裏返し
恩返しがしたいと思った。
わたしのために多くのものをくれた涼に、恩返しがしたいと。
わたしが彼にあげられるものは、実のところ、驚くほど少ない。
わたし自身が一緒にいてあげられることを除けば、つらいときに声をかけてあげる、言葉をかけてあげる、慰めてあげる、それくらいのことで、それだけのことしかできない。
それに比べて、わたしがもらったもののなんと多いことか。
涼のおかげで、わたしは頑なだったわたし自身を変えることができて、凍結していた人間関係に温度を取り戻すことができて、関わることすら最初から頭になかったクラスに溶け込み、なじむことができた。
入学から半年近くが経った今では、友達もそれなりにいて、クラスメイトたちと他愛ない会話を交わすことができる。
高校に入学してスタートダッシュに失敗した、どころか、スタートダッシュをするつもりもなかったわたしが、気づけば、人の輪に囲まれていることが多くなった。
るりがいて、ももちゃんがいて、多くの友人たちがそばにいてくれるようになった。
――けれど、涼は変わらない。
彼を取り巻く環境は、わたしを取り巻く環境の瞠目するほどの変化にも関わらず、まったく以って変化していなかった。
一人だった涼の周りにはわたしやるりやももちゃん、たまに斎藤君などがいるけれど、わたしを除けば、彼らと一緒にいる時間は非常に少ないものだ。
割合にすれば、わたし:みんな:一人=6:1:3というところ。
一人でいるか、それともわたしといるか。
涼の学校での時間の過ごし方はそんなものだし、家に帰ったとしても家族とわたし以外の誰かと関わることはまったくないだろう。
彼は入学当初からほとんど変わることなく一人でいて、入学当初から変わることなくずっとそのままだった。
クラスメイトのみんなも当たり前のようにそれを受け入れているようで、日常的に彼に話しかける生徒は一人もいない。何かあれば話が回ってくるのは涼自身ではなく、彼女のわたしのところだ。
みんなもそれをわかっていて、涼自身もそれをわかっていて、それを当然のように受け入れている。当たり前のように諦めている。動くことのない歪な日常を、さもそれがあるべき姿かのように、まるで疑問を挟むことなく享受する。
だから、何かをしたいと思った。
彼のために何かがしたいと、そう思ったのだ。
涼のために、恩返しをしたいと。
余計なお世話かもしれない。いらぬお節介かもしれない。
それはわたしも自覚するところで、他人に冷たかったわたしがこうも誰かへの好意を押し付けようとすることがあるなんて思いもしなかったし、思ってもみなかった。
自覚した押しつけがましい憂慮の心は自覚していて、それは押し付けだと、実際に本人にもそう言われてしまった。
その上、わたしに持てる力は少ない。
出発点の意思は自己満足で、到達点に至る過程は明白でない。
行動する想いが自己満足なら、結果に至る方法も見当たらないという体たらく。
自分の殻に閉じこもるだけだったわたしにできることなんて少なくて、わたしに持てるもの、使える力、仰げる協力、そんなもの微々たるものでしかないのかもしれないけれど。
それでも、耐えられなかったのだ。わたしには。
クラスでわたしが友達と話すとき、どこか見守るような目線で、達観したようにわたしと距離を取る彼の姿が。
何かわたしと会話をしようと思って近づいてきていたのに、他のクラスメイトに話しかけられたことで、諦めたように、気を遣ったように、どこかへと消えていく彼の姿が。
クラスという閉じた集団の中、内輪のノリで盛り上がるクラスメイトを尻目に、ずっと退屈そうで、どこか寂しそうな顔をしている彼の姿が。
呆れるほど強いのに、呆れるほど不器用な涼の姿が。
わたしには、到底、受け入れることができなかった――。
だから、わたしは計画したのだ。
彼を――相田涼をクラスになじませるための、涼に友達をもっと増すための、そうしてクラスの中になじんでもらおうという計画を。
るりにそのことを相談したとき、きっとずっと、何ならわたしよりも前からずっと、同じことを感じていただろう彼女は、一も二もなく、その提案に頷いてくれた。
それからわたしたちはお互いに知っていること、考えていることを持ち寄って、彼のために何ができるか、どうしたら彼をクラスに溶け込ませることができるかを相談し合った。
彼女と話す中で見えてきたことは、やっぱり涼は相当に手ごわい、ということだ。
「知ってる? 相田君、未だに女子どころか、男子の名前さえ覚えてない人の方が多いんだよ?」
「え……」
「夏休みにね。けっこう雑談する機会もあったんだけど、クラスメイトの名前出しても、話通じないんだもん……。もうね、ほんと興味のないものはまったく耳にも入れないって感じだよ」
「そ、そうなんだ……」
じゃあ、そんな涼に、初めから興味を持つどころか何度となくアタックされていたようなわたしって一体……。
と、そんな不思議な疑問が浮かんできそうになったけれど、それは考えても詮ないことだろう。小学校時代のるりの姿に被ったのか、単に同じ一人のわたしに同族意識を感じたのか知らないけれど、今更始まりを訝っても仕方がない。
今はもう、揺らぎようのない今があるのだから。
「とりあえず、一人でもいいから、わたしたち以外の友達を作ってもらわないと話にならないよね」
「……うん、そうかも」
「斎藤君ってさ。彼の友達って言っていいものなのかな? あんまり話してるとこ見かけないけど」
「んー、どうだろ」
仲が悪いとは思わないし、時々彼をからかう涼の姿はどこか楽し気ではあるのだけど、それでも、日常的というほどには見かける姿ではない。
「まあ、微妙なところだよね。藍絡みでいろいろいざこざがあって、いろいろわだかまりもあってって感じで。もっとこう、何の気負いもなく付き合える友達っていうのがいたらいいよね」
「うん。涼が一緒にいて違和感のない人」
「って言ってもなかなか……、彼は大分、特殊な例ですからねー」
「……あ、あはは」
やがて決まった一つの流れとしては、もうすぐやってくる文化祭を利用するということだ。
「そういったイベントにとても冷めてる感じのある相田君だけれど、それでも、非日常の空気感っていうのはいつもと違う行動を取らせるのに、いつもと同じ日常以上には適してると思うんだよね。だから、それを利用しよう」
わたしとるり、どちらかがその主導役として適しているか、考えるまでもなくその答えは明らかだ。
「本当にいいの? わたしが実行委員やっても、そばで相田君をサポートして、とか、やりようはいくらでもあると思うけど」
「うん。わたしがやる。わたしが言い出したことだし。それにわたしが涼のためにやりたいことだから」
「そっか……」
心配するようなるりの視線にわたしは揺るぎない意志の籠った瞳を向けた。
「じゃあ、藍主導の、わたしサポートって感じで。クラス会はわたしがやるね。文化祭準備より、ある意味気が重いと思うし」
「う、うん……」
すべてを自分でやろうなんて最初から思ってはいないけれど、人前に立つのに平然としている、どころか自身に満ち溢れているるりの姿を見ると、吹けば飛びそうな意思の炎はゆらゆらと明滅を繰り返した。
こんなわたしにクラスのみんなを導くことなんてできるのかと。
ただ、それでもやっぱりやめようという気持ちだけは、どうしてか湧いてこなかったのだけど。
彼女と知恵を分かつ中で、計画は三段階に分けることにした。
1.涼の友達になれそうなクラスメイトを探す。
2.文化祭準備の中で、涼とその子に仲良くなってもらう。
3.その子を基点として、徐々に涼をクラスに溶け込ませていく。
第一段階はるりにお任せの状態だった。
女子の方とはそれなりに仲を深めたわたしではあったけど、男子の方はからっきしだ。
どういう人がいて、どういう人と関わっていて、なんて、ほとんどまったく知識がない。
「まあ、これまで以上にいろんな人と話してみるよ。ちょっとだけ待ってて」
平気でそんなこと言ってみせるるり。微量の劣等感に、ちょっとだけ胸が痛んだ。
やがて彼女が見つけてきたのは日和夕君。
文芸部所属の、小柄で眼鏡をかけた大人しめな男子だ。
「……たぶんだけど、彼なら少しは相田君と合うんじゃないかな?」
自信なさげに言うるりに、首を傾げる。
「いやー、さすがにわたしも相田君がどういう反応するかとか読めないからさー。わけのわかんないところで反発するかもしれないし、変なところで馬が合うかもしれない」
まるで涼がよっぽどの変人みたいな言い方だったけど、反論はできなかった。
「でも、たぶん、いける」
「……どういうところが?」
「えーとね、なんとなく……なんだけど」
「うん」
「藍に似てるかなって……」
「……え?」
その言葉にちょっとだけ驚いた。
クラス会を終え、日和君について少しだけ知った今も、るりのその言葉は腑に落ちないところがある。
そんなに似ているだろうか、あの子とわたしが。
男子にしては小柄なので、比較的接しやすいような気はするけれど、自分との類似点というと、まったく見当がつかなかった。
話していく中で、涼に興味を持っているみたいなのは、彼を涼の友達候補として考えているわたしたちとしては都合がよかったのだけど。
計画の第一段階としてはそんなところで、るりに任せっきりだった状況から、わたしが中心で動く第二段階へと移っていく。
クラスの中で上手く振る舞えるか、リーダーシップを取れるか。
そもそも、涼と日和君を近づけるとか以前に、まともな実行委員として上手く仕事ができるのか。
それ以前に他に実行委員になりたい人とかはいないのか。
いろいろと不安要因はあったのだけど、クラス会の最後のあのカラオケで、わたしは文化祭実行委員になることを宣言した。
みんなの反応は鈍く、まあ、よくわかんないけどいいんじゃない、みたいな雰囲気だったことを覚えている。
まあ、わたしたちの思惑を知らない人からすれば、なんでそんなにやる気になってるの? という印象を持って当たり前だと思うけど。
帰り際、唯ちゃんからは「がんばってね」と励ましの言葉をもらって、芦原さんは険しい顔で何か言いたそうにこっちを遠巻きにしていた。結局、そのまま何も言ってこなかったのだけど。
十月十八日の今日、文化祭二週間前のこの日、ロングホームルームで文化祭実行委員を決めることになっている。
他に立候補がなければ、普通にわたしで決まりになると思う。
男女一人ずつが選ばれることになっているので、男子の方が誰になるかは未知数だ。
その日、徒歩五分の道のりをいつものように時間に余裕を持って登校し、六時限目のホームルームに向け、いくらか緊張していたわたしは、自分の席に着いて、近づいてきた唯ちゃんと、それから美月ちゃんと挨拶を交わす。
「おはよう。藍ちゃん。昨日は楽しかったね」
「……あ、クラス会?」
唯ちゃんが微笑みながらそう言って、いつもは終始落ち着いている美月ちゃんが珍しくそれに反応する。
「そうそう。藍ちゃんがみんなの前で美声を披露したの。『つけまつける』。動画あるよ? 見る?」
「ゆ、唯ちゃん……っ!」
「……え、えーと」
どこまでもわたしを晒しあげようとする唯ちゃんに声を荒げると、困ったように美月ちゃんがわたしと彼女を見比べるように見た。
「そ、それより、実行委員になるんだよね? 九々葉さん。すごいね」
「え?」
話を逸らすように彼女が言って、それにわたしが首を傾げる。
まさかクラス会を欠席した彼女からその話を振られるとは思わなかった。
「誰かから聞いたの?」
「……え、あ、うん。クラスの人が話してるの聞いて」
「そっか……。うん、そうだよ。少し、思うところがあって」
「そ、そうなんだ。やっぱりすごいね、九々葉さんって。わたしはそういうの、絶対、無理だから」
「……ううん。わたしなんてぜんぜん」
るりやももちゃんに比べれば、わたしなんて本当に大したことがない。
今だってこれからやらなければならないことの大きさを想って、内心びくびくしているのだから。
「あ、真優」
しばらく彼女たちとぽつぽつと話をし、十分ほどが経過したところで、芦原さんが教室に入ってきた。
そのままわたしたちのそばまでやってくる。
「おはよう、唯ちゃん」
「おはよう、真優」
一番近くにいた唯ちゃんが彼女に声をかけ、それに追従して、わたしと美月ちゃんも挨拶をする。
「あ、おはよう、芦原さん」
「お、おはよう」
「……おはよ」
どこか伏し目がちにこちらを見ていた彼女はぼそりと小さくそう答え、そのまま自分の席に荷物を置きに行く。
「唯ちゃん聞いた? こないだおすすめした……」
「……え、あ、うん」
戻ってきた彼女はそれから、唯ちゃんと二人で話し始める。
わたしがついていけないような、最近流行りの音楽の話題だ。
「……」
「……」
どこか所在なさげになったわたしと美月ちゃんは顔を見合わせ、二人で黙って彼女たちの話に耳を傾ける。
唯ちゃんと話をする芦原さんの雰囲気は少しだけいつもと違っていて、その姿が妙に意識に引っかかる。
それからの彼女の様子はやはりいつもと違っていた。
二人で話しているのだから当たり前なのかもしれないけど、唯ちゃんの方ばかりを見つめていて、こちらに一切、視線を送ろうとしない。
わたしのあまりついていけない話題ばかりを繰り返し、唯ちゃんにばかり話を振る。
暇さえあれば、わたしをからかうような言動を取っていた彼女は、わたしに話題を振るどころか、目を向けさえもしない。
いつもだってそういうことは少なからずあったけど、それでも、時々わたしを会話に入れようと努めてくれていた。まったくわたしを話に入れようとしないその態度はなんだか彼女らしくないもののように思えた。
唯ちゃんは彼女の話に丁寧に相槌を打っていて、時々気遣うようにわたしの方を見る。
そのたびに、そんな彼女を咎めるように芦原さんが少しだけ声を大きくした。
息詰まる空気に、強張っていくみんなの表情。
耐え切れなくなったわたしは、浅く息を吸って、口を開いた。
「あ、あの!」
わたしの声に反応して唯ちゃんがこっちを見る。
芦原さんは話す言葉だけを止めて、視線は唯ちゃんの方へ向かっている。彼女の表情は止まっていた。まるで心情が推し量れない。
「あ、芦原さん……」
「……なに?」
名前を呼ぶとやっとこちらを向いた彼女は、どこか感情の乗らない瞳でわたしを見る。
いつも笑っていた彼女の表情はそこにはない。
徹底的な拒絶だけを表したような無機質な瞳。こちらを射抜く氷柱のような鋭い視線。
その瞳に背筋を冷たいものが這った。
言葉を凍らせかけ、それでも何も言わないわけにはいかないと精一杯喉を震わせる。
「あ、あの……、わ、わたし、何かした……?」
「……」
彼女を怒らせるようなことを無意識にでもしていたのだとしたら、謝るべきなのかもしれない。
身に覚えはないけれど、知らず知らずのうちにやってしまったことがあるのかも。
そう思っての問いだった。
「……別に」
「……え?」
短く答えた彼女は「でさあ……」と、まるで今の一幕などなかったかのように唯ちゃんとの話を再開する。
唯ちゃんは困惑したようにわたしの方に軽く視線を送り、けれど、そのまま芦原さんの話に付き合っていた。
「……っ」
置いて行かれたように感じたわたしは強く唇を噛む。
美月ちゃんは信じられないものを見るように、芦原さんを見つめていた。