微笑み
九々葉さんと一緒に学校の屋上での天体観測に参加し、土日を挟んだ週明けの月曜日。
教室の自分の席に座っていた僕は、英語の教科書を開いていた。
来週には期末試験を控えている。中間試験では、適当にこなしすぎて赤点ぎりぎりのラインを攻める結果となってしまったので、多少は勉強しておこうかと思ったのだ。
英語は僕の得意科目。というか、文系全般が得意。反対に、理系科目は苦手としている。
とりあえず得意なところから攻めるのは無難な選択だろう。
教科書に書かれた英語の長文を眺める。
五行くらい読んだところで、頭が痛くなってきた。
何となくの意味は理解できるが、頭の中できれいな日本語に翻訳しようと思うと、なかなか上手くいかない。
……とりあえず、今はそういう気分ではないので、テスト勉強は暇なときにでもやることにした。
「おはよう」
細かいところを見続けていたために疲れた目を癒すため、眉間を手で揉んでいると、背後から挨拶が投げかけられた。
九々葉さんだ。
週の初めに彼女の方から声をかけてもらえるとは、今週は良い日が続くかな。
そう思いながら、振り返る。
そこに天使がいた。
「……ほぇ……っ」
言葉にもならない感嘆の声だけが口から漏れ出ていく。
危うく椅子から転げ落ちそうになった。
まともな言葉を継げなかった。
「どうしたの……?」
僕のそんな奇行にやや戸惑ったように、でも、ちょっとだけ嬉しそうに彼女が僕の顔を覗き込んでくる。
「そ、それはこっちの台詞……なんだけど……」
今日の九々葉さんは一味違った。
いつもなら、朝は苦手な彼女らしく髪にも乱れたところが目立ったり、寝癖がついていたりするのに、今はそんなことはなく、どころか、頭頂部から毛先に至るまでほつれも乱れも一切なく滑らかだった。
肩先に届かないぐらいの長さの黒髪はきれいに整えられている。髪の一本一本が絹糸みたいに艶々していて、彼女の髪が小さく揺れるだけで心をかき乱された。
髪だけでなく、表情や仕草もどこかいつもよりも可愛げがあって……っていつもがかわいくないということじゃないけれど、でも、やっぱりいつもよりとてもかわいらしさを増していた。
有体に言って、今日の九々葉さんはとてもとても女の子らしかった。
「そ、その……、髪とかどうしたの?」
急に女の子らしさを増した彼女にどぎまぎしつつも、そう尋ねる。
すると彼女はそれを待っていたかのように、
「実はね……美容院に行ってきました」
と誇らしげに言う。
「えっと、それはわかるんだけど……」
どうして急に……こんなにもかわいらしく彼女は変わったのだろう。
何か心境の変化でもあったのだろうか。
それだけでは言葉が足りないと感じたのだろう。
紡ぐように言葉を重ねる。
「……その、わたしもね。もう少しちゃんとしないといけないって思ったの」
「ちゃんと?」
「うん。相田君みたいにちゃんと向き合わなきゃって。だから、お姉ちゃんにおすすめの美容院を教えてもらって、それできちんとしてきました」
「お姉ちゃんいたんだね」
「うん。今大学三年生、かな」
「へえ」
それから彼女は指先で毛先をいじるような仕草をして、上目遣いに僕を見る。
「えっと……どうかな……?」
どうかな? という言葉がこの場面でどういう意味を指しているのかは、空気を読めない僕みたいな人間にだってわかる。
どういう理由からか、彼女が頑張って見た目を整えて、勇気を出して僕にこんなことを訊いているのだ。
それに真摯に答えなければ、彼女が言うところの「誠実」ではない。
だから、僕は正直に答えることにした。
「……えーと、とてもかわいい、と思います」
「……あ、ありがとう」
頬を染めて俯いて、九々葉さんはお礼を言う。
その姿に、えも言われない気分を感じた。
彼女のことがとても愛らしくて、抱きしめたくなるような……、そんな気分。
揺れる心根を抑えて訊く。
「でも、どうしてそんな風に心境が変わったの? 何かきっかけでもあった?」
彼女はずっと頑なだった。
四月にこの高校に入学したときも、僕と話すようになってからも、ずっとずっと頑なで、自分の世界に籠っていて、周りのこともあまり気にしていなかった。
彼女の世界には彼女しかいなくて、友達として接することはできても、人が怖いという彼女に僕は何もしてあげることができなかった。
頑な彼女は我が道を行っていて、ずっとそのペースを貫いていた。
そんな彼女の心根を一体何が変えたというのだろう。
その言葉に、僕が発したその疑問に、彼女はじっと僕の目を見つめて、それから――。
「あ……」
それから――ゆっくりと相好を崩す。
からかうような微笑みを浮かべた彼女が、口元に人差し指を当て、片目を閉じた。
「……ひみつ」
その日、僕は初めて彼女の微笑みを目にした。