楽しい時間はまだつづく
一人だけ、というのがどうにも恥ずかしかったのか、その後、乱れた衣服を整えた藍は消え入るような小声で「……シャワー浴びてくるね」とだけ言って出て行った。
首元まで熱を帯びていた様子を見るとそれだけでにやついてしまいそうになる。
何度、目にしても、藍のああいう恥じらいを忘れない態度にはぐっとくるものがある。
だからこそ、その姿を見たいと思ってしまう自分もいるのだが、まあ、ほどほどにはしておこう。
「ふぅー……」
ため息をついて、体の中の熱を逃した。
藍に言った通り、彼女との時間をそんなことだけに費やすのが惜しいと思ったのは本当だ。
けれど、抑えきれない衝動があるからこそ、こんなことになってしまったわけで。
まったくままならないものだと思う。
大切に思えば思うほど、暴走する感情は強くなっていくのだから。
とりあえず、もてあますものは多くあっても、今は後回しにしておこう。
時計を見ると、午後三時を回っていた。
ここに来る前は彼女と外に出かけるのもいいかもしれないと思っていたが、さっきの今でああいうことがあった手前、外に連れ出すのも忍びないし、もはやそういう気分でもなくなっている。
「お出かけはするとしても明日ですかね」
楓さんたちが帰ってくるのは日曜の夜遅くだと聞いている。藍と二人っきりでいる時間はまだまだあるのだ。
別に外出を急ぐ必要もない。
さりとて、このまま彼女の部屋にずっといると、いつまた自分を抑えきれなくなるかと思うところでもある。
ただまあ、抑えきれなくなったところで、別に大きな問題があるわけでもない気はするが。
「……ま、そういうのは更ける(耽る)夜のお楽しみということで」
そんなことをつぶやきつつ、これくらいいいかと思って、僕はさっきまで藍が悶えていたベッドの上に倒れ込んでみた。
とても甘い匂いがして、頭の中がくらくらとして、幸せな気持ちになった。
二十分くらいで藍は戻って来た。
濡れた髪に上気した頬がちょっと色っぽい。
一つにまとめていた髪を今は肩の辺りに軽くかけるようにして流している。
「涼がよければ、髪、乾かしてくれる?」
そんなことを藍は言った。
「いいの? 僕なんかがやっても。濡れた後の髪のケアとかけっこう大事なんじゃないの?」
実際、最近の藍の髪は彼女がとても気を遣っていることがわかるくらいさらさらだった。それを僕みたいなガサツな男が扱ってもいいものか、と。
「そうかも、だけど。タオルドライはきちんとしてきたし、トリートメントもしてきたから。それに、今は涼にしてもらいたい気分だから、別に気にしなくてもいいよ」
「そっか。じゃあ、お言葉に甘えて」
「うん。よろしくおねがいします」
おどけたように頭を下げる藍。
それから、引き出しからドライヤーを取り出してきて、僕の前に腰を下ろした。
受け取ったドライヤーを片手に、妹の凛がやっていた様子を何となく思い出しつつ、毛先の方から熱風を当てていく。
手に取った彼女の髪の感触は滑らかで、手触りが尋常じゃなく気持ちいい。
「その……さっきはごめんね。わたしだけ盛り上がっちゃって」
顔が見えないからだろう。さきほどとは打って変わって、とても落ち着いた声音で藍が言う。
「それは別にいいよ。僕は割と、そういうのが好きというか」
「そういうのって?」
「自分が、じゃなくて、人が幸せそうにしてるのを見るのが好きというか、人が喜んでるのを見るのが好きというか。だから別に、自分だけが満たされなくて、なんていうのは何とも思わないし」
「……そういうこと言われると、余計申し訳ない気持ちになっちゃうんだけど」
「そ、そっか……。それはごめん」
「謝るのはわたし。涼じゃないよ」
ちょっと拗ねたような声音で藍が言う。
「でも、すごいね。人が幸せそうにしてるのが好き、だなんて。わたしはそんな風には思えない、かな」
「そうなの? てっきり藍もそういう人種かと」
「ううん。わたしはちがう。わたしはとっても自己中だから」
「うーん」
僕はそうは思わないのだが。藍はちゃんと人のことを考えているし、人の幸せを願ってもいる。自分の幸せを考えるのはむしろ人として当然のことだと思うし。別に自己中ではないと思うのだが。
「だからもし、わたしがそんな風に自分のことばかり考えていたら、涼が教えてね。わたしが間違っていると思ったら、涼が教えて。わたしもそうするから」
「……わかった」
それでも、藍の中でそのことがネガティブではない捉え方をされているのなら、僕に言えることなど何もないと思った。
彼女の心が明るくさえいれば、いつかはそういう認識も変わってくるだろう。
「ところで涼……」
「ん?」
藍がやや困ったような声音で言った。
「ずっと同じところばかりで熱いです……」
「ああああ! ご、ごめんっ! 会話と考え事に夢中になってた」
任されたはずの、彼女の髪を乾かすという大事な任務を僕は半ば放棄しかけていた。
慌ててドライヤーの先を移動させ、順に乾かしていく。
「……涼は一つのことに夢中になっちゃうタイプだね」
熱くなった毛先をくりくりと弄りながら、藍が言った。
責めるような音色を帯びてはいないものの、どこか毛先へのダメージを気にしている仕草だ。
「ほ、ほんとにごめん! 僕が完全に悪い」
「……任せたのはわたしだから、涼が完全に悪いってことはないよ」
「それでも、ほんっとごめん」
幾度となく謝罪の言葉を口にする。
藍はこれでけっこう、根に持つタイプというか、気にしていないように見えて気にしていたりするタイプだから、誠意は尽くさなければならない。何より、会話に傾倒しすぎて、注意力散漫だった僕の落ち度だ。
「そ、そんなに謝らなくていいから……。えっと、その、後をきちんとやってくれれば別に……」
「それはもちろん」
僕は彼女の滑らかな髪に意識を集中し、丹念に、やりすぎないよう髪を乾かしていく。
ドライヤーが熱風を吐き出す音が連続し、静かな部屋の中、その駆動音だけがこだまする。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……えっと、今度はしゃべらなくなっちゃうんだ……」
「え、あ、ごめん。集中してた」
「……ん、んー、別に涼にしてもらってるだけで気持ちいいけど、ちょっと今はお話したかったかな」
「そ、そっか、そうだよね」
言われて、僕は何を言おうかと口を開いたが、如何せん話題が思いつかない。
「りょ、りょうは……」
「ん?」
「な、なんでもない」
どうやらそれは藍の方も同じだったようで、言いかけてすぐにやめた。
「……」
「……」
再びの無言の時間が継続する。
僕はそれでも、今度はちゃんと目的を見失わずにやりつづけ、どうにか彼女の髪を乾かし終えた。
「終わったよ」
「うん。ありがと」
振り返った藍が笑顔でお礼を言う。
さわさわと髪を触って整えた。
「おかしくない? 大丈夫かな?」
「うん。最高にかわいいよ」
「……う、うん。ありがと」
くしくしと照れたように彼女が髪を梳いた。
「さて、どうしよっか。まだ三時半ってところだけど」
時計を見ても、針の進みを遅く感じる。
圧縮された彼女との時間は現時点でもものすごく濃厚なものだった。
一緒に昼食を食べ、べたべたとし、ちょっと激しくイチャつきあって。
それでも、二日間という時間はそれ以上に残っている。
「うん。まだまだいっぱい時間はあるね」
彼女が微笑んで、僕を見上げた。
「いっぱい、お話しよう」
自然に口から出た彼女の言葉。
僕はそれに否やはなくて。
いざ話し始めると、直前に全然見つからないと思っていた話題が、不思議とするする口をついて出てくることに気づいた。
それは彼女も同様で、表層を繕って話をしているようにはまったく感じられない。
表面上の、その場を繋ぐだけの会話は拙くて、本心からの気持ちをまっすぐ伝えるような会話は延々と続いていく。
僕は彼女を、彼女は僕を、一心に見つめている。
取り繕うよりぶつかって、探り合うより抱きしめ合って。
それはそうそう一般的にはないやり取りかもしれない。
けれど、僕と彼女はこれでいいのだと、そう思った。
物語的な動きがないというのもある意味退屈なことかもしれませんが、こういう風にイチャついている二人を見るのはとても楽しいことなので、多少の変化は織り交ぜつつも、しばらくこの感じでつづけていこうと思います。いろいろとやりすぎだったりするかもしれませんが、イチャつきを描く場合、プロットを立てずにその場の流れを重視して書いているので、なぜか前回前々回のようになってしまいます。正直、ぎりぎりな気もしますが、一応、限度を超えないようには弁えています。
ふと思いついたのですが、もしこの二日間の中で何か読みたいシーンがあれば、感想等で仰っていただければ、それに応えることができると思います。読んでいただいていることへのお礼として、何かできないかな、とふと思ったので。誰視点でもおっけいです。メイン二人じゃなくても。
なければないで、いつも通りの感じがつづくと思います。
まあ、そういうのはいつでもお待ちしております、ということを言っておきたかっただけなので、何かあれば気軽に仰ってください。