藍との二日間
藍から誘われていた土曜日が訪れた。
楽しみすぎて昨夜からなかなか寝付けなかった僕は、眠い目をこすりながらベッドから抜け出る。
時刻は午前十時。
藍には十一時半に行くと伝えてある。
いつもは過剰には気にしない身だしなみをできるかぎり整え、服もまあ、一番ましだと思えるものに着替えて家を出た。
朝食は取らない。向こうに着いてから藍が作ってくれるということなので。
泊まり用の荷物を簡単にまとめてバックに詰め込むと、自転車に乗って家を出た。
彼女の家へ向かう道中もわくわくが止まらない。
藍と一緒に一晩過ごすのは初めてではないが、彼女の方から誘ってくれたのは初めてだ。
旅館に泊まりに行ったことも百日の家に泊まらせてもらったこともあったが、それらは藍の意思というよりはどちらかというと僕が誘ったからであったり、流れに身を任せてという部分が大きかったように思える。
だから、藍が自分から誘ってくれたことが嬉しい。
何より、最近すれ違っていた関係を埋め合わせるのには絶好の機会だと思えた。
九々葉家に辿り着いて車一台分のスペースが空いている空間に自転車を停めさせてもらい、しっかりと鍵をかける。
それから玄関に向かって、インターホンを鳴らした。
「はーいっ」
家の中からいつもよりテンションの高そうな藍の声が聞こえてきて、なんだか無性にドキドキした。
扉を開けた藍が、優しく微笑む。
「待ってたよ、涼。いらっしゃい」
僕は彼女の姿に見惚れてしまった。
伸びてきていた黒髪を彼女は後ろでまとめてポニーテールにしている。ヘアスタイル全体も先日見たよりも明らかに整っていて、一目見ただけでわかるぐらいにさらさらだった。毛先には緩やかにカールがかかっている。そのふんわりとした感じが藍のイメージと合っていて、ポニーテールと相まって普段以上の魅力を掻き立てている。
昼食を作っていたのかつけている白いエプロンは、肩紐の辺りからフリルがついていてシンプルながらとてもかわいい。その下にはどうやら露出の多いトップスを身に着けているらしく、首回りは大胆に素肌の大部分が覗いていた。
そんな普段とは違う装いの藍に、ときめかないはずがない。
「どうしたの?」
こちらを覗き込むようにして、藍が悪戯っぽく笑う。
揺れるポニーテールや覗く鎖骨、わずかに香るひまわりのような温かい匂いに、一瞬本気で眩暈がした。
くらっときた。
「いや、その……」
「その?」
「きょ、今日の藍が……、あまりにもかわいくて……」
「ふふっ……ありがとっ」
嬉しそうに微笑んだ彼女が、背を伸ばして抱きつくようにして僕の頬にキスをする。
「っ……」
「あ、真っ赤になった。涼、かわいい」
お前の方が何百倍もかわいいだろ!
そう大声で言いたくなった。
だが、玄関先でそんな主張を声高にするわけにもいかない。
何より、こんなにかわいい藍を他の誰の目にも触れさせたくなかった。
「と、とりあえず、上がってもいい?」
「あ、うん。いいよ」
満足そうにニコニコしている彼女の肩を押し、家の中に入る。
即座に玄関の扉を閉めた。そして、きちんと鍵をかける。
よし。これで安全だ。藍を邪まな男どもの視線から守ることができる。
もっとも、外を出歩いている人もそんなにいなかったので無用な心配だろうが。
ふぅと一息つくと、こちらにお尻を向け、かがんで靴を脱いでいる藍の後ろ姿が目に入る。
――って、
「スカート短すぎだろ!」
「え?」
顔だけで振り向いた藍が不思議そうな表情をする。
エプロンをつけていたせいでまったく見えなかったが、彼女の穿いている藍色無地のプリーツスカートは色と柄こそ地味かもしれないが、長さが短すぎる。
膝上何十センチだというくらい太ももが惜しげもなく露出されていて、下着に至っては見えていないのが不思議なくらいだ。
「あ、これ?」
お尻をこちらに向けたまま、スカートの裾を掴んでひらひらとさせてみせる藍。
「ちょ、ちょっと待とうか。見えるから。それ、見えるから」
「あ、うん、そうだね」
紳士的でありたいと思いつつも、目が吸い寄せられてしまうのが悲しい。
まあ、この場合、明らかにそんな短いスカートを穿いている藍に責任の一端は求められると思うのだが。
ちなみに際どいところでまったく見えなかった。
「お姉ちゃんがこのくらい強気でいいって言うから」
ああ、楓さんの入れ知恵ね。そう言えば、前もそんなんありましたね。
「…………う、うん。まあ、僕としては落ち着かない面はありつつも、たしかに嬉しいと言えば嬉しい気はするんだけど」
「だけど?」
「それ、外で穿かないよね?」
「うん。大丈夫だよ。涼にしか見せないから」
「……っ」
「どうしたの?」
「な、なんでもない」
なんだろう。今日の藍の言動にはやたらと心揺さぶられるな。
少し、理性が危ぶまれる面がある。
「さ、早く上がって」
言われるままに靴を脱いで廊下に上がって、リビングへ。
テーブルにつくと、対面に立った藍が訊く。
「少し早いけど、ご飯にする?」
「ああ、うん。朝食べてきてないから、お腹は空いてるかな」
「おっけい」
台所の方に向かった藍が、お盆に二人分の皿を乗せて戻ってくる。
盛りつけられているのはペペロンチーノのようだった。
それから往復して、ベーコンと玉ねぎの入った付け合わせのトマトスープも持ってきてくれる。
「どうぞ。召し上がれ」
僕の隣に腰を下ろした藍が両手を開いて言った。
「いただきます」
彼女への感謝を込めて、と、食材等への感謝も込めて口にし、フォークを手に取る。
藍も手を合わせた。
適当に巻いて口に入れると、ニンニクの香りが鼻に広がる。唐辛子の辛味が舌を刺激した。麺を飲み込むと、お腹がとても空いていたこともあって、心地よい幸福感が胸に広がる。
「……美味い」
「よかった」
シンプルにそう感想を漏らすと、相好を崩した藍もパスタを口にした。
しばし無言で食事に励む。
僕も藍もあまり無駄なおしゃべりを好む方ではなく、話題がなくても無理に取り繕ったりしない。
そういうのは人によりけりだとは思うが、僕も藍も似た性質らしく、そういう点で一緒にいて息が詰まるようなことはほとんどない。
まあ、僕が劣等感に苛まれていなければの話だが。
もちろん今はそんなの欠片も感じちゃいない。
空腹のせいもあり、一息にパスタを食べ終えてしまうと、トマトスープを飲んだ。これも美味い。藍の料理の腕もだんだんと熟達してきている。彼女の努力の成果だろう。
満腹になって隣を見ると、藍はまだゆっくりとパスタを咀嚼している。
どうやら僕は大分、急いでかきこんでしまったらしい。
いつもとは違う彼女の髪型、横顔に新鮮味を覚える。やはりかわいい。
たまにポニーテールのしっぽがぴょこぴょこ動いているところなどは特に。
手を伸ばしてしっぽの付け根のところに優しく触れてみると、ぴょこっと藍が顔を上げた。
「なに?」
「あ、ごめん。ぴょんぴょん動いてるのが気になって、つい触っちゃった」
「ふぅん。そんなに気に入った? この髪型」
言って藍がテール部分の毛先の方に手をやる。
「うん。かわいいよ」
「……ありがと」
ちょっと照れたように顔を逸らして藍がパスタに向き直る。
横からだとエプロンの下の服装がよくわかって、肩の大きく空いたクリーム色のニットに藍色のプリーツスカート、といった装いになっているようだった
改めて露出度が高いと感じるわけだが、楓さんに唆されたと言っても、そんな服装を選んだ彼女の意図は果たして如何に。
じっと自分を見る視線に気づいたのか、藍がちょっと咎めるように言ってくる。
「食べてるとこ、あんまり見ないで。恥ずかしい……」
「あ、ごめん。つい見惚れてた」
「……っ。……や、やっぱり見ててもいい。けど、あんまり熱っぽい視線はだめ」
「どうして?」
「……食事どころじゃなくなっちゃうから」
「なるほど」
まあ、そこそこに眺めていよう。
見ているだけで癒されるし。
それから十分ほどして藍も食事を終えた。
「お皿洗ってくるね」
「あ、僕も手伝うよ」
僕の分の食器も抱えて台所に向かおうとする藍を慌てて追いかけた。
台所のシンクの前に二人並んで身を寄せ合うようにして立ち、食器を片付ける。
僕が洗う役で、藍が濡れた食器を拭く役。
泡の立ったスポンジで一通り食器の汚れを落とした後、水で洗い流す。
きれいになった食器から順番に藍が受け取り、手際よく水分を拭き取っていく。
ぴったりとくっついてお互いの体温を感じながらやっていると、とても息が合い、作業はてきぱきと進んでいく。
しかし、こう二人並んで仲睦まじくやっているとまるで。
「新婚さんみたい?」
手を動かしながら、僕の気持ちを先読みした藍が見上げてくる。
「よくわかったね。ほんとそんな感じ」
以前にも新婚さんごっこをしたことはあったが、藍の人妻っぽさもある装いのせいか、今の方がそういう感じは強い。
「涼はきっと、良い旦那さんになるね。わたしに任せるだけじゃなくて、こうして家事も手伝ってくれるから」
「そうだといいんだけど」
そうして、後片付けを終えた。