不安
「涼、今日はお昼、何食べたい?」
「……そうだなぁ」
「……また、わたしだなんて言わないでよ」
「え? 僕がいつそんな品のない冗談を口にした?」
「……昨日思いっきり言ってたよ。それも公共の場で」
「へえ。公衆の面前で藍にそんな恥をかかせる奴がいたんだね。今度会ったら一言お灸を据えておいてあげるよ」
「……それは省みる気はないっていう、不言の意思の表れなの……」
呆れるようにつぶやく藍に、何のことかわからないと首を傾げる。
「ところで、ほんとに何が食べたいの?」
それ以上突っ込んでも意味はないと諦めたのか、気を取り直して彼女が訊いてくる。
「藍が作ってくれる料理なら何でも食べたい」
「そう言ってくれるのは嬉しいんだけど……。それが一番困るっていうか……」
「そうらしいね」
「……わかってるならちゃんと答えてよぅ」
「わかっていてもどうしようもないことがあるんだよ。世の中には」
「……要するに、特に希望はないっていうことだよね」
「そうとも言える」
「そっかぁ……」
今までずっと姿勢を固めて本を読んでいたために、ぐっと背伸びをするように腕を伸ばして、藍が吐息する。
滞っていた血流が流れ出し、脳に血液が循環すると同時にひらめきを得たのか、いいことを思いついたと言うように藍が顔をこちらに向けた。
「ねえ。一緒につくろ」
「……え、子どもを?」
平然と聞き返すと、瞬時に彼女が顔を真っ赤にした。
「――っ!? な、な……なんでそういうこと言うの!」
「……若気の至り」
「さっき品がないとかなんとか言ってたのに……」
「正直、自分で言ってて自分で引いてる。脊髄反射でしゃべるもんじゃないね。ごめん」
「あ、うん。だいじょうぶだよ。涼」
素直に頭を下げると笑って許しくれる藍。天使。
「で、どうして僕と一緒に料理を作るっていう発想に至ったのか、教えてくれる?」
「あ、ちゃんとわたしの言いたいことわかってたんだね」
「そりゃあ、わかるよ。逆に今の流れで子どもをつくろうっていう発想に至る奴の気が知れないね」
「……今日の涼はなんなの? ところかまわずブーメランを投げる日なの?」
繰り返してそんな言葉を口にすれば、若干の辛辣さを含んだ言葉が返ってくる。
たまに混ざる微妙に棘の滲んだ彼女の言葉。
気安さに親密度の高さを感じる今日この頃。
「それで理由は?」
「あ、うん。食べたい料理がないのなら、逆に料理そのものを楽しい時間にしちゃえばいいんだよ、というわたしのありがたい提案なのです」
えっへんと胸を張る藍ちゃん。
以前よりも膨らんだ胸元がより女性らしさを強調してくる。
けれど、それ以上に仕草が子供っぽいので、かわいらしいという印象しか抱かないが。
「目的より過程を楽しもうという」
「そうそう」
「よし、乗った」
「……ところで涼の料理経験は?」
「藍から藍を引いたぐらいだね」
「……要するにないってことだよね。わざわざわたしを引き合いに出さなくても……」
「当たり前の質問に当たり前で返すことを拒絶する僕の偏屈さに敬意を払ってくれてもいいんだよ」
「回りくどいのを自慢げに言わないで」
もはや慣れてしまったようにあしらわれる。
ふぅ、と息をついた藍が、ベッドからすとんと降りて、階下へ向かう。
僕もその後に続き、台所に二人ならんで立つ。
「はい、涼の分のエプロン」
「……しなきゃだめ?」
「だめ」
「そもそもエプロンって何のためにするのか、常々疑問だったんだけど」
「油とか飛んでも服が汚れたりしないように、でしょ?」
「……なるほどなるほど」
言いつつ、ごまかして料理道具を取り出そうとするが、がっと腕を掴まれる。
「料理長権限です。しないとだめ」
「……いつから僕は下っ端料理人になったんだ」
「敬意を払う代わりに権威を振りかざしてあげるんだよ、感謝してね」
「アリガトウゴザイマス、料理長」
「くるしゅうない」
何のやり取りなんだか。
いそいそとエプロンを結び、念入りに僕はバンダナなど巻かされる。
藍の方が髪が長いのに、彼女は後ろに一つにまとめるだけで頭巾などはしていないし。
まず間違いなく、「おでこ出してる涼、おもしろい……っ」などと目の前で密かに笑いをこらえている藍のパワハラだ。
仕方ない。
ハラスメントに対してはハラスメントで応えよう。
目には目を。
歯には歯を。
ハラスメントには……、まあ、普通にしかるべきところに訴えた方がいいと思うけれど。
「……料理長、手をお温めします」
「……え?」
十月なので、家の中でそんなに冷えるわけでもないが、料理は水をよく使うからな。手を大事にするのは当然の気遣いだ。
「な、なかなか見どころがあるね、うん。君は将来伸びるよ」
「料理長、顔が赤いですよ」
「そ、そんなこと……」
「食材を料理する前にあなたが料理されてますよ。茹で上がるのも時間の問題ですかね」
「……料理長はそんなに扱いやすい食材じゃないもん……。じゃがいも並みに火の通りが悪いもん……」
「いえ、油並みですよ」
「わたし、そんなにちょろいんだ!?」
珍しく目を見開いて大声を上げた藍に、僕は肩をすくめる。
「それで、何を作るつもりなの?」
「……大げさに反応したのにさらっと流されると恥ずかしいんだけど……」
「よくできましたね、えらいえらい」
「褒めてもらいたいわけでもないからっ!」
口では思い切り否定しつつ、それでも表情が緩んじゃってる藍かわいい。
頬を膨らませつつも唇の端を緩ませるという微妙な表情で彼女が言う。
「焼きそばでも作ろうかなって」
「なるほど。安心安全の定番ですね」
「涼には野菜のカットをお願いします」
「りょーかい」
まな板と包丁を準備し、藍が棚や冷蔵庫から出してきた野菜を受け取る。
「……玉ねぎと人参とキャベツとピーマンと豚肉と……もやし?」
ずいぶんいろいろ出してきたな、と思いつつ、焼きそばではそれぐらい使うかと思いつつ。
「怪訝な顔して、何か引っかかることでもあったの?」
「……焼きそばにもやしって入れる?」
「え……、入れる、と思うけど……」
「焼きそばにもやし入れたら、どっちが麺でどっちがもやしなんだか、わからなくならない?」
「……食感が違うよ」
「そう……。だとしても、僕はもやしは遠慮したいね」
「どうして?」
「……好きじゃない」
「……シャキシャキしてておいしい、と思うけど」
「好きじゃないんだ……」
「う、うん。涼がそう言うなら、じゃあ、入れないでおこっか」
そっともやしを手に取って、冷蔵庫にしまいに行く。
「あんまり好き嫌いするのもよくないと思うよ」
戻ってきた藍が少しだけたしなめるように口にする。
「わかってはいるんだけどね……」
「意外と涼って嫌いな物が多いよね」
「まあ、野菜とか野菜とか野菜とか」
「男の子、って感じだね」
「ただでさえストレスフルなこの社会で、食べるものぐらいは自由にしたっていいじゃない。栄養バランスを崩した生活をしていたところで、長生きする人はするんだし。それに、長く生きたところで楽しいことが待っているとも限らない」
「……」
自分なりの理屈を展開してみせると、藍が考え込むように唇に手をやる。
「……涼が限られた人としか関わろうとしないのもそれが理由なの? それ以外のところでも十分ストレスがいっぱいなんだからって」
「……」
「わたしとか、るりとかももちゃんとか、接する相手が普通の高校生よりかは大分、限られている気もするしね」
「そうかな? 普段一緒にいる相手なんて、それくらいの人数なものだと思うけど」
「そう、だけど……、でも、やっぱり涼の場合は自分から避けてる面も多いから、なんでなのかなって……、わたしが言えたことじゃないかもしれないけど」
「いいや、もう今の藍には十分それが言えるよ。ずいぶん友達も増えたしね。あの芦原さんとかだけじゃなく、クラスメイトともけっこう話をするようになったみたいだし」
話す相手が僕だけだった初めの頃とは、比べるべくもない。
「――全員が全員、好意的でいてくれるとは限らないんだけどね……」
「え……?」
彼女の口からぽつりと発せられた、実感がにじみ出たような重い響きの言葉に、一瞬反応に窮する。
その響きにはクラス内での彼女の様子を見る限りでは決して感じ取れない苦悩のようなものが含まれている気がして、事情を訊いた方がいいのか訊かない方がいいのか、わずかな間逡巡する。
けれど、僕がその意思を決定する前に、彼女がすぐに首を振った。
「……ううん。なんでもない」
取り繕うでもなく、飾るわけでもなく、どちらかというと僕を安心させるように見せた彼女の微笑は、今までよりもずっと大人びて見えた。
それがまた、どこか不安を感じさせる。
安心させるためのはずの笑顔が、もっとずっと僕を不安な気持ちにさせる。
「ごめんね。変な話しちゃって……。お料理しよう」
「……」
心配しなくても大丈夫。
目の前の色とりどりの食材に向かう彼女の態度は無言でそう告げているようで。
けれど、強い意思を感じさせる瞳は同時にこうも言っているような気がした。
涼はそれ以上訊かなくてもいい。
わたしがぜんぶ、なんとかするから。
寂寥感のような、焦燥感のような、喪失感のような、落ち着かない気持ちが心に浮かぶ。
けれど、一番大きいのは漠然とした不安。
このままで大丈夫なのだろうか。
今のままを放置して何も問題はないのだろうか。
そんな不安。
藍に指示されながら玉ねぎの根をカットすると、ざぐりと重い音がして、ぱっくりと白い中身が現れた。