正しくない正論
六時限目、ロングホームルーム。
今日のホームルームでは、各クラス一人ずつ、文化祭実行委員を選出することになっているらしい。
男女各一人選ばれた、一学年計十人、三学年計三十人が、文化祭の運営に携わっていくことになるようだ。
根暗な人間性を有する僕のような生徒にとっては自らその役割を果たそうだなんて到底思うことができない、そのちょっとどころではない面倒事に、自らの意思で藍が立候補する。
見守るしかない僕としては、どんな思いでその光景を見つめればいいのか悩むところだ。
彼女を支えたい、無理をしないでほしい、そんな気持ちがあるのなら、僕が男の方の実行委員に立候補し、できることをすればいいのかもしれないが、それについては藍自身からさきほど明確に釘を刺された。
僕がやろうと言い出すとは思わないけれど、そんなことはしなくて大丈夫だから、と。
実際、藍のためという理性的な理由があったとしても、感情はまったく動かない。
そんなことはどうなったってやりたくないと。
なぜならやりたくないから。
嫌だから。
心が拒絶反応を示すから。
どうしてそんなことをしなくてはいけないのか。
そう思ってしまうから、理性で心を殴りつけて、義務感と使命感で行動することなど僕にはできそうにない。
なぜ心から嫌だと感じることをやらなければいけないのか。
なぜ望んでもいない仕事に身をやつさなければいけないのか。
なぜ状況はそう移ろっていくのか。
それでもやらなければいけないときはどうしたってあるのだろうが、少なくともそれは今ではないだろう。そういう気持ちだった。
教室に担任教師――鈴見台弘善という――が足を踏み入れてくると同時、日直が起立、礼と声をかけ、ロングホームルームが始まる。
「みなもわかっていると思うが、今日は再来週に迫った文化祭の実行委員を決めてもらう。男女各一人ずつだ」
彼が話を切り出すと同時、なんとなくクラスメイトの幾人かの視線が隣の藍に集まっていくのを感じた。
昨日彼女が実行委員に立候補すると宣言した手前、当然の成り行きかもしれない。
藍は若干身を固くしながらも、毅然と前を見据えていた。
「立候補がなければ、推薦や相談で決めることになる。高校に入ってから初めての文化祭だ。積極的にチャレンジしてみるのも面白いと思うぞ。失敗したって、誰も文句は言わないだろう。みんなでカバーし合えばいい。とりあえずまずは訊いてみるか」
クラス全体を見回すようにした鈴見台はおもむろに口を開く。
「誰か立候補したい者はいるか?」
彼のその言葉に、左の栗原が壁となっている僕を避けるようにして藍の方を覗き込み、それに藍が目を合わせ、小さく頷く。
それから彼女はクラスのその他の面々を見回し、ゆっくりと息を吸って、吐く。
小さく細いその腕を伸ばして手を挙げた。
それを見とめた鈴見台が小さく目を見開くのがわかった。
「お、九々葉。やるのか」
「……はい」
「……他に立候補はいるか?」
何か藍に言おうとしてやめたらしい彼が、再びクラス全体を見回すようにし、誰からも反応がないことを確認する。
「いないようなら、女子の方は九々葉で決まりになるが、本当に誰もいないんだな?」
鈴見台の言葉に特に反応はない。
事前にクラス会で根回しを済ませているからだろう。やる気になっているらしい藍を抑えてまでやろうという気概のある者はいないようだ。
「じゃあ、女子は九々葉で決定だ。大丈夫か? やれるな?」
「はい。大丈夫です」
藍を慮るような言葉に、彼女が力強く頷きを返す。
その態度に満足したように鈴見台もまた深く頷いた。
「よし。それで男子の方だが……」
藍に続く立候補を求めるように彼が男子一人一人に目線を贈るが、誰も手を挙げる者はいない。
「ふむ……。男子の方は立候補なし……か。いいだろう。推薦か相談だな。誰か推薦したい者はいるか?」
試すような視線を男子の方に向ける鈴見台に、今度は返答があった。
「は~い。雄哉がいいと思いま~す」
「……は? お前、何言ってんだよ……」
園田が天城を推すようにテンション高く手を挙げ、それに未だ昼休みの一件を引きずっているらしい天城がドスの利いた低い声で不機嫌に答えた。
「いや、誰もやらないなら、面倒なことになる前に雄哉をスケープゴートにしておこうかと……」
「ふざけんなよ、お前。それならお前やれ」
「えー、いや、俺は……」
不愉快さを隠そうとしないように言う天城に、園田が言い淀む。
それを見かねたように、鈴見台が先を引き取った。
「天城に園田だな。他にはあるか?」
「いや、先生ちょっと、俺は……」
「推薦だからな。仕方ない」
「……えー」
小さく不満の声を漏らした園田だったが、なんとなくやりたいというだけで、そこまで心底嫌がっているというわけではなさそうだった。
黒板に二人の名前を書きつけ、淡々と鈴見台が進行する。
「それで、他にいないのか?」
「あ、先生、ちょっと訊いてもいいですか?」
「なんだ。百日」
停滞したような雰囲気の中、僕の前の席の女が空気を読む気のないような馬鹿っぽい声を上げる。
「女子が男子の推薦してもいいんですか?」
「……あー、なるほど、そういうことか。まあ、いいんじゃないか。クラスの実行委員を決めるわけだからな。男女別でやるわけじゃない。別に構わないぞ」
「そうですかー、なるほどー」
しみじみと噛みしめるように一拍おき、クラス中の注目を集めた金髪が「んー、そっかー……」とクラス中に聞こえるような声音で意味深につぶやく。
鈴見台が当然のように訊き返した。
「誰か男子で推薦したい者でもいるのか? 百日」
「あ、いえね。別にそこまで推したいというわけでもないんですけどね。やる気のある人そんなにいないんなら、暇そうだしやってもいいんじゃないかと愚考してみたり……」
「回りくどいな。で、誰を薦めたいんだ?」
「斎藤君」
「は!?」
突然名前を出されて素っ頓狂な声を出したのは、トムだった。
「お前、何勝手なことを……」
「推薦なんだから、別にいいじゃん」
「そういうことじゃなくてだな……」
痴話喧嘩でも起こりそうな雰囲気だったが、一方の百日は澄ました態度で一切の反論を受けつける気はないようだった。
「……斎藤だな。わかった」
言い募るトムを無視するように、彼が黒板に『斎藤』と付け加える。
それに何か言いたげな顔をしたトムが結局、何も言えずに浮かした腰をまた落ち着けた。
「他には?」
それ以上は意見が出ず、黒板を眺めて鈴見台が腕を組む。
「天城に園田に斎藤……か。多数決でも取るのがいいのかもしれないが、話し合いで済むのならその方がいいだろう。この中でやっても構わないという者はいるか?」
「俺は無理」
その問いに端的に天城が答え、園田がそれに続いて答える。
「……俺は別にいいですけど」
「斎藤はどうだ?」
黙して俯くトムの方に彼が話を振る。
「え、いや、あの……」
彼の席は僕の右斜め前方の方向なので、トムが何をやっているのかはこちらからはつぶさに見えたのだが、彼はポケットからはみ出させるようにしてスマホをいじっていた。そして、僕の目の前の席でも、机の陰に隠すようにしてスマホを触っている女が一人。
「や、やりたいです。僕」
「……ん?」
「いや、あの、実行委員やっぱやりたいです。僕」
「……急にどうした? さっきはずいぶん不満そうな様子だったじゃないか」
「き、気が変わって……、想像してみたらずいぶん楽しそうだなって……」
「……そうか? まあ、やりたいというのなら、別にいいんだが」
釈然としない面持ちで、彼が首を傾げる。
まあ、事情を察した僕からすれば疑問はないが、急な態度の転換に困惑はするだろう。自分のこと、僕とか言ってるしな。
それでも流れとしては大体定まってきたのはたしかで、そうなるとあとは必然的に園田に話を持っていくことになる。
「斎藤はこう言っているわけだが、園田はどうだ? どうしてもやりたいというのなら、やはり多数決になるが……」
「あ、いえ、俺は別に。誰もやらないならやってもいいかも、とは思いますが、やりたい人がいるんなら特には……」
「……ふむ」
納得のいかないような声音だったが、それでも、結論は出たと言えるのはたしかだ。
「それなら、男子の方は斎藤で決定でいいか。……本当に気持ちは変わらないんだな?」
念を押すように言って、斎藤が即座に答える。
「……は、はい。ほんと、心から実行委員やりたいな、って常々思ってたんです! ほんと!」
「……ま、まあ、そこまで言うなら別にいいんだが」
常々思ってたなら立候補しろよ、とクラスの誰もが思っただろう。
とにかく、と、空気を変えるように鈴見台が咳ばらいをする。
「これで実行委員は決まったな。男子は斎藤、女子は九々葉だ」
なんとなくぱちぱちと拍手が起こる。
「それで、だ。ここからが本題なわけだが。クラスでどんな出し物をするか。それを決定する必要がある。実行委員としての最初の仕事だ。斎藤、九々葉、前に出て決めてくれ」
「あ、は、はい……」
「……はい。……はあ、なんでこんなことに……」
藍が強張った表情で控えめに返事をし、斎藤は何やらぶつぶつ恨み言をつぶやきながら、前に出た。
鈴見台は後はすべて任せるというように、隅の方でパイプ椅子に腰を下ろし、腕を組んだ。
「え、ええと、じゃあ、文化祭で何をやるか、決めたいと思います」
「思いまーす」
かしこまって言う藍に、気だるげにトムが追従する。
「何か……、案のある人はいますか?」
自信なさげに質問を投げかける藍。
仕切り役のテンションが上がり切らないのは盛り上がりにかけて意見を言いにくいんじゃないかと、冷静に状況を見つめる中で、さすがにそこは根回しがされているらしく、いの一番に珠洲紗友里が手を挙げた。
「はい! まずは飲食系にするか、それ以外のお店系にするか、それとも出し物にするか、で多数決を取るのがいいと思います!」
「な、なるほど……」
控えめな藍の代わりに無理やり雰囲気を明るくするように彼女が言い、それに藍が納得したように相槌を打つ。
珠洲の意を汲んだように、トムが腕を組む鈴見台に訊いた。
「先生。例えば、ダンスかなんかをクラス単位でやるってなったときは場所はどこでも自由に使えるんですか?」
「……どこでもとはいかないな。事前に実行委員会の方で話し合ってもらって、各クラスで時間と場所の被りがないように調整してもらうことになる。その上で学校側の許可が出れば実際に行える。……うちはそんなに厳しい学校ではないから、大抵のものは許容されるとは思うが、公序良俗に反するようなものは当然だめだ」
「……ていうと?」
「…………具体的にはちょっとすぐには出てこないが、怪我人が出る可能性が高いものや過度に露出するようなものは難しいだろうな」
「……まあ、そんなもんですか」
「そんなもんだ」
オウム返しに彼が答え、トムがこちらに向き直る。
「……ていうことを踏まえて、めんどくさい調整に駆り出されるこっちの身を考えた上で、さっきの三択に手を挙げてもらえるとありがたいですね。っていうところで、九々葉」
「あ、うん……」
ぱちぱちと目を瞬いて、嫌々だったはずなのに意外とそつなくこなしそうな雰囲気を出すトムに驚き顔を向けつつ、藍が軽く声を張る。
「えっと……、じゃあ、珠洲さんが言ってくれたように、大まかにどういう感じのことをやるかっていうのをまず多数決で決めたいと思います」
それから一つずつ、挙手を求めていく。
飲食、その他店、出し物系、と黒板に書いたその下に正の字で人数を書き込んでいった。
まとめると、飲食:16、その他店:14、出し物系:5といった割合に別れた。
めんどくさがりのトムが釘を刺したおかげかは知らないが、出し物系は人気が少なく、残りの二つにクラスの四分の三の挙手が集中することになった。……五人くらい手を挙げていない気がするのはなぜだろうか。なぜだろうな。ちなみにそのうちの一人は僕だ。
「あ、じゃあ、えっと、飲食で……」
「普通、こういうときは上の二つ抜き出して決選投票じゃない? 僅差なんだしさ」
藍が結論を出そうとしたところで、とある女子からそう声が上がる。
声の上がった窓際後方の席に目を向けると、校則に触れないギリギリ程度に髪の色が明るめで、スカート丈も他の生徒よりは若干短い、見た目軽そうな容姿の女子がそこにいる。
名前はまったく思い出せないが、それなりにクラス内で発言力を持っている人間だったと記憶している。
栗原が比較的控えめな落ち着いた魅力でクラス内の人気を有しているとしたら、こっちは堂々とした態度とカリスマ、あとよく回る頭で人望を集めているように見えた。
取り巻きの人数も多く、何かと目立つところがある。
その割にはどうしてか、クラス会には呼ばれていなかったようだが。
恐る恐るといった表情でその女子の方に目を向け、彼女と目を合わせた瞬間、藍の瞳の中に激しい怯えが過ったのを僕は目の当たりにした。
それを押し隠すような様子もなく、少しどころじゃなく震えた声音で彼女は答える。
「……あ、う、うん、そうだね。緋凪さん」
当然ながら、藍はその女子の名前を記憶していたようで、どうやら彼女は緋凪というらしい。
緋凪某(下の名前はまだ判明していない)はピンと張った背と猫のように吊り上がった目で、壇上で肩をすくめて怯えた様子の藍を見据えている。見ようによっては威圧しているような態度に見えなくもない。
「そうだねって何? するの? しないの?」
「あ、し、します……け、決戦投票……だよね?」」
「さっきそう言ったじゃん。別に九々葉が少数の意見切り捨てて好き勝手に実行委員やりたいって言うなら、止めはしないけどさ」
「そ、そんなこと……」
「そんなこと、なに? 最後まできちんと言ってくれないとわかんないんだけど。これだから陰キャは」
侮蔑するように吐き捨てて、話は終わりとばかりに緋凪は腕を組む。
なんだかその仕草が妙に堂に入っていて、クラスの空気が自然と重くなったように感じた。
時間でも止まったようにぴたりと動きを止めている藍は、たぶん、心の中でものすごーく傷ついているのだろうな、と僕は思い、わざわざ晒し上げるような言葉を口にした緋凪に沸々とした苛立ちを覚える。
けれど同時に、頭の片隅で、大体そんなに間違った意見を言っているわけではないということも理解する。一面では正しさを持っていると。
ただまあ、正しい理屈を口にしたところで、その理屈を何のために口にしたのかという行動理由そのものは間違っている可能性もあるのだが。
「……もー、そういうこと言っちゃだめだっていつも言ってるじゃん、舞」
重苦しい沈黙が場を支配するよりも一瞬早く、ことさら明るい声音で栗原が口を開いた。
こちらに首を向けた緋凪舞(下の名前が判明した)は、睨むように目を細める。
「あいつの肩持つの? るり」
「肩持つも何もないよ? わたしはみんなに優しいるりちゃんだから。誰の味方でもありません。困っている人を助けるのがわたしの仕事。ほらほら、藍ちゃんも固まってないで。進行進行。舞みたいな口悪いのの言っていることなんて相手にしちゃだめだよ。まともに取り合ってたら耳が腐っちゃうんだから」
「……お前の方が言っていることひどいだろ」
呆れたように苦笑して、低い声で突っ込みを入れる緋凪に、くすくすと小さく笑ったのは栗原の友人二人、珠洲と末長だった。
それに助けられたのか、はっと我を取り戻して、再起動を果たした藍は深く息を吸って、それから吐く。
前を向いた彼女の面に滲む悲哀は大分薄くなっていた。
「……えっと、じゃあ、もう一回挙手をお願いします」
もう一度飲食とその他店で決を採り、今度は僕も手を挙げる。
最終的に飲食になることが決まった。
「……今度は具体的に何にするか、ですね」
少しだけ気持ちが落ち着いてきたのか、口調が明るくなりつつある藍に、栗原や珠洲を中心にクラスの面々も協力する。
その後の話し合いによって、このクラスでは、クレープ屋をすることに決まった。
栗原の助け舟以降、特に余計な口を挟むこともなく大人しくしていた緋凪舞だったが、それでも、藍を鋭く睥睨する目線だけは、ロングホームルームの間中ずっと、少しも変わることがなかった。
一見して正しいことを言っているように感じられても、その正論を口にした意思の根元に他人を傷つけるような成分が含まれているのなら、正論を口にするというその行為は間違っているんじゃないかなあ、と思います。