What should I do?
その日の放課後。
授業終了のチャイムとともに、三々五々クラスメイトたちが疲労感の滲むため息とも開放感を含む雄たけびともわからぬ声を挙げ、本日の授業は終了となった。
最後の七時限目は数学であり、次数の大きな因数分解についてやっていたので、脳みその疲労度もひとしおだ。
「おつかれー、藍」
「あ、うん、ありがとう」
今日一日のもろもろを含めた労いの言葉を右隣の彼女にかけると、藍が薄く微笑んで答えた。
それに僕を挟んで栗原が賛同する。
「ほんと、おつかれだよー。よくがんばった」
「……るり、ありがと」
より微笑みを深めて、にこりと笑って彼女は応える。
僕のときよりよほど表情豊かに笑っているのが、なんだか微妙にもやもやするが……、まあ、いいだろう。ここはがんばった藍の気持ちが優先されるべきところだ。僕がどうこう言えることは何もない。
それに、女同士の友情というのはかけがえのないものなのだろう。色恋とはまた別のベクトルで。
「実行委員の会合とかはまだないんだっけ?」
「うん、明日から本格的に活動を始めるみたい……、って先生が言ってた」
「そっか。じゃあ、今日はまだ暇だね」
「そうだね」
荷物をまとめ、鞄を肩にかけた栗原が立ち上がりながら僕を見下ろす。
「じゃあ、相田君。あとはよろしく」
「……は? 何が?」
「藍ちゃんのフォロー」
「フォローって……、なんのだよ」
「それはほら、がんばった藍ちゃんを好きなだけ甘やかしてあげる的な?」
「……そういう意味か……」
そんなことを栗原から言われるとは思わなかったな。
いろんな意味で。
なんとなく藍の方に目を向ける。
きょとんとした表情の彼女とばっちり目が合って、じっと見据えると彼女は照れたように頬を染めて目を逸らした。
「……べ、別に大したことしてないんだから、そんなの気にしなくていいよ……。実行委員の仕事なんてまだまだこれからなんだし」
「その割には藍ちゃんが頬が緩んじゃってますねー」
「そんなことないからっ!」
「またまたー」
からかうように言った栗原は、「それじゃあ、わたしはちょっと、人と会う約束あるから。あとは二人でねー」と手を振り振り、教室を後にする。
「……それでまあ、何か僕にしてほしいことでもありますか、っと」
「……え、ええと」
残された僕は言われた通り、愚直にそう提案する。
戸惑うように髪を櫛櫛した藍は、うーんとひとしきり考えて、それから微笑んで言った。
「とりあえず一緒に帰ろ?」
「……ま、そんなところだろうね」
荷物を手に取り、立ち上がった。
昇降口に至る。
靴を履き替えながら、改めて思い直したのか、訝るように彼女がつぶやく。
「ていうか、元々わたしが涼のためにやっていることなのに、それがまだ始まったばかりのうちから涼に何かしてもらうのってどうなんだろう……?」
口にした疑問は状況から見て、ひどく的を射たものだと言えるだろう。
冷静に考えれば、たしかにそうだな……。
「まあまあ、別になんでもいいよ。これから実行委員の仕事が始まったら、一緒に帰るとか、そういうことまるでできなくなるかもしれないし。僕としては藍とこうして仲良く下校できるのなら、それに越したことはないというか……」
「……うん、そうだね」
言うと、小さく頷いた藍が口元で薄く笑う。
何ら気負ったところのない、心からの気持ちをその通りに表現しただけの彼女のその微笑みが、どうしようもなく好きだと、なんとはなしに思った。
普段にない日常の中で気を張り、勇気を振り絞り、誰かのために行動した後に、こうして何の強張りもなく笑えるのなら、きっと彼女は大丈夫だろう、とそう思った。
「どうしたの?」
ぼーっと彼女を見つめる僕に何を思ったか、不思議そうに首を傾げた藍がこちらを見上げるようにそう訊いてくる。
なんでもないと首を振って、いや、そうでもないか、と思い直す。
「いや、なんていうか、やっぱり藍は今日も超かわいいな、と思って……」
「……っ! な、なに急に……、さっきるりにああ言われたからって、べつに無理してほめてくれなくていいから……っ」
「無理なんかしてないよ。心からの本心。僕の前で心のままに笑ってくれる藍は世界一かわいい、っていうただそれだけの当たり前の本心」
「……な、なっ……」
顔を赤くした藍は言葉もなくうろたえて、やがて自分を落ち着けるようにその薄い胸にちっちゃな手を置いた。
「……平気な顔してそういうこと言うんだから……、涼は卑怯」
「そこは素直と言ってほしいね」
「……もう」
くす、とわずかに笑った彼女が照れた色が流れるようにまた、柔らかな表情を見せ、すっと僕の方に手を伸ばしてくる。
「ほら、行こ」
「……うん」
その手を取った僕はゆるりと歩調を合わせるように歩みを進めた。
小柄な藍に寄り添って歩幅を合わせるくらいのことは僕にだってできる。
徒歩五分の藍の家への道すがら、並んで歩く彼女に少し訊いておきたいと思ったことを訊いておくことにした。――ちなみに自転車は学校に置いてきている。帰るときにはまた学校に戻ることになるが、徒歩五分なのでほとんど問題にならない。今は藍と二人で並んで歩きたい気分だったのだ。
「緋凪舞……だっけ?」
「……」
「あいつとなんかあったの?」
さきほどのロングホームルームで、妙に彼女に突っかかるような態度を取っていた女子生徒の名前を出すと、すぐに彼女は強張った表情を見せた。
けれど、僕の顔を見てふっとそれを緩めて、困ったように眉根を寄せる。
「……話してもいいけど、変なことはしないでね、涼」
「僕が変なことをしないような内容なら、それは言うまでもないことだね」
「……うーん」
悩むように喉から唸り声を上げた藍が「まあ、いっか」と彼女らしくなく投げやりにそうつぶやく。
「入学当初のね。冷たかったわたしのこと、憶えてる?」
「それはまあ……。第一印象は強烈ではあったよ」
最初の彼女を思い出して、疑問の余地の感じられない徹底した拒絶がそこにはあったとそう思う。
それでどうして僕は彼女に関わり続けることを選んだのか、客観的に見て上手く説明できないくらいには。
「あのときのこと、たまに言われるの。……前はあんなだったのに、今はなんだか調子に乗ってる、みたいな風に」
「……」
そうか。
たしかに何の関わりもないクラスメイトから見れば、いや、一度拒絶を受けたようなクラスメイトからすれば、そいつの性格にも依ると思うが、彼女がこうしてクラスの中で着々と立場を築きつつあることが面白くはないのかもしれない。
近場にいる僕には喜ばしいことでも、そうではない人間からすれば、それは苛立つような出来事なのか。
「……涼、顔怖いよ? 変なこと考えてないよね?」
「顔が怖いのは生まれつき。もちろん、考えてないさ。よからぬことは何もね」
「なら、いいんだけど……」
釈然としない面持ちで答えた彼女がつないだ手をぎゅっと握り直してくる。
そのすべすべとした感触と温度に心を持っていかれるとともに、少しだけ頭を過った考えを心の中にしまっておいた。
「……そういうあまり歓迎したくないことを言ってくるのが主に緋凪、ということか」
「……そうだね」
歓迎したくない、というところに同意するように頷いて、彼女が答える。
自分に厳しい部分も持ち合わせている藍のことだ。そういう批判を受け入れるのも大事なことだ、とか思っているんだろう。悪いのは冷たい態度を取った自分自身だから、決して言い訳はできないと。
その気持ちを推し量ったから、僕はあえて言葉を濁した。歓迎したくない、などと婉曲な言い回しを。
「はあ……」
「……涼?」
大げさにため息をついてみせると、藍が疑問を孕んだ目線で見上げてくる。
「そんなあからさまな敵がクラスにいて、実行委員としてクラスをまとめるなんて、ほんとめんどうくさそうだなあ、と思ってさ」
「……それは」
「僕なら絶対やらないね」
「……涼は、そうだろうね」
「藍は、ちがう?」
「……もう、決めたから。後戻りはしない」
「……」
決意を宿した瞳に僕は小さく息を吐く。
空を見上げると、十月の空は青色と灰色が混濁していて、爽快と言うほど晴れ渡っているわけではない。けれど、雲間に見える涼やかな空の色は濁った灰色よりもよほど美しく見えた。
しばらく話をしながら歩いて藍の家までたどり着く。
上がっていくか、と問われて、今日は遠慮する、と答えて帰る。
「じゃあ、また明日ね」
「うん。また明日」
ばいばいと手を振って、さっきまでいた学校へと元来た道を引き返す。
孤独に一人で引き返す。
「……状況は複雑だなあ」
藍には藍のやりたいことがあって。
栗原には栗原の思うところがあって。
百日には百日のやらなければならないことがあって。
それ以外のクラスメイトたちにもそれぞれの気持ちと思惑と、考えがあって。
文化祭なんて、子どもの遊び。
仕事でも商売でもやりたいことでも義務でもなく、何もかもが中途半端で、取り組む者によってもモチベーションの違う社会の厳しさも知らないモラトリアムの学生の祭り。
そう感じる冷めた一面があるとともに、それでも、それなりの数の人間が真剣に取り組むのであれば、やはりそこには価値が生まれるのかなあ、なんて思ったりもする。
さまざまな人間の思惑が絡まり合って、少しずつ、文化祭が近づいていく。
「さてさて」
僕は一体、どうしようかな。
そう、深く、考えた。
空は混濁している。