嗜好
肩に乗せられた藍の足の感触が心地いい。
頬を太ももで挟むようにされていて、柔らかで滑らかな肌触りに包まれながら、本を読むのはとても幸せな時間だった。
半分くらいショートショートの大群を読み終えたところで、そっと彼女の膝に手を伸ばす。
そのまま太ももを撫でるみたいに。
ぴくっと藍が反応して、少しだけ嫌がるような声を出す。
「……ちょっと、涼……、くすぐったいよ」
「まあ、それはくすぐってるんだから、当然だよね」
「なんでそういうことするの?」
「いやあ、だって、藍は何しても怒らないし、安心していたずらができるから」
「……さっきの今でわたしが言えたことじゃないかもしれないけど、ほどほどにしないとちゃんと怒るからね」
「ごめんごめん」
「……心が籠ってないなぁ、もう」
言いつつ、藍が僕の後頭部の辺りを拳骨でぐりぐりする。
「彼女のわたしに気安すぎる涼には罰が必要です」
そのままぐりぐりー。
罰じゃなくて、癒しなんだよなあ。
鞭じゃなくて飴。頬に触れる太ももはほんの少しだけむちっとしているけれど。
彼女のふくらはぎを両手でつかんでぎゅっと内側に寄せる。
開いたり、閉じたり。
ぷにぷに。
「……言っている間にまたそういうことする」
「これくらいはいいじゃない」
「そうかもだけど……」
不満げに口にした藍が拳骨を引っ込める。
今度は後頭部にやわらかい感触。
「じゃあ、これくらいもいいでしょ?」
「仕方ないなぁ」
僕の頭を後ろから抱きしめるような体勢になった藍が、体を折るようにして、僕の目の前に顔を出す。
ほとんど彼女を肩車しているような状態。
さかさまになった藍の顔が視界いっぱいに広がる。
相変わらず、きれいな瞳をしていると思う。
澄み切っていて濁りがない。そして、とてもかわいらしい。
「……何考えてる? 涼」
「んー、藍の瞳はきれいだなー、って」
「……っ……あ、ありがと」
「どういたしまして」
不意打ちは今でもけっこう効くらしい。
顔を赤らめた藍が恥ずかし気に目を逸らす。
あー、かわいい。
そっと頬に手をやると、藍が目を合わせてきた。
僕の額の辺りを抱きしめる力が強くなり、熱っぽい視線が絡み合う。
「……」
「……」
お互いの睫毛と睫毛が触れ合いそうなほど近い距離で見つめ合う。
さかさまの瞳を見つめ続けていると、吸い込まれていきそうに感じる。
とくんとくんと、穏やかな藍の鼓動が頭のすぐ後ろで聞こえる。
なんとなく今日は寝足りないような気持ちを感じていたのもあって、頭全体に感じる藍の体温と静かな鼓動に意識がまどろみそうになる。
「……ちゅ」
「……おぅう」
そんな閉じかけた僕のまぶたは、額に押し付けられた熱の籠った感触によって、急速に覚醒させられた。
「寝ちゃ、だめだよ」
「……優しい藍ちゃんならここは眠りにつく僕をあたたかく見守ってくれるシーンじゃないの?」
「わたしと見つめ合ってる最中に寝落ちするなんて、そんなのだめ」
ぷっくりと膨れた頬を突っつくと、ますます藍は眉を寄せた。
「……ん」
と、そこでさすがに頭に血が上って来たのか、彼女が体を離し、ベッドを下りて僕の前面に回り込む。
ぎゅっと体全体を押し付けるように、藍が首に手を回してくる。
今度はさかさまじゃなく、正面から向き合って、吐息がくすぐったくなるくらい、藍が顔を近づけてきた。
こつんと、彼女の額と僕の額が軽く小突くように当たる。
「……近くない?」
「近くないです。これくらいがわたしと涼の適正距離です」
「さいですか」
藍がそう言うのなら、それはたしかな事実なのだろう。
「……」
「……」
さきほどの続きだと言わんばかりに藍が熱の籠った視線を向けてきて、それを僕が見返す。
無言で見つめ合うのに気恥ずかしさはないけれど、正面からこれだけぴったりとくっつき合うと、いろいろ経験した今となっても、さすがに鼓動が早まってくる。
「……涼、ドキドキしてる?」
「それはお互い様だよ」
「……うん」
触れ合う藍の小さな胸からも、早鐘のような鼓動は伝わってきている。
ささやかな藍の胸の感触。
大きくはなくて、でも、やわらかさはあって……、……んー?
「……あのさ、藍」
「……うん?」
「気のせいかもしれないけど」
「……なに?」
「ちょっとだけ胸大きくなった?」
「……――っ!?」
あ、めちゃくちゃ鼓動が早くなった。
焦ったようにぱっと体を離した藍が自分の胸に手を当てる。
しばらく、感触を確かめるように胸を触っていて、やがてすがるように視線をこちらに向けてきた。
「ほ、ほんとに!?」
「いや、まあ、なんとなくそんな感じがしたっていうだけなんだけど、心なしか以前よりも膨らみを増してきているような気はするよ」
「……っ」
なんとも表現しづらいような表情を藍は浮かべる。
嬉しさと切なさと寂しさがない交ぜになったようなそんな表情。
胸が大きくなるということは胸の小さな女性にとってはうれしいことなのかと思っていたけれど、それだけではないのだろうか。
そんなことを感じさせる複雑な表情だった。
そして、僕の顔色を窺うように藍が顔を上げる。
ぽつりと水面に波紋を落とすように口にした。
「……りょ、りょうは……――」
「……ん?」
そして、祈るように言葉を紡ぐ。
「――りょうはやっぱり、幼い体のままじゃないと嫌……?」
「…………は?」
一瞬、藍の口にした内容に、思考が停止する。
幼い体のままじゃないと嫌……って。
しばらくして彼女が何を言っているのかに思い至った僕は、愕然として問い返す。
「……い、いや、藍は何を言っているの?」
「だって、涼はそっちの方が好きなんでしょ? るりちゃんじゃなくて、わたしを選んでくれたのだってそういう……」
「……え、待って! 藍は僕のことそんな風に思ってたわけ!?」
彼女の発言に動揺を隠せない。
僕が栗原じゃなくて藍を選んだのは、それが主な理由だと思われているわけか!?
だとしたら、僕は藍に幼い肢体を愛する変態だいう認識を抱かれていたまま、お付き合いをしていたとでも言うのか!
「いやいやいや! そんなわけないじゃん! 僕がたったそれだけのことで女性を判断する最低な人間なわけないじゃん!」
「……でも、すくーるみずぎとか好きでしょ?」
「…………そ、それは……、だからその……、ち、ちがうんだって……」
「じゃあ、小さい胸と大きい胸、どっちの方が好き?」
「……前者」
「やっぱり……」
あのー、藍さん、そこで何もかもわかったような切なげな微笑みを浮かべるのをやめませんか?
「……誤解のないように言っておくけど、僕は決して藍が幼い体をしているから好きになったわけじゃなくてね……。藍の性格を含めて好きになってるわけだから」
なぜこんな言い訳のようなことを口にしなければいけないのか謎だったが、とりあえず、藍の誤解を解かなければいけないと思い、そう口にする。
「じゃあ、もし、幼い体のわたしと、豊満な体のわたし、どっちか一つを選べるとしたら、どっち?」
変わらず切ない笑みを浮かべてそんな質問をする藍に、背中に冷や汗を流しながら、僕は正直に答えるしかない。
「……そ、それはほら、僕は今の藍のことが好きになったわけだから」
「やっぱり……」
だから、慈愛顔で微笑むのをやめてくれ……。
僕はまったく笑えないから。
さきほどの熱っぽい雰囲気はどこへやら、何でこんな話の流れになったのかわからないが、藍の誤解を解くまでにけっこうな時間を費やした。