無駄だと思ったことすらきっと、無駄なんかじゃない
「あれ? 涼? 珍しいね。こんな朝早くに涼の方からわたしの家に来るなんて……」
十月二十日、金曜日。
いつもよりも三十分ほど早く家を出た僕は、学校近くの九々葉家までやってきて、軽く深呼吸を済ませた後に、そのインターホンを押す。
出迎えた制服姿の藍は、髪も身だしなみも整っていて、すでに登校する準備を済ませているようだった。
「いやあ、まあ、別に特別な心づくりというか、常の僕にないような特筆すべき、斟酌されるべき心情があるわけじゃないんだけどね。なんとなく、藍と一緒に並んで登校してみたいという気分に駆られたんだよ」
「……うん? ほとんど何を言っているのかよくわからないけど、最後の一文だけで、言いたいことはよくわかった。じゃあ、一緒に行こっか」
「身支度は大丈夫?」
「うーんと、ちょっと待ってね」
一旦、家の中に引っ込んで、腰に巻いていたエプロンを取り去り、代わりに深い藍色のリュックサックをひっさげて出てきた藍がそのまま玄関の扉を施錠する。
「家、誰もいないんだね」
「うん。お母さんとお父さんはいつも大体わたしよりも早く出勤するし、お姉ちゃんは夜、帰ってこないこともたまにある」
「ふうん」
適当な相槌を打ってみせると、デフォルメされた猫のキーホルダーがくっついたその鍵を藍はリュックサック脇の小さなポケットにしまい、僕の方を見上げて笑う。
「朝一番に涼の顔が見られるなんて、今日は良い日になりそう」
「……そうであることを祈ってるよ」
不意打ちのようにそんなことを言われると、さすがの僕もまともに目線を合わせていることができない。
目を逸らし、涼しい風の吹く閑静な住宅街を眺めながらそうつぶやくと、ぎゅっと彼女が腕に抱きついてきた。
右腕全体を包み込むように、藍の体温を感じる。
「照れてる照れてる」
「……照れてはいないよ。気恥ずかしいだけ」
「それを照れてるって言うんでしょ」
「……かもね」
「ふふっ。なんか、今日の涼、ちょっと変かも」
「変? どの辺が?」
「なんか、いつもより落ち着いてるって感じ?」
「……」
さすがは藍だ。
僕の微細な心情の変化を、些細な態度の違いからつぶさに感じ取ってくる。
彼女に自分を理解されているということを、己が心で理解することがどこか嬉しく、どこかこそばゆい。
完全にあり得ないたとえであることを前提として言うならば、たとえば、僕が他の女子にうつつを抜かしていれば、どんなに僕自身がそれを隠そうとしても、彼女は看破してくるのではないだろうか。
僕自身でさえ気づかない変化を彼女なら感じ取ってしまう気がする。
そんなの幻想に近い思い込みで、人がそれほどの深度で誰かのことをわかるなんてできやしない、とそう思う自分もいるのだけど、同時に、藍ならそんな風に自分をわかってくれるんじゃないか、と思ってしまう。
そう思ってしまうことが、あるいは僕の甘えなのだろうか。
「……あのさあ、藍」
「なあに? 涼」
「このままじゃ、とても歩きにくいんだけど」
未だ腕に引っ付き続ける彼女を引き剥がすように右腕を動かしつつ、揺り動かした肘で見た目以上にやわらかい彼女の体の感触を感じてしまいつつ、軽く言い淀むように口にする。
朝からいけない考えが頭に上ってしまいそうだ。
「……歩き難きを歩こうよ」
「いや、そんな有名な一節をもじって持ち出されても……」
「そんな風に嫌がるような素振りを見せつつ、実は涼は心の中で喜んでいたり?」
「……さあて。真実は闇の中」
「ふぅん?」
どこか勝ち誇るような笑みを浮かべた藍が珍しく、疑うような目線で僕を見る。
そのまなざしに、冷たい指で背中をゆっくりと撫でられるような妙な感慨を感じつつ、どうにか藍の体を振りほどくことに成功した。
離れた彼女が残念そうな表情をしている。
「この時間で学校に遅刻することはないと思うけど、公衆の面前でこれ以上イチャつくのもどうかと思うんで、もう行こうか」
「しょうがないなあ、もう」
それでも、完全に離れてしまうのはどこか名残惜しいとばかりに、右手を差し出した僕を呆れた表情で見つめて、彼女がその手を取る。
焦るでも逸るでも急ぐでもなく、そっと、歩き出した。
「ひとつ、藍に訊いてみたいことがあったんだ」
徒歩五分の道のりを惜しむように、ゆっくりとしたペースで二人、歩く。
今日は実行委員会の集まりがあるわけでもなく、朝を急ぐ用事もないようなので、時間を気にせず、藍との時間に耽ることができる。
もっとも、それ以上に今の僕には彼女に尋ねておきたいと思うことがあった。
「訊いてみたいこと?」
「うん。ちょっと、最近、思うところがあってね」
変わりたい。
そう感じるようになったのだ。
いつしかそんな風に感じるようになった。
我関せずとばかりに、自分が気に入る他者以外の他者を、流れる浮雲のように見過ごしてきたこの僕が、それでも、変わり続ける彼女らを見て、変わりたいと、そう感じてしまっていた。
誰のためでもなく、誰かのためなんて、僕にとっての虚飾の理屈ではなく、ただ自分自身のために。
誰かのためという想いが間違っているなんて思わない。
誰かのためという理念が過っているなんて思わない。
ただ、なんというか、上手く言葉にできる気がしないのだが、自分のために自分を幸せにし、満たされた自分で以って誰かを幸せにする。
そんな在り方が基本なんじゃないかなあ、と思うのだ。
それで以ってきっと、自分のためというのは自分さえよければいい、という話ではなくて、誰かのために動ける自分を以って、自分を幸せだと定義する、というような……、本当に上手く言えなくて、もどかしくてたまらないのだが。
「藍は昔の自分を思い返してみて、それから、今の自分を客観的に見つめてみて、それをどう思うのかなって」
「……昔の自分って、それは入学したての頃のわたし?」
「それだけじゃなくてもいいよ。それよりもずっと前の、今こうしている藍の姿なんて、想像だにできなかった頃の藍を思い返してみて、どう思うのかってこと」
「……」
手をつないでいるのとは違うもう一方の手を、握っては開き、握っては開きして、記憶を回転させるようにした彼女は、心のうちにある疑問をそのまま形にするように、やがてぽつりと漏らす。
「どう思うのかっていうのは、具体的に、昔の自分を肯定できるのか、っていうことでもいいのかな?」
「……それでもいいよ。とにかく、僕が訊きたいのは、そういう風に大きく変わるっていうことが藍の中で、藍の心の中で、どういう風にとらえられているのか、っていうことだから」
「……わたしの中で?」
開いた右手を胸の前に持ってきて、もう一度握りしめる。
数瞬後、ゆっくりと解けた彼女の手の平は、白く小さく、無垢な色を湛えていた。驚くほど綺麗な手だ。
「あのころのわたしは控えめに言ってもつんけんしてるなんてレベルじゃなくて、周りに毒をまき散らすほどに有害な人間だったって気もするけど、でも、同時に、今のわたしから見て、やっぱり無駄なんかじゃなかったのかなって思う」
「……」
「たしかにいろいろと間違っている部分は多かったんだけど、そんな自分を経てきているからこそ、今ここにいるわたしが感じ取れたこともあったし、わかったこともあった。決して、何一つとして無駄じゃなかった。無駄なものなんてなかったんだな、って思う」
白い手の平を見つめる彼女の瞳は透明で、色がなくて、同時に秘めた途方もない熱に満ち溢れていた。
「無駄だと思うこと自体が無駄なんかじゃなくて、百回無駄だと感じたそのことが百一回目には意味があったと感じられるかもしれない。そうして、その百一回目に辿り着いたとき、百回無駄だと感じたからこそ、その意味を他の誰よりも理解できるのかもしれない。無駄なことをしていると、自分の心に刻みつけた年月があるからこそ、今をより大事にしようと思えるのかもしれない。わたしはそんな風に思うよ」
「……無駄じゃない」
「うん。無駄じゃない」
つぶやいた言葉をおうむ返しにした彼女は僕と目を合わせ、喜色に満ちた微笑みを湛える。
「無駄だと思った自分の想いは、無駄なんかじゃなかったとわかるためにあって。今のわたしは、昔のわたしがずっとずっと無駄だと思っていたこと、駄目だと思っていたこと、嫌だと思っていたことを乗り越えてここにいる。乗り越えて今がある。だから、きっと、あんなわたしにも意味があったんだなってそう思える」
単純なことだけどね、と藍は笑う。
「別にさ。大きな意味なんてなくていいのかなあ、って。昔の自分とか、過去の自分とか、後悔とか懺悔とか、時間軸の無常に馳せる想いっていっぱいあるけど、結局、後悔を抱えて時間を巻き戻したところで、同じことか、あるいはもっとひどいことをやらかしてしまうような気もするし。だから、別に大きな意味なんてなくたっていいんだよ。どん底みたいな経験に、大きな意味がなくたっていい。今日の天気が快晴なのはとっても幸せなことなんだ、みたいなとてもとても単純なことをわかるために、大きな挫折があったっていい。その分だけ、単純なことを強く思えるようになるのなら」
僕の隣で空を見上げる小さい少女は、背丈のでかい僕なんかよりもずっとずっと大きい。
ずっとずっと大きい視点を持っていると、僕はそう思った。
手をつなぎ、歩く傍ら、想いを馳せるそのスケールはなんだかとっても大きいなあって。
「涼がどうしてそんなことを訊くのか、わたしにはわからないけれど、でも、これだけは言えるよ」
九々葉藍は、相田涼の問いに、心底からの幸福を映した、陶然とする微笑を浮かべて、柔らかく言結ぶ。
「わたしは過去の自分に後悔なんてありません」
だからそう。
こんな風になれるのなら、変わってみるのも悪くないか、と。
そう思えるのだった。