平穏の終わり
午後五時。
勝手に日記を見られて怒り心頭の藍に、罰として人間座椅子――要するに彼女を抱っこしている状態にされていると、ベッドの上に置いたままだった彼女のスマホがぶるりと震えた。
震えは止まることなく一定間隔で振動しつづける。どうやら彼女に電話らしい。
タイミング的におそらく、旅先から帰宅中のはずの睡蓮さんからといったところだろうか。
帰る時間の正確な報告だろう。
膝の上の藍がもぞもぞと身じろぎして皺の寄ったシーツに手を伸ばす。
表示された画面は彼女を抱きしめているところの僕にもみえ、『お母さん』となっていた。
「……むぅ」
膝の上でぴたりと身を寄せるようにしていた藍が不満げな吐息を漏らす。
一日以上の間、二人だけの濃密にすぎる時間を過ごしていたにも関わらず、こうして電話で余計な茶々が入るのは少しばかり気に入らないらしい。それとも、その時間がもう終わりに近づいていることがその所以だろうか。
「……はい、もしもし……。……うん。……うん。ちゃんと食べたよ。涼も……。……うん……わかった」
単純な相槌が何度か続き、やがて電話が切れる。
「睡蓮さん、なんて?」
「……八時には帰るから、お風呂の用意おねがいって。あと、ちゃんとご飯は食べたのかって」
「ふぅん」
「……最近はわたしが作る方が多かったの、忘れてるのかな」
「ご飯?」
「……そう」
「わかってても訊かずにはおられないのが母親心ってものなんじゃないの?」
「……そういうもの?」
「こんなかわいい娘がいたら、それは心配になるだろうね。ましてや僕と二人っきりとか」
「……むぅ」
かわいい娘とほめたのに、何が不満なのか、喉を鳴らして吐息する藍。
ごまかすようにぽんと両肩に手を置くと、彼女がもたれかかるように僕の胸に頭を預ける。鼻先に頭頂部がかすってむずがゆい。彼女の髪から漂うすみれのような甘く清らかな匂いに心が強制的に穏やかな気持ちにさせられる。
「……そういうこと、もう言っちゃだめ」
「そういうことって?」
「無意識に自分を下げるような言い方をするの」
「……別に下げるとかじゃなくて……、僕は客観的な事実を……」
ぐいぐいと後頭部を胸板に押し付けるようにして主張してくる藍に、たじろぎながらも肩を掴む手に力を入れる。
それに呼応するように、藍がすっと背筋を伸ばした。
「じゃあ、客観的な見方なんてしなくていい。涼は主観で判断して。涼は涼だけの見方をすればいいから。周りの目なんてどうでもいい」
「……いや、主観で判断したら、逆にもっと僕は僕を下げる言動が多くなると思うけど」
「わたしの」
「……え?」
「わたしの主観で見て判断して」
「いやそれは……」
さすがに無理難題ってものだろう。無理難題っていうか、『無理なんだい!』 って感じだ。
いくら彼女のことが好きでも、藍がどういう見方でものを見ているかなんてわかりようがない。
言葉を尽くされたところで理解には至らないだろう。
「……少なくとも、わたしは涼が思ってる百倍くらい涼のことが好きだから」
「……うん。それはまあ、ありがとう」
「涼は?」
「え?」
「涼はわたしのこと好き?」
「……好きだよ。当然ながら」
「……うん。ありがと」
髪の毛のかすった鼻だけじゃなくて、心までむずがゆい感じだ。
小恥ずかしいやり取りが多いと自覚している藍との関係性だけれど、取り立てて「好き?」「好きだよ」なんてとてもまじめな顔でできる会話じゃないと思う。
表情を変えているつもりもないが、素直に口にするのにものすごい意思力を必要とする。
「さてと……」
「だめ」
「……え、いやあの、まだ僕何も言ってないんだけど」
「だめだから」
「……いやだからあの」
「言われなくてもわかるもん。だいたいそういう切り出し方するときの涼は帰りたいときだから」
「……もう五時だしさ。いい加減そろそろ」
「……わたしを置き去りにして帰るなんてだめだから」
「いや、ここ藍の家だよね?」
藍を藍の家に置き去りにして帰るって斬新だな。
「せめてあと十二時間はいて」
「それもう明日になってるから」
「じゃあ、六時間」
「深夜だし」
「十二時」
「地味に一時間伸びてる」
「……とにかくだめなの」
強固に主張する彼女に対し、冷静に返答する僕。
すったもんだの挙句、最終的に七時五十九分五十八秒に僕が帰宅することで合意が取れた。
二秒早めたのはせめてもの抵抗の証。
「……いい加減僕の顔も見飽きない?」
「見飽きません。見れば見るほど好きになっちゃう」
「……っ……あ、あのさ、さすがにそれは……」
「……うん。わたしも言っててさすがに恥ずかしくなった……」
掴んでいる肩からわずかに体温が高くなったのが感じ取れる。
藍もこれでけっこう、表情や態度なんかにわかりやすく表れる方だからなー。
「でも、恥ずかしいのも恥ずかしいので、とても思い出らしくていい」
「思い出らしいって変わった言い方をするね」
「印象的とも言う。記憶に刻まれやすい」
「刻むほどのことかな?」
「……涼はそうじゃないの?」
「……うん。正直、記憶に刻みたいね」
「うふふっ」
こらえきれないというように、彼女が声を上げて笑った。
軽やかな笑い声。
聞いていて心地がいい。
実家暮らしの高校生という立場。
こんな時間はもうそうそうないだろうしね。
とても幸せな時間だったから、記憶に残しておきたいというのはある。
「……いつかこの時間を振り返ったとき、あのときはあんなことがあったねって一緒に思い出せるくらいに印象的な出来事」
「それが思い出らしいこと?」
「そう」
思い出らしいことなのか、思い出しやすいことなのか、それはともかく。
「長いようで濃密な時間だったなあ……」
「……勝手に締めくくろうとしないで。あと三時間あるから」
「今となってはいい思い出だよ」
「思い出の中にしまわないで。遠い目をするのもだめ」
「……わがままだなあ。藍は」
「…………それは自覚してるけど……」
「直す気はない?」
「……それは……、涼次第」
「なかなか直りそうにないなー、それは」
「涼の好意に甘えます」
「そういうこと、自分で言っちゃうんだ……」
「……涼のが移っちゃったかも……」
穏やかな時間は続いていき、彼女との時間は何物にも代えがたいものがある。
一秒一秒が光輝く星のように大切な二日間だった。
一緒にいて幸せで、言葉を交わし、心を交わし、肌を重ねた。
今までよりもずっと彼女と仲を深められた気がするし、今まで以上にもっと彼女のことを知りたいとも思った気がする。
何はともあれ、藍との二日間はこれでおしまいだ。
「まだ三時間あるってば」
むくれる藍の顔を見て、僕は微笑んだ。