ムード
九々葉家に戻ってくると、藍が台所に立つ。
ブラウスとショートデニムに改めて着替えなおし、昼にもつけていた白いエプロンを身に着けて、横に垂らしていた髪を後ろにまとめた。
「……涼がしてほしいっていうのなら、裸エプロンでもいいけど……」
着替えに自分の部屋に戻る際に、彼女は上目遣いにそう提案してきた。
やっぱり露出趣味があるんじゃないかと疑いたくなる言動だったが、僕は首を振っておいた。
そんな姿の藍を見て、自分を抑えられる自信がない。
リビングのテーブルについて、台所で黙々と作業する藍を見つめる。その横顔は真剣だ。
カレーに対しても、そこまで真面目に取り組む藍はとても偉いと思う。あとで頭を撫でてあげよう。
などと考えているうちに下準備を終えたらしく、藍がエプロンをつけたままリビングの方に戻ってきた。
「あとは煮えるのを待つだけ、かな」
「手際いいね」
「いつもやってるから」
どこか誇らしそうに、彼女は言った。
「藍、こっち」
そんな藍を手招きし、僕の座っている椅子のそばまで来てもらう。
「何? って……わっ」
「好きなだけしていい、って言ったよね?」
スーパーからの帰り道、抱きしめてもいいかと尋ねたら、家に帰ったら好きなだけしていいと藍は答えた。
だから、僕は彼女をぎゅっと強く抱きしめる。
「いきなりなんだから、もう……」
「嫌だった?」
「ううん。嬉しい……」
藍がそっと手を僕の背中に回してくる。
彼女の首元に顔を埋めると、心が溶かされるようなフローラルな匂いがした。
「やっ……、ちょっ、と……んぅ、くすぐったいよ」
唇を彼女の生白い首に添える。ちゅっと、甘く吸った。
ぴくりと彼女の身体が震える。
「……だ、抱きしめていいとは言ったけど、そんなことしていいなんて言ってないよぅ……」
戸惑った響きを声音に乗せながら、少し不満そうに藍が言い募る。
けれど、僕を抱きしめる力は強くなっていて、本当のところはそんなに嫌がっているわけではないのだろうと思った。
「じゃあ、したらだめなの?」
「え……、えっと……、だめじゃないけど……」
「いいの?」
「……も、もうすぐお夕飯なのに……、やっぱりだめだよぅ」
「そっか。だめかー。ざんねんだなー」
「……そ、そんなにしたいの?」
「ものすごく、したい」
「…………涼がどうしても、って言うなら、してもいい、けど……」
「どうしても」
「……じゃ、じゃあ、いいよ……。好きにしても」
「うん」
彼女の首に舌を這わせる。
白い肌をくすぐるように舐めると、藍が身をよじって、気持ちよさそうな短い声を上げた。
「な、なんで、舐めるの? キスするんじゃ……なかったの?」
「だって、藍が好きにしていいって言うから」
「だ、だけど、こ、こんなの」
「気持ちいい?」
「そ、そんなこと言ってない!」
「なら、やめてもいいの?」
「……だめ」
「わがままだなあ、藍は」
「涼のばか……」
言われると同時に首筋をもう一度ちろりと舐める。
今度も彼女は気持ちよさそうな声を出した。
「……もしかして、藍、欲求不満だったりする?」
「だ、だれのせいだと思ってるの?」
「皆目見当もつかないなー」
「涼以外にいないでしょ……?」
「それはたしかに」
もう一度強く彼女を抱きしめる。
立ったままだった藍が、座っている僕の腿の上に膝立ちになるようにして覆いかぶさり、ぎゅっとこちらに体を押し付けてきた。
彼女の胸のやわらかい感触が鎖骨の辺りに触れる。
突き出すにようにした彼女のお尻が僕とは反対の方向を向いているのが見えた。
「言っていることとやっていることがずれてない? 藍」
「ずれてません。よ、欲求不満……だから、こ、これでいいの」
「それでどうしたら藍の欲求は満たされるのかな?」
「い、言わせないで」
「言えないようなことなんだ?」
「ち、ちがう……。ちがわないけど、でも、ちがうの」
「藍はえっちだなー」
「ち、ちがうから……」
恥ずかしがって否定しても、さっきベッドで悶えていたときにはまるっきり肯定していたんだけどね。
「藍がしたいことは、もう少し後のお楽しみにしておこう」
「わ、わたしがしたいことってなに?」
「言わなくてもわかるんじゃない?」
「っ……。わ、わかんないから……」
「ほんとに? じゃあ、何もしなくていいの?」
「……………………やだ。して」
「あはははっ」
その素直な返答に思わず声を上げて笑ってしまう。
恥ずかしがり屋だけど素直な藍は本当にかわいいし、好きだ。
「もうそろそろ、カレーも煮えた?」
「……あ、そうだね」
時計を見ると、午後六時を少し回っている。夕食にもちょうどいい時間だろう。
慌てたように彼女が僕の上から下りて、台所にぱたぱたとかけていく。
それから、大皿にごはんを盛り、その上にカレーをよそってテーブルまで持ってきた。
僕の分は割と大盛り、彼女の分はかなり控えめだ。
「いただきます」
「いただきます」
エプロンを解いた藍が僕の正面に座り、一緒に手を合わせた。
スプーンを手に取って、カレーをすくう。
口に入れると、ぴりっとした辛さと香辛料の刺激のある香りが口中に広がった。
「これってルーのほかに何か入れてたりするの?」
「あ、わかった? 市販のルーで煮込んだ後に少しだけスパイスを加えてるんだよ」
「へー。だから香りが強い感じがしたんだ」
「そうそう」
なかなかこだわるなあ。藍の料理技術も大分、発展してきている気がする。さすが努力家だ。
「でも、よく考えたら、カレーって匂いが残るから、ムード的にはあまりよろしくないかもね」
食べながら、なんとなく思いついたことを口にすると、藍の手の動きが止まった。
「……え?」
「いや、さあ、こう、イチャイチャしているときにカレーの匂いがするというのも、なかなかにムードが壊れるかなあと」
続けてそう言うと、彼女がちょっと目を見開いて、それからスプーンを取り落とした。
カランと、皿とスプーンが触れ合って甲高い音がする。
「そ、そんな……っ」
なんかこう、人生そのものに絶望したかのような、そんな大きすぎる絶望がそこにはあった。
いや、たかがカレーの匂いくらいで大げさな……。
「別に僕は気にしないから、いいけどね」
「わ、わたしは気にするの!」
ぼそっとつぶやきがちに言うと、藍が声高にそう主張した。
「た、大変だよ。今から別のものを作り直さないと……」
慌てて腰を上げる藍に、のほほんとした声で僕は言う。
「いやあ。もう手遅れじゃないかな。僕はもう、半分くらい食べちゃったし」
目線を下ろせば、大皿半分ほどを平らげたカレーがそこにある。
藍の方を見ても、四分の一ほどは胃袋に収まっているようだった。
「……」
彼女がうつろな瞳で僕と自分の皿を見比べるようにして見た。
「だから、まあ、諦めて食べよう。ね?」
「……ぅう」
泣きそうな声を漏らし、彼女が再び席についた。
「どうして、最初に言ってくれなかったの?」
「いや、匂いとかあんまり気にしたことなかったしさ。何となくカレーを思いついたからそれでいっかなって」
「……そっかー」
諦めたように彼女が吐息する。
また、スプーンを手にしてカレーを口にした。
「まあ、歯磨き、ブレスケア、等でどうにでもなるレベルだと思うよ。だから、気にしないで」
「ぅう……」
泣きそうになりながら、それでもぱくぱくとカレーを口にする藍の頭をよしよしと撫でであげる。
「ありがと」
小声で藍はお礼を言った。
それから、こちらの様子を窺うように、上目遣いで僕を見る。
「……いっぱい、……いっぱい、イチャイチャしようね?」
「う、うん」
しおらしい彼女の様子に、ちょっと心を揺さぶられた。