誘導
しばらくして彼女が戻ってきた。
手に持つお盆の上には二人分のコーヒーと、マーブル模様のクッキー。ココア味のようだ。
さきほど勝手にスマホをいじったことなど素知らぬ顔でぱらぱらと藍の日記帳をめくっていた僕は、早かったね、と顔を上げる。
膝を落として、絨毯の上のテーブルにお盆を下ろした藍が、僕の手元にあるものを見て愕然とした表情になった。
「……な、なに持ってるの。涼」
「え? 藍の日記帳だけど?」
「そ、そ、それ、ど、どこからっ……」
「引き出しから」
言って、藍の勉強机の一番上の鍵のかかった引き出しを指さす。
あっけらかんとして答える僕に彼女が表情を愕然から呆然に切り替える。
「え……、鍵かかってなかったの……?」
「かかってたけど……、ほら」
人差し指に引っかけてくるくると鍵束を回して見せる。じゃりじゃりと音が鳴った。
家の鍵と引き出しの鍵と、それから自転車の鍵などがひとまとめにされていて、ワンポイントに小さな黒猫のキーホルダーが引っかけられていた。
「藍のリュックサックの右のポケットに入ってたからさ」
「ひ、人の鞄を勝手に漁らないでよ!」
驚いた方がいいのか、困惑した方がいいのか、はたまた怒った方がいいのか、僕があまりに平然としているために、彼女がひどく言い難い表情で言い募る。
「漁ってはないよ。もともとそこにしまってるのは知ってたから他の場所はいじってない」
「だ、だとしても! なんで人の日記を……」
「んー、いやー……、藍に怒られたくて……」
「っ……。怒るよりも困惑してるんだけど……」
「それは残念」
スマホをいじったことなどをばれないようにするために、あえて他の大事な場所に注意を向けさせる高等テクニック。
これで藍はベッドの上のスマホが多少位置を移動していたとしても、絶対に気付かないだろう。
「まったくもう……。ほら、返して……」
「え……?」
「え、じゃなくて……、わたしの日記……」
「いやー、藍もけっこう大胆なこと考えてるんだねー」
「……な、なにが?」
「人には言えない諸々の性癖がこの中に……」
「書いてないから! 人聞きの悪いこと言わないで!」
「人聞きも何も、誰も聞いてないと思うけど?」
「……言葉の綾ですぅー。勝手に人の日記を見ちゃうデリカシーのない涼にはわからないかもしれないけど、言葉の綾ですぅー」
ひねたように言ってみせる藍の姿は珍しい。
まあ、確かに日記の中身はそんなに変なことが書いてあるわけではなかった。
毎日の出来事とかをただ淡々と書き連ねている印象で、目立った出来事、感情を動かすような大きなことがあったときには、そのときの想いを綴っているものらしかった。
「……『今日、涼君に告白されました。わたしが落ち着けるまで、何度も何度も安心させるようにキスをしてくれて、初めてだったそのキスはとても甘くて、とても嬉しくて、心が震えるみたいに』……」
「きゃあああ――っ!!!」
とある日にちの文章を読み上げると、非常に珍しく本気で焦った顔で藍が叫び声を上げた。
慌てて僕に取りついて日記を奪おうとするが、するりと身をかわすように立ち上がって、藍が入ってきた扉側に逃げる。
ベッドに手をついて振り返った藍がもう一度、日記を取り返そうと手を伸ばすが、悲しいかな。百七十センチを超える僕と、百四十センチ代の藍では、僕が背伸びをして手を伸ばしてしまえば、彼女の小さな体躯では届くはずがない。
結果、焦った顔でぴょんぴょん飛び跳ねるだけしかできない藍。
「……な、な、な……っ!?」
やがて疲れたように地に足をつけ、まともな言葉を紡げず、彼女が唇を震わせた。
「……『とても幸せな時間でした。もっとずっとキスをしていてほしかった。彼に触れられるたび、わたしの心は熱を持って、体の芯の辺りが熱くなって、胸の奥がつままれるみたいに』……」
「あ、あ、ああああ――っ!」
「……『その先までしてほしいなんて……、一瞬でもそんなことを感じたわたしは……』
「いやああああっ!」
「……『想像すると、とても幸せかもしれなくて、そのとき自分がどうなってしまうかを考えると』……」
「も、もう、やめてええっ!」
「……うん。この辺りにしておこうか」
羞恥に顔を真っ赤にした藍が、軽く絶望の色を目に浮かべ始めた辺りで、さすがに僕もやり過ぎたかと反省した。
素直に彼女に日記帳を返してあげる。
「……っ」
胸の内に抱きしめるようにそれを受け取った彼女は涙目になって僕を睨んでくる。
普段僕に絶対に向けることはないその悔しそうな表情がたまらない。
……なんていうのはまあ、冗談で……。
「……藍」
「……な、なにっ?」
若干、警戒した声音が抜けきらない彼女が潤んだ瞳で僕を見る。
「嫌だった?」
「……え?」
「今の、嫌だった?」
「い、いやに決まってるでしょ。あんなの!」
「そう。まあ、そうだよね」
日記帳なんて最近どれだけの人が書いているものかは知らないけれど、それは普通自分だけに見せるために書いているのであって、そんなものはたとえ恋人であっても人に見せるものではないだろう。
「じゃあさ、もし僕がそれを好意で読んだのだとしたらどうする?」
「……え?」
「藍に初心を思い出してほしくて、僕が言うことではないけど、僕のことを想うようになってくれた最初の心を思い出してほしくて、そんな行動を取ったのだとしたら、藍はどんな風に感じる?」
「それは……」
たとえ話ではあっても、僕が単に彼女をからかうためだけにこんなことをしたわけではないということを感じ取ったのか、少し真面目な表情になって彼女が考える。
ややあって、口を開いた。
「……それでも、やっぱり恥ずかしいよ、こんなの……」
震える声音で彼女が言った。
「ま、そうだよね。嫌なものは嫌、だ」
「……い、嫌とか、そんなに強く思うほどでもないけど……」
「……いや、藍、その……」
もじもじしながらそう言う藍はまたぞろ押し隠したMっ気を見せているのかもしれないが、今はそこは重要じゃなくて。
えほんと咳払いをし、逸れかけた話を本道に戻す。
彼女も釣られたように真剣な表情を取り繕った。
「今のは本気でよかれと思ってした行動じゃないけどさ。よかれと思ってしたことが、本当に相手のためになるかどうか、っていうのはわからないし、また、本当に相手が喜んでくれるかどうかもわからない。好意でしたことに対して、敵意や悪意や憎悪を向けられることだってある。もちろん、僕は藍のやることにそんな想いは向けないけどね。でも、必ずしも、自分がいいと思うことが他の人にとってもそうであるとは限らない」
「……」
「親切心や好意で行動するのはいいことだと思うけど、時々振り返る目は持たないといけないと思うんだ」
「……そう、だね……」
「誰かのために何かをしたいと思うのなら、相手にとって何が本当に最善かを考える、それを忘れちゃいけないと、僕は思うんだよ」
「……うん」
「……まあ、藍にはちょっとやり過ぎて恥ずかしい思いをさせたかもしれないけどさ。それだけは言っておきたいと思ったんだ」
「……」
少し説教くさくなってしまったかもしれない。
やったことは結構非道だったと思うけれど、藍はちゃんと僕の言いたいことを受け取ってくれたらしかった。
純粋な色を宿した瞳に、強い意思を覗かせて、彼女が僕と目を合わせる。
「それでも、わたしはそうしたいと、思うから」
「……」
「だから、それぐらいじゃ、やめる気にはならないよ」
「そっか……」
それならそれで、彼女が傷つかないよう、僕も彼女のために自己満足を行うだけだ。
それもまた、僕がそうしたいと思うこと。
言いたいことをすべてではなくとも口にして、それでもう、僕は彼女に伝えておきたいことは伝え切ったと思う。
部屋の中にはココアの甘い香りとコーヒー苦みのある香りが広がっている。
冷めてしまってはもったいない。
さあ、おやつを食べようか、とテーブルにつく。
その肩を、藍の小さな手とはとても思えない力で強く掴まれた。
「……ところでさ、涼」
「…………ん? 何か問題でもあった?」
振り返ると、とてもきれいな笑顔をした藍がそこにいた。
その笑顔に冷や汗が背筋を流れる。
「結局、わたしの日記を無断で見たことには変わりはないんだよね?」
「そ、それはほら……、今のが言いたくて……、だね」
「別にわざわざわたしの恥ずかしい秘密を暴露してまで言うことじゃないよね。それとも、涼はわたしのことを、あそこまでしないと理解できないくらいのわからず屋だと思ってるの?」
「そ、そういうわけじゃなくて、ね。ほら、物事には順序ってものがさ。プレゼンするにも、資料がいるだろう?」
「……へえ? つまり、涼はわたしが大切に書き溜めていた想いの籠った日記を道具にした、っていうことなんだね」
「……そんなことは」
「あるよ」
冷たい声で遮られ、あれ、これほんとにまずくないか、と思い至る。
いつもなら、大抵のことには寛容でいてくれる藍も、なんだか今はかつてないほど激しく怒っているような……。
「――涼」
「は、はいっ!」
感情の欠片も乗せられていない声音に背筋をぴんと伸ばして思わず答える。
「正座」
「……いや、あの」
「正座して」
「……はい」
大人しく、彼女の前にひれ伏し、正座する。
この後、こってり絞られた。
淡々と冷たい無表情で合理的な理屈を語り続ける藍の姿に、癒しなんてものは欠片も存在しなかった。