つないだ心
天体観測の日になって、親に用件を告げ、夜八時頃に家を出た。
日ごろの行いがよかったのか、その日の天気は快晴。ちょうどいい天体観測日和だった。
交通手段はいつもの通り、自転車である。
夜遅くに出かける学校でのイベントなのだから、送ってくれてもいいんじゃないかとちらっと父親の方を窺ってみたが、奴はテレビの野球中継に夢中で一切僕の方に視線をよこさなかった。
仕方なく、自転車で向かうことにした。
電車やバスを利用するお金などない。
校門に着くと、その前で制服姿の九々葉さんが待っているのが見えた。
時刻は午後九時。
高校生の女の子が出歩くには少し遅い時間帯かもしれない。
「ごめん、遅くなって……」
「大丈夫、今さっき来たところだから」
気にしないでいいというように、彼女は小さく手を振った。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
駐輪場に自転車を片付けてきた僕は、九々葉さんと二人で校舎内に向かう。
昇降口の方に向かうと、その前で一木先生が待っていた。
周りには天文部らしい男子二人と、女子一人。それから少し離れたところに立っている一般生徒の女子が一人。
雰囲気的になんとなく上級生のように思えた。
「すみません。少し遅くなりました」
「……」
僕は彼らに向かって頭を下げ、無言で九々葉さんもそれに倣った。
「いえいえ、遠いところからわざわざ来られているんですから、それだけでありがたいですよ。では、行きましょうか」
言うとともに、彼が昇降口の鍵を開け、中に入っていく。
天文部と一般女子生徒も続き、僕と九々葉さんもその後ろに従った。
地学準備室を経由し、天体望遠鏡を二つ持っていく。
天文部の男子二人で一つを抱え、残りの男手ということで、僕と一木先生でもう一つを抱え込んだ。
夜の学校をぞろぞろと連れ立って歩き、屋上前の階段の踊り場に至る。
持ってきた望遠鏡を一旦下ろし、先生がポケットから鍵束を取り出した。
ガチャリという重たい音がして鍵が開く。それから、あまり使われていないからか、錆びた鉄がこすれるようなギギギという耳障りな音を立てて扉が開いた。
「柵はついていますが、念のため、あまり外周部には近づかないようにしてください」
先生のそんな注意とともに、屋上に足を踏み入れる。
今日の大気は大分澄んでいるようで、夜空の星々はつぶさに見えた。
「天文部で一台。部員でない生徒さんで一台。という風に分けましょうか。レジャーシートもありますので、寝転がって直接目で眺めたいという方はお貸しします」
望遠鏡を設置し、先生がみんなを見渡して説明した。
僕は他の人たちを怖がるように、やや僕よりに立っている九々葉さんの方を見る。
「……どうする? 望遠鏡使う?」
「……ううん。シートの方がいい」
彼女はもう一人いる一般生徒の女子の方を見つめて、そう言った。
やはり、人が怖いというのはあるのかもしれない。
けれど、一緒に参加してくれた、というだけで僕にとっては十分だった。
「先生、シートを貸してもらえますか? 二人で見ますので」
「そうですか? それもいいですね。少し待っていてください」
一木先生は生暖かい視線で九々葉さんを見て、今度はこの前のように責めるようなことを言わず、黙って頷いた。
それから、校舎内に戻っていって、しばらくしてブルーシートを抱えて戻ってくる。
「新品ですので、気にせずに寝転がってください」
「ありがとうございます」
お礼を言って受け取る。
先生は少し遠くに設置された望遠鏡の方に向かう。そこでは、一般女子生徒が一人でファインダーを覗き込んで何やら悪戦苦闘しているようだった。
部員でもないのに一人で天体観測に参加している女子生徒の存在を珍しく思いつつ、僕はブルーシートを広げる。
九々葉さんも手伝ってくれ、屋上の上に十分寝転がるスペースができる。
「九々葉さんスカートだけど、大丈夫?」
膝上五センチの彼女のスカートに目をやる。
まあ、そんなに短くはないので、たぶん、大丈夫だとは思うが。
「えっと……、下にスパッツを穿いてるから平気です」
「あ、そうなんだ」
「こんなこともあろうかと」
「想定してたんだ? すごいね」
「嘘だけど……」
「嘘かい」
突っ込みを入れつつ、そんな冗談を彼女が口にしたことをちょっと嬉しく思ってしまう。
二人でブルーシートの上に寝転がった。
屋上の硬いコンクリートが後頭部に当たる。少し痛かった。
「あ、タオルあるよ。枕にどうぞ」
「あ、これはどうもご丁寧に」
僕の表情を見て何を感じたか察したのか、ごそごそと鞄の中を漁って、彼女がタオルを差し出してくる。
たたんで敷くと、確かに痛みは軽減された。
「って、九々葉さんの分は?」
「……わたしは別に平気だし、大丈夫」
「いやいや」
見ると九々葉さんは普通にそのまま頭をつけている。
しかし、さすがに女の子につらい思いをさせて、僕だけが楽をしているわけにもいかない。
「これは九々葉さんが使っていいよ」
そう言って、タオルを差し出す。
「……ううん、わたしは大丈夫だから」
意外と強情な九々葉さんはそれを押し返すようにして、それを固辞した。
「いやいや、九々葉さんが」
「ううん、相田君が」
そんなやり取りを何度か繰り返し、さすがに不毛さを感じた僕は、最終的にこう提案した。
「じゃあ、半分ずつ使うっていうのは、どう?」
「……わかった」
どこか不満そうな表情だったが、彼女は頷いた。
そして、タオルを細長い方に半分に下り、二人で枕にする。
一人で使うよりは薄くなってしまい、枕を使うメリットは半減している気がする。
しかし、それよりもこの提案には重大な問題があった。
「ちかいね……」
「う、うん……」
彼女が持っていたのは普通のハンドタオルだったので、細長く折っても大した長さになるわけではない。そこに二人で寝転べば、顔が極端に近くなってしまうのは言うに及ばず。
けれど、あれだけ二人で譲り合った手前、今更相手に譲ろうというのもはばかれる。
この場はこれでどうにかするしかなかった。
「ほ、星を見よう、うん」
「そ、そうだね」
ぎこちなく会話を交わし、当初の目的である天体を観測することに没頭する。
そうすれば、この近い距離もそう気にならなくなるはずだった。
「十字架のように見えるあの星座が白鳥座ですね。隣に見えるのが琴座。そして、その下がわし座。有名な夏の大三角形ですね。琴座のベガとわし座のアルタイルは七夕のお話でも有名だと思います。その二つの星に挟まれるようにして、矢座なんていう面白い星座もあるんですが、まあ、今日は有名どころに触れていきましょうか。あの南の方に見える赤い星が……」
遠くで一木先生が星座の解説をしている声が聞こえる。
その声を半ば聞き流しつつ、夏の夜空に目を向ける。
きらきらと光る天の川に、それを挟むようにベガとアルタイルか……。
あれを見て、七夕の話を思いつく気持ちもわからないでもない。
光る星の川を挟むようにして見える二つの明るい星はたしかに目立って見えるだろう。
けれど、それ以外にも輝く星はいっぱいある。
目立つものにばかり目を向けているのも他の星がかわいそうだと思い、小さな輝きをした見えるか見えないかぎりぎりの星々にも注意を向けようと、空全体を見つめなおす。
名前もわからないたくさんの星々。
真っ黒い宇宙の色。
見ていると、それだけで吸い込まれていきそうだった。
この大きな星空を前に、自分の存在の小ささを実感する。
遠くで、あるいは近くで鳴いている鈴虫の声が、りーんりーんと夜空に響き渡っていた。
届かない星空に手を伸ばす。
そうしていると、不思議と星が近づいてくるような気がして、意識が夜空に落ちていくようだった。
暗い、深い、夜空に。
浮かんで。
揺らめいて。
そして、落ちていく。
「――っ!」
吸い込まれるような錯覚に、びくりとして、手を落とした。
自分でもびっくりした。
こんなに長い間夜空を眺めていたことなんてなかったから、こんな感覚に陥るとは思いもしなかった。
心臓がばくばくすると同時に、落ちた手の平になんだか柔らかく滑らかな感触を覚えて、なんだろうとぎゅっとそれを握った。
「あ……」
小さな声が右隣から漏れ聞こえた。
顔を横向けると、同じように九々葉さんも僕の方を見ていた。
彼女はどこか戸惑うような表情をしている。
「あ、あの……手……」
「手?」
言われて視線を落とすと、僕の手の平が思いっきり彼女の小さな手を握っていた。
「あー……」
何も意識せずにとった行動だけに、なんとなくばつが悪い。
けれど、手放すにはこの手の感覚は心地よすぎた。
「もう少し握っていたら、だめかな?」
「……え、っと……っ」
素直に心の中の気持ちを口にすると、間近で見る彼女の頬にわずかに朱が差したように思えた。
月と星の明りで見える視界は決して明るくはないけれど、それでも、彼女の表情の変化はつぶさに感じ取れた。
彼女の手の甲を覆うようにして握っていた手を、彼女の手の平に向かい合わせるようにして握りなおす。
「っ……」
びくっと、九々葉さんが肩を跳ねさせた。
けれど、振りほどいたりはしない。
驚いたように、僕の顔色を窺うだけだ。
「……ほら、星空ってさ。こうして眺めていると、吸い込まれそうに感じるんだよ。暗くて、深くて、途方もない星の輝きに自分の存在が薄まっていくように、自分が何かもわからなくなって……。どんどん空に落ちていくみたいに……。だからさ」
だから、と僕は言った。
「こんな風に、つなぎとめるものがほしいんだよ」
「……」
無言で彼女が僕を見つめる。
まじめに手をつなぎたいとか言った恥ずかしさを押し隠すために口にした理屈だったが、さらにもっと恥ずかしいことを口にしている気がした。
「……うん、わかった。いいよ。しばらくこうしていよう」
「ありがと」
それでも、そんな僕を笑うでもなく、馬鹿にするでもなく、無視するでもなく、彼女は僕の言葉を受け止めて、そう言ってくれた。
ぎゅっと、彼女の方からも、手を握り返してくる。
そこで、僕はふと思った。
ああ、僕はこの子のこと、大好きだな、って。
夜の世界を照らすさまざまな輝きを持った星々の下、僕と彼女は二人で手をつないでいた。