小さな望み
六月下旬。
その日、僕は早朝にも関わらず降り注ぐ夏の強い日差しを受けて、額に汗しながら、学校へと向かっていた。
いつもよりも三十分ほど早くに家を出て、自転車を漕ぐ。
学校に着いたのは七時ちょうど。
教室に鞄を置き、足早にその場を後にすると、生徒相談室に向かった。
こんな朝早い時間から開いているかはわからなかったが、あの先生ならば、こんな時間にもあの部屋を開けているのではないかと思った。
その予想に違わず、相談室の扉を開くとともに、「やあ」との声がかけられた。
「ずいぶんと早いのですね、相田君は。いつもこんなに早く、学校に来ているのですか?」
「いえ、実はちょっと先生に相談したいことがありまして」
「私に?」
「ええ」
頷くとともに、室内に足を踏み入れる。
「まあ、どうぞおかけになってください」
「あ、はい、失礼します」
言われてまた窓際のソファーに腰を下ろす。
向かいに一木先生が座った。
「それで、相談とは?」
「九々葉さんのことです」
「彼女がどうかしたんですか?」
「……いえ、別段目立った問題があるというわけじゃないんですけれど」
そう。彼女と友達になっておよそ一か月近くが経過したが、それほど大きな問題が存在しているわけじゃない。たまに栗原と会話を交わすことはあるものの、僕は相変わらずクラス内で浮いているし、九々葉さんは相変わらずクラスメイトとコミュニケーションを取ろうとしない。
まるで問題がないわけじゃないけれど、それほど大きな問題があるわけではない。
現状を維持していたところで、たぶん、何もまずいことは起きないはずだ。
だから、そういう学校生活を送る上でのトラブルについての話ではなくて、単にこれは僕が思うところの、感じているところの話だった。
「……その、ですね。彼女が……」
「ええ」
「彼女が、九々葉さんが笑っているところを僕は見たことがないんです……」
「……なるほど」
しかつめらしい顔で先生が相槌を打った。
そう。これは単に僕がそんなことを感じたというだけの話だ。
一か月近い時間が経過して、彼女と一緒の時間を過ごしてきた僕は、まだ一度も明確に彼女が笑ったところを見たことがなかった。学校外で彼女と遊んだことはなく、学校生活の中でたまに関わることがほとんどだったけれど、それでも、その中でも笑顔を見せてくれない、というのはちょっと普通なことではないと思う。
初めに彼女にお礼を言われたときに唇を緩ませるようなところを見たものの、それ以降、彼女が楽しそうに笑ったところを、僕は一度も見たことがなかった。
「それはたしかに重要な問題ですね……」
先生が腕を組んで考え込むように言う。
「そう思いますか?」
「ええ。友達と一緒にいて一度も笑わないなんて、それはおかしなことでしょう」
「……そうですよね」
落ち着いたやり取りが多いとはいえ、たまに僕はわざと変なことを言って彼女を笑わせようと試みたりしている。
けれど、その努力が実ったことは今までなかった。
彼女はただ困ったような表情になって、僕を見つめるだけなのだ。
「要するに、どうやったら九々葉君を笑わせることができるのか、ということですよね?」
「はい。相談したいのはまさにそのことです」
「ふぅむ……」
うなるように声を上げる。
「入学から彼女は足しげくこの部屋に通ってくれてはいました。けれど、彼女が自分自身についての話を私にしたことはありません。教師として、力不足を感じるばかりですが、私は九々葉君のことを深くは知らないのです」
「……そうですか」
期待をしていなかったと言えば嘘になる。
この一か月、九々葉さんと一緒に生徒相談室を訪れることも多くあり、この先生のことをそれなりに信頼するようになっていたからだ。
彼はやや型破りながらも、僕ら生徒に寄り添ったものの考え方をしてくれる。
だから、何かいい知恵を貸してくれるんじゃないか、と思っていた。
あからさまに落胆する僕を見て、彼がぱんと両手を打ち付ける。
「良いことを思いつきました」
「……ほんとですか?」
「ええ。確かに私は九々葉君のことを深くは知りません。けれど、あなたが彼女のことを知るための機会を用意することはできると思います」
「というと?」
「私は化学部と天文部の顧問をしているのですが、天文部の方で、近く天体観測をしようという話になっているのです」
「天体観測……」
「ええ、夜遅くに学校に集まり、屋上を利用して星を見ようという。部に所属しているのは三人の生徒さんだけなのですが、それだけでは味気ない。そこで、一般生徒からも参加を募ろうとしていたのですが、そこに九々葉君も誘ってはどうでしょう?」
「……来てくれますかね?」
「それはわかりません。ですが、彼女のように落ち着いた女性は天体観測のようなイベントは割合に好むのではないでしょうか?」
「……そういうイメージがないことはないです」
「相田君は九々葉君と学校以外で遊んだりしたことは?」
「いえ、誘う機会もありませんでしたし」
「ふむ。学校でやる催しなので、その方が誘いやすいということもあるでしょう。もしよろしければ、私も口添えできるかもしれませんし」
「はい、そうですね」
「今週か来週の金曜日の夜を考えているのですが、予定などはありませんか?」
「僕の方は問題ないです」
「どちらがよろしいかといった希望はありますか?」
「気持ち的に、できれば早い方がいいので、今週の方が……」
「では、そのようにしましょう」
即決して言う彼に、僕は見開いた目を向けた。
「いいんですか? 僕一人の都合でそんなこと決めちゃって……」
「他に重要度の高い問題を抱えているわけでもありません。別に構いませんよ。相田君と九々葉君が今よりもっと仲良くなれるのなら、それに越したことはありませんしね」
「ありがとうございます」
僕は深く頭を下げた。
やっぱりこの先生は信頼のおける先生だと思う。
「えっと、じゃあ、今日の昼休みにでも九々葉さんとここへ来ようと思うので、そのときに誘おうと思います」
「はい。できることがあれば、私も協力しますよ」
「……ありがとうございます」
力強く頷いてそう言った彼に、僕はもう一度深く頭を下げた。