」
「あー、まあ、がんばって」
「ありがと、涼」
文化祭実行委員の身の上はやはり、忙しいということだろう。何の責任も役職もない僕のようにのんびりと遊んでいることなどできないらしい。
彼女に手を振り振り、さて、じゃあ、本当にやりたいこともないし、まっすぐ家に帰るかな、と、会議開始までここで時間を潰すつもりなのか、鞄から文庫本を取り出して読み始めた藍を尻目に、教室を後にする。
階段を下り、昇降口に至って、クラスの下駄箱の前までやってきた。
「……あ」
そこにいたのは芦原真優。
ちょうど蓋を開けて革靴を取り出したところで、僕とまともに目が合った。
他にクラスの連中はいない。まるっと空いた午後の時間の使い方でも教室で打ち合わせているのかもしれない。あるいは藍とやり取りを交わしたことで微妙にタイムラグがあったせいか、一目散に帰宅する類の人間からは少々置いて行かれてしまったせいかもしれない
とにかく、まだ午後の日程が開始された間際の時間帯、他クラスの人間もいない、クラスの他の人間もいない。昇降口は驚くほど静まり返っていて、だから、彼女の漏らした小さな吐息がやけに僕の耳に引っかかった。
「……」
芦原なので、出席番号は若く、彼女の下駄箱は出入り口側ではなく、校舎の中側に近い。出席番号は男女別で、女子の方が頭に固められ、男子は後ろ。相田であっても、女子の彼女よりは出席番号は後になる。無言で隣を通り抜け、自分の下駄箱を開けた。
その間、視界にちらつく彼女の影は動いていないようだった。手に革靴を持ち、どこか様子を窺うようにこちらを見つめている。
藍と喧嘩をしたらしい、ということだったか。
藍にはわからない理由で彼女に怒っている様子で、藍が訊いても理由を教えてくれない。ずっとぶすっとしているままに、藍の存在を無視するように振舞っていたということ。それ以降も、藍や藍の周囲と関わることをほとんどせず、なんとなく一人で自分の席に座っていることが多かった気がした。
別段、注目して見ていたわけではないが、僕はそんな風に一人でいる人間というものを注視してしまう傾向にあるのだ。それがやむにやまれぬ事情で以ってクラスで孤立した女子であるのなら、なおのこと。
「……」
「……」
靴を履き替え、下駄箱の蓋を閉める。
ばたんという大きくも小さくもない音がその場に落ちて、針の落ちる音も聞こえるような静かな昇降口を揺らした。
「変わりたい、か……」
「……え?」
ぽつりと小さくつぶやくと、それを聞いた芦原が怪訝な顔を僕に向ける。
以前の僕はいついかなるときも藍の味方であって、彼女に害をなすもの、彼女を傷つけるもの、彼女を虐げるものを、取り立てて見過ごすことのできないきらいがあった。
今だってその傾向性は変わっていないし、ただの悪意で彼女を傷つけるものに容赦をするつもりはない。
けれど、この芦原はそうではないのではないか。
なんとなくの直感でしかないが、そんな風に感じる。藍から話を聞いた瞬間には彼女に敵意さえ持っていた僕ではあるが、なんだか今は彼女のことを悪く思うことができずにいる。
変わりたい、とそう思ったからだろうか。
怪訝な表情を浮かべる彼女に向き直り、僕はひどくぎこちなく口を開いた。
「僕に何か、訊きたいこととか、あったりする?」
「……え」
戸惑うように声を漏らした芦原が僕を見て目を丸くしている。
当然だろう。今までまともに話をしたこともなければ、わずかなりとも彼女に興味を持ったことさえ一度もなかった。僕が彼女に、ただのクラスメイトにすぎない人間に、声をかけることなど今まで一度としてなかったのだ。
そんな孤立した僕が、問われて答えるのならまだしも、自分から問いを発した。
異常に思えて驚くのも無理はない。
僕だって、何の縁もゆかりもない、本当にただのクラスメイトだったなら、こんな行動をおこさなかったかもしれない。
けれど、彼女は藍の友達なのだ。
それも現在進行形で藍と喧嘩をしている友達。
そんな相手に一声かけてみたいと思ったところで、僕の心境としては少しもおかしなところはない。
まずはそんなところから始めるのも悪くはないんじゃないか。
そう思った。
「き、訊きたいことって……?」
「ほら、僕って藍の彼氏じゃん」
「……」
僕と話すことに微妙に恐怖でも感じているのか、喉から絞り出すように口にされた言葉に、何か答えようと言葉を発すると、いつになく自分らしくない発言が飛び出てきた。
自分で言ってて面食らうが、言ってしまったからには仕方ないと割り切って続ける。
「そんでもって、クラスで浮いてるからさ。僕みたいな人間に何を言ったところで、大勢に何も影響を及ぼさないんだよ。だから、訊きたいことがあるのなら、何でも訊いていいんじゃないってこと」
思ったことをそのまま口にして言うと、芦原はじっと僕を見つめる。その言葉の真意を見極めんとするかのように。
ややあって、かすかに苦笑するような雰囲気を見せた。
「謎いね、相田君」
「……謎い?」
「ほんっと謎い!」
半ば叫ぶように言った芦原は、あはは、と渇いた笑いを滲ませた。
「それじゃあ、一つだけ聞いていい?」
「どうぞ、ご自由に」
胸襟を開くように、両手を開いて見せると、また少しだけ苦笑する気配があって、それから、不安を抑え込むように長い息を吐いた彼女は、まともに事実に向き合うのが怖いとばかりに、上目遣いでこちらを見上げた。
「……わたしは藍ちゃんに嫌われちゃった?」
ぽつりと漏らされた言葉。震える声音で紡がれた言葉。
静かな湖面に投げかける小石のように、静寂の下の昇降口に揺らめいて消える。
響いた言葉は彼女の生の感情を伴っているようで、ああ、こいつも藍のことが大好きなんだな、と何をどう説明されることもなく、僕は理解してしまった。
「そんなことはない」
「……ほんとうに?」
希望に縋るような涙目で、芦原真優が距離を詰めてくる。
間近で僕を見上げて、赤い目を凝らすように瞬かせる。
それで僕が嘘をついていないことを理解したのか、ほっと息をついて体を離した。
瞬間に感じた撫子のような匂いの残滓が徐々に薄れていく。
「……嫌われたくないってことは、お前も藍のことが憎くて冷たくしたわけじゃないってことか」
「どうかな……、自分は憎んでるけど、憎まれたくない、そんな身勝手な思いかもしれないよ?」
「いや、それはない」
「……どうしてわかるわけ?」
「別に。理由なんかない。ただそう思うだけだ。ただそう感じただけだ」
「……謎い」
またその言葉を繰り返して、芦原は憮然とした顔を向ける。
「……お前が何を思って、そんな傷ついてまで藍と距離を置いているのか知らないけどさ」
「別に傷ついてなんて……」
「だったら、その涙目をもっと上手く隠せよ」
「……っ」
慌ててごしごしと目元を擦る。
化粧等はしていないのか、幸い、彼女の顔がパンダみたいになることはなかった。
「これはドライアイなだけ」
「……意固地だな。別にいいけど」
意地を張るのもいいが、藍の前でだけじゃなく、僕の前でもそうすべきだったな。
今見聞きした話を藍に伝えるだけで、彼女はきっとお前を見逃してなんてくれなくなるだろう。
今の藍はそういう女の子だ。
「お前が何考えてるのかはさっぱりだが、嫌われたくないのなら、せめてもう少し言葉を尽くして、気持ちを伝えてもいいんじゃないのか。黙ってるだけで理解されようなんて、やっぱり僕には理解不能なんだけど」
「……」
「……ほら、そうやって黙る」
「っ! うるさいなあ、もう!」
さすがに黙っていられなくなったのか。
睨むように声を上げた。苛立ちで顔が赤い。あるいは図星を突かれて恥ずかしいだけか。
「相田君みたいに、人の心を感じ取る神経が抜け落ちてるわけじゃないんだよ、あたしは」
「それなら、なおさらだな。人の気持ちがわかるっていうのなら、藍の気持ちだってわかるだろう。お前が傷ついたように、藍だって傷ついたさ」
「……っ。……そんなのわかってるよ!」
声を荒げた瞬間、ロッカーの陰からクラスメイトの女子三人組が現れて、急に大声を上げた芦原を一様に見つめた。さすがにそろそろクラスの他の奴らも下校するらしい。いつまでも無人のままということもないだろう。
三人の視線にたじろぐように彼女が脇により道を開けた。次いで射線の通った僕に三人組の訝るような視線が向けられる。
緋凪舞とその友人二人、といったところのようだ。
折悪く、こんな場面に遭遇してしまったらしい。
「……痴話げんか?」
ぽつりと言った緋凪は、不思議そうに小首を傾げ、さっさと下駄箱から靴を取り出し、履き替える。
隣の二人も僕と芦原を窺うようにしつつ、内履きをしまい、ローファーを引っかける。
そのまま、まとまった三人がなんとなく僕に責めるような視線を向けつつ、下駄箱の陰に消えた。
「……痴話げんかだよね、あれ」
「でも、相田って九々葉の彼氏じゃなかった?」
「つか、なんで昇降口でやってんだって話だけど」
そんな会話が遠ざかっていった。
「……」
「……」
気まずい沈黙が芦原との間に落ちて(いや、僕は全然気まずく感じてはいないんだけど)、どう声をかけるべきか迷う。
何も言えないでいる内に、ずっと手に持っていた革靴を地面に置いた彼女はそっと内履きを脱いで履き替えた。
「……」
黙ったままうつむいて、そのまま僕のそばを通り抜けようとする。
しかし、そうは問屋が卸さない。
僕がそんな手合いを完全に見逃すと思ったら大間違いだ。
「はい、すぱーん」
「……え……」
平手で頭をはたいた。女子なのでできるだけ軽く。
唖然として芦原が足を止め、再び、目を丸くする。
そんな驚き顔に、淡々と告げた。
「黙ったまま帰るな。せめて『さよなら』ぐらい言え」
「……ええー」
脱力するようにつぶやいた彼女が、次の瞬間に呆れ顔を向ける。
「相田君ってほんとなんなの?」
「なんでもないよ。空気の読めなくて、しつこいただの馬鹿だ」
「自分で言うことじゃないから」
はあ、とため息をついた芦原はもう一度脱力するように、大きく肩を落とした。芝居がかった仕草だ。
「さよなら。はいはいこれでいいんでしょ」
「ああ、また月曜な」
「……はあ。藍ちゃんはよくこんなのと……」
ぶつぶつ言いながら、彼女が去っていく。
さっきの頑なさはどこへやら、と言った様子だ。
「ま、こんなもんでいいだろう」
小さく独り言つ。
自分なりに人との向き合い方を模索してみたつもりだったが、あれは芦原に耐性があっただけで、誰に対してもああいう態度を取れば、冷たい目線で射抜かれるだけな気がする。
またぞろ、別にやり方を考えるべきだろうか。
「でも、まあ、そんなことよりも」
芦原真優が決して九々葉藍憎しで冷たい態度を取っているわけではないということがわかっただけでも、収穫だったと言えるだろう。
それだけでも僕が彼女に話しかけた意味はあったと言える。
「あとは藍の問題、なのだろうな」
百日言うところによれば。
「両想いなのに、すれ違うって青春してるなー、藍も芦原も」
どっちもお互いのことを想っているのに、喧嘩してるんだからなー。
「まあ、でも」
芦原真優は嫌いじゃない。
きっと彼女も不器用なのだろう。
上手く伝えることができずに悶えている。
たった一人で傷つけて、たった一人で傷ついていたわけだ。
「藍の言っているようなことは少しだけわかったかもな」
こうして一人一人向き合っていけば、誰に対しても何か感じるものがあるのだろう。
多かれ少なかれ、感じ入るものはあるのだろう。
それが良感情か悪感情かは置いておき。
「どうせ、今更僕に失うものなどないから、どんどんやっちゃえばいいのかもしれない」
失敗したところで、傷ついたところで、結局、それがなんだという話だから。
「まあ、でも――」
失敗しても、傷ついても、本当の意味で損なわれるものなんて、何もないのかもしれない。
失うものなんて本当に何も。
「――それを楽しいと思うかどうかは別問題だけど」