甘さ・優しさ・強さ・厳しさ
教室に入ると、まるでそれを待っていたかのようにぱっと顔を上げた藍が、僕を見て泣きそうな顔をした。
その切羽詰まったような様子に面食らい、昨日の今日でいきなり何かあったのかと勘ぐりをする。
後ろについてきていた百日も、僕の肩からひょっこりと顔を出して、目を丸くしていた。
「……どうかした?」
「え、えっと、その……」
藍のかすれた声に胸を揺さぶられ、こちらを見上げる小動物のような瞳に保護欲をくすぐられる。
なんて声をかけようか。
そう考えて、僕の目の前の席に鞄を置いた百日と目が合う。
彼女は小さく首を振った。
残念だが、その意図は昨日彼女の話を聞いた僕には理解できてしまった。
それでも、話を聞くぐらいはいいんじゃないかと、僕は努めて優しい声音を絞り出す。
「何かつらいことでもあった?」
「……つらいことっていうか……」
それから藍はそっと教室内を窺うように見て、そこに見つけられるべき誰かがいないことに安心したように胸に手を当て、ぽつぽつと語り出した。
朝、いつものように一緒にいる友達と挨拶を交わしたこと。
芦原だけ様子がおかしくて、まるで藍の存在を無視するみたいな態度を取っていたこと。
理由を訊いても何も教えてくれずに、でも、態度だけは全然変わらなかったこと。
しばらくして不機嫌そうに、彼女は教室を出て行き、他の二人もどこか気まずそうに自分の席に戻っていたこと。
言うなれば、それはやはりすれ違いというところらしい。
「わたし、芦原さんに何か悪いことしちゃったのかな?」
「……さあ、それは僕にはわからないけど……」
「……そう、だよね」
「でも、話を聞く限り、芦原は聞いても何も答えてくれなかったんだろ? だとしたら、何も言わないで藍に気持ちをわかってもらおうなんてそんなの虫が良すぎ――」
「――藍ちゃんが悪いよ」
「……え?」
「は……?」
僕が半ば、慰めるような言葉を口にしようとしたとき、その想いをまったくはねのけるかのように、百日が鋭い口調でそれを遮った。
「芦原真優は藍ちゃんだけを無視して、藍ちゃんだけを露骨に避けるようにしていたんだよね? 彼女は原因もなくそんな態度を取るような人間にも思えないし、だからきっと、藍ちゃんの今までの態度や行動のどこかに理由があったんだと思うよ」
「……やっぱりそうなのかな……」
沈んだように答える藍。
その様子に小さくない苛立ちを感じ、詰問するような目線を百日に向ける。
彼女は涼しい顔で僕の目線に応えて笑い、口元をチャックで閉じるような仕草をした。
余計な口出しはするな。
それは藍の問題だ。
態度で彼女はそう言っているように思われた。
「何があったのかボクらにはわからないけど、藍ちゃんがしたことが原因なんだから、藍ちゃんがなんとかしなよ。ボクらが横からとやかく言えることじゃない。相談には乗るけど、それだけ。余計なことはできないよ」
さらに僕が言い募るよりも早く、釘を刺すようにそんなことを藍に言う。
藍に言っているようでいて、彼女を励まし、彼女を奮い立たせるように言っているようでいて、その実、僕に言っているようなその言葉。
言外に感じる意思は端的に言い表せば、一言で済むだろう。
甘やかすな。
それだけだ。
「……」
それが藍を傷つける意思の下に口に出された言葉なら、僕には反論の余地もあっただろう。
いくらでも、どれだけでも、正当な理屈を並べ立てられただろう。
けれど、百日のその意思は、彼女を貶めるようなものではない。
今更百日がそんな態度に出るとは僕も思っていない。
それは藍を、本当に藍を想っての言動だ。
だからこそ、僕にはどうにもできない。
彼女を信じて、見守るしかないのだろうと理解した。
歯がゆいことこの上ないのだが。
それから授業が始まるの間、藍は考え込むようにずっと下を向き、幾度となく浅いため息を吐き続けていた。
昼休み。
るりとちょっと相談があるから、そう言った藍を送り出し、僕は一人で学食に向かう。
なぜかその後ろには百日がついてきた。
……もうそろそろこいつも出しゃばりすぎではないだろうか。
いや、何がとは言わないが。
「朝のこと、なんで僕を止めたんだ?」
「言わずともわかっているんじゃない」
階段を下りる傍ら、半身振り返って訊くと、スカートの裾を軽く押さえながら目を細めた彼女が僕を見下ろして言った。
「藍ちゃんのためにならないから。ただそれだけのこと」
「でも、慰めるくらいいいんじゃないのか? まるで突き放すみたいなあんな言い方しなくても」
「……君は藍ちゃんの恋人でありたいの? それとも、お互いどっぷりぬるま湯に浸かり合った共依存の関係でも築きたいの?」
「……共依存って……、何も僕は……」
「近すぎる関係性というのも時に問題になりうるとボクは思うけどね。人間が生きるためには太陽は必要不可欠な存在だけど、近すぎれば、水星みたいに人の住める環境じゃなくなる。そんな大げさな話ではなくても、節度を持った距離というのは重要だよ。君にはボクの態度が突き放したもののように思えたのかもしれないけど、逆に君が出しゃばりすぎなんだよ。彼女の問題は基本的には彼女がどうにかすべきだ」
「……」
それ以上、まともな反論を口にすることができず、食堂に辿り着いた。
昼休みの開始と共に少しずつ人の集まってきている中に百日と二人で足を踏み入れる。ていうか、こいつ一緒に昼飯食べる気なんだな。別にいいけど。
食券の列に並んだところで、前に並んでいた男子生徒が軽くこちらを振り返り、そいつと目が合った。
「あ」
「……」
クラス内でなんとなく気まずい関係性にあるところの、天城雄哉がそこにいた。僕を体育倉庫に閉じ込めた短気な男。
そう言えば、こいつも学食勢か。
たまに姿を見かけることはあっても、意図的に距離を取ることが多かったから、百日の同伴に気を取られた今でなければこうも近くに寄っていくことはなかっただろう。
合った目を逸らすことなく見返していると、彼がわずかに喉を鳴らしたのがわかった。
口を開きかけたところで、僕の後ろの金髪がことさら明るい声を出す。
「あ、天城君も学食なんだ?」
「……お、おう、も、百日……さん」
面食らったように目を見開き、険しい表情を赤面へころりと変えた天城は傲慢ないつもの態度に似合わず、妙に口ごもっていた。
ぐいと僕を後ろに押しやる勢いで前に出てきた百日が、彼女の普段を知っている僕からすれば、微妙に作っていることがわかる魅力的な笑顔を浮かべ、かわいらしく小首を傾げる。
その微笑みと仕草に如実に動揺して見せる天城に、彼女がなんとなく面白がっていることが気配でわかった。人をからかうのが好きだからな、こいつは。
「ボクはいつもお弁当かパンなんだけど、天城君はいつもこっち?」
「あ、あ、ああ。ま、まあ、そうだな」
「おすすめのメニューは?」
「……お、おすすすすめ!? い、い、いややや、ないけど」
なんだこいつ。
どんだけテンパってんだよ。
顔赤いわ、呂律回ってないわ、目は泳いでるわ、完全に童貞の動きだ。
そんなに百日のこと好きか。僕には理解できない、いや、人類には理解できない感情だな。
外見に絆されただけならやめておけと強く警告しておきたい。
何よりトムもいるしな。
面倒事を避けてか、どうやら彼女とトムはクラス内で関係をひた隠しにしているようなので、天城の奴はその事情を知らないのだろうが。
「何キョドってんの? 雄哉。……って、百日さんか」
さらに天城の前でちょうど食券を購入していた男子――たしか名前は園田――が振り向き、たった今購入した食券をひらひらさせながら天城の肩を軽く叩く。
薄く刻まれた笑みを呆れたものに変えた。
「園田君もいつも学食?」
「ま、そうだよ。雄哉と一緒にね。百日さんは珍しいね。ほとんど見ないのに」
「今日はたまたま。相田と一緒にね」
「……ああ、なるほど」
園田が目を細めて僕を見、気まずそうに言葉を漏らす。
今更、自分たちがやったようなことに罪悪感でも覚えたのだろうか。だったら初めからやるなって言う話なのだが。ていうか、よく考えたら、主犯目の前にいる女だったわ。こいつらより罪悪感感じるべき相手他にいたわー。
「どうせなら四人で食べない?」
「……は」
そんな事情など素知らぬ顔で、天真爛漫な笑顔を作って言う百日は完全に状況を弄んでいるのだろう。
でなければ、僕をからかいたいだけか。
「……うーん。まあ、いいかもね。雄哉は?」
「……べ、べつにおおお俺は」
「はいはい。一緒に食べたいと……。おっけー。了解」
未だ平静さを保てない天城に、すべてを理解したようなしたり顔で園田が頷いた。
仲のよさそうなことだな。
常に傲慢な態度を取っていた天城にもこういう面があるからこそ、仲良くやれる部分もあるというところだろうか。
それはそれとして、別に恨み事はないにしても、こんな奴らと同席などしたら、僕は落ち着いて食事を取ることなどできやしないので、淡い期待を込めて、縋るような視線を百日へと送る。勘弁してくれ、と念を込めて。
それに気づいた彼女がにっこりと微笑んで、すべてを理解したというように、深く頷いた。
「相田も問題ないって目で訴えてきてるし、それでおっけいだね」
「……おい」
淡い期待は淡い期待、儚くも溶けていく粉雪のようだった。
「……」
「……」
天城の方を見やると、再びばっちり目が合って、今度はどことなく気まずくて、すぐに目を逸らした。
その様子に、園田と百日が同時に息をついたのがなんだかやけに耳に残った。
ちょっと時間できたので、今週は土曜だけじゃなくて不規則に投稿するかも、です。気分次第ですが。もしかしたら、来週の土曜まで何もない可能性もあります。