依田莉亜×10
十月十日。火曜日。
体育の日を含めた三連休を終え、今日からまた一週間が始まる。
普通なら五日のところ、今週は四日。楽でいい。
僕はいつものように六時半に目を覚まし、七時までに朝食と身支度を済ませ、家を出た。
約一時間の登校路を自転車で走破し、八時ごろに学校に着く。
駐輪場でいつも停めている場所に自転車を停めると、ポケットからスマートフォンを取り出した。
メッセージアプリを起動し、フレンドリストの検索欄に『リア』と打ち込む。
『ダリア』というアカウントはすぐに出てきた。
というか、検索するまでもなく、僕のフレンドリストは数えるほどの人数しかいないので、わざわざそうする必要性もなかったが、今はそうしたい気分だったのだ。
それから百日に一つ、メッセージを送った。
『遅くなったけど、ずいぶん心配かけたみたいだから報告しとく。藍とはちゃんと仲直りした。問題は何もない』
しばらくして彼女から返事が返ってきた。
『そう。それはよかったね。ボクは特別何かしたというわけじゃないけど、君たち二人がいつものごとく仲良しこよしのカップルに戻れたのなら、喜ばしい限りだよ』
話はそれで終わりだと言われているような気がする返答だったが、あえて僕はそれを引き延ばした。
『そう言えば、僕この前偶然出会った二年の先輩に少しばかり助言をもらってさ。藍と仲直りが無難にできたのはその人のおかげでもあったんだよな』
『へえ、そうなんだー』
まるで興味がなさそうに百日は答える。
僕はさらに続けた。
『今日の昼休みにでも、その人にお礼を言いに行こうと思っているんだけどさ。お前と同じくらいにはなかなか変わった人だったから、よかったらお前もくるか?』
三十秒ほどの間の後、彼女からの返事が来る。
『遠慮しておくよ。ボクは人見知りだから、初対面の人と上手く話せる気がしない』
『そうか。まあ、無理強いはしないさ』
そう答え、僕はスマホを待機状態にした。
教室に入ると、藍と栗原が何やら話し込んでいるのが目に入った。
二人とも僕の姿に気づくと、慌てたように机の上に出していたノートをしまう。
「おはよう」
「お、おはよっ、涼。元気そうだね」
「お、おはよう。相田君。今日も元気そうだね」
二人して似たような文言を口にしている。
「様子おかしいけど、僕に何か隠し事?」
「え? な、なにが? りょ、涼に隠すことなんて、あるわけないよー?」
「そうだよ。おかしなこと言わないでよ。相田君」
「……いや、まあ、別にいいんだけど」
二人の態度はあからさまに図星だと言っている気がしたが、深くは訊かないことにした。
女子同士の話に僕が分け入るのもおかしなことだし、それに僕が聞いていい話かどうかもわからないしな。
自分の席について、今日の一時限目の宿題を広げると、安心したように二人は息を吐いた。
……気にならないといえば嘘になるが、やはり問い詰めるのもおかしな話か。
僕は宿題に取り組んだ。
始業時間ぎりぎりになって、百日の奴はやってきた。
彼女が席に鞄を置くと同時に、始業五分前の予鈴が鳴る。
僕は前の席の百日に声をかけた。
「準備に手間取りでもしたのか?」
振り返った彼女は不機嫌そうに唇を尖らせる。
「別に。君に文句をつけられる謂れは何もないんだけど」
「文句なんて言ってないだろ? ただ純粋に疑問に思っただけだ」
「女の子には準備も秘密も付きものなんだから。相田は無粋の極みだよね」
「何の話だ?」
いまいち言っていることが理解できないというように、わざとらしく首を傾げた。
それを見て、百日の奴は手を伸ばして僕の鼻を摘まんでくる。
「ふぁにをする」
「べー」
もう一方の手で目元を引っ張ってあっかんべーをしてみせ、それから彼女は気分を害したことを示すようにわざとらしく鼻を鳴らして、前に向き直った。
昼休み。
僕はいつものように、お昼ご飯を取るべく食堂に向かう。
当然のように藍も一緒だ。
注文した料理の乗ったトレイを受け取り、藍と一緒に向かい合って腰を下ろす。
僕は日替わりのカレイの煮つけ定食、藍はざるそばを頼んでいた。
「涼のおかげで、ちゃんと全部、上手くいったよ。家族みんな、ちゃんと全部」
そばをすするのもそこそこに、開口一番、藍はそんなことを言ってくる。
事情自体はすでに金曜日の時点で電話で聞き及んでいた。だから、その報告自体に特段の意味はないかもしれない。けれど、彼女は直接会ってもう一度それを言葉にしておきたかったのだろう。
藍らしい誠実さの下のその言動を僕は嬉しく思う。
「それは何より。僕も楓さんに頼まれたかいがあったってものだよ。あの人はそれについては何か言ってた?」
僕が楓さんに藍とお母さんの関係改善を頼まれたことも藍にはすでに話してある。問題が解決した以上、隠す意味もなかったことだし。
「うん。『ありがとう』だって。お姉ちゃんには珍しく、照れるみたいに言ってたよ」
「へえ。それはこの目で見たかったところだね」
いつも堂々とした態度のあの人がどんな風に照れたりするのか、とても興味がある。藍の話では、家族円満を願って涙ながらに両親に訴えたそうだし。
なお、その話は僕にはしないようにと、楓さんからは口止めされていると藍は言っていた。けれど、内緒だよと言って教えてくれた。本人が知ったら、さぞ恥ずかしがることだろう。
「それでね。せっかく家族がまとまったんだからってことで、家族旅行をすることになったの」
「旅行……」
「うん。来週の土日に」
それはまた急な話だな。
「それってもちろん、藍も行くんだよね?」
最近、微妙に噛み合っていなかった関係を埋め合わせるべく、またどこかに一緒に出掛けられないかと考えていた僕にとって、その話はちょっとショックだ。昨日までの三連休を利用すればよかったという話ではあったのだが、家族がやっと一つになってすぐ藍を連れ出してしまうのは僕も気が引けたのだ。
しかし、藍は僕のその質問に首を振った。
「ううん。わたしは行かない。お母さんとお父さんとお姉ちゃんの三人で行くことになった」
「え? でも……」
「わたしも行くように強く言われたけど、断っちゃった。だって、涼ともっとずっと一緒にいたかったから」
それに、と藍は言う。
「お母さんとお父さんには、わたしじゃなくて、お姉ちゃんのことを一度ちゃんと見てほしいから」
「……」
藍らしい理由だと思う。自分の願望もしっかり持ちつつ、他者も気遣う。とても藍らしい。前者と後者、どっちの理由の比重が大きいかはあえて訊かないでおこう。僕個人としては、前者が大きい方が嬉しくはあるのだが。
「だからね」
と、藍はそこでわずかに頬を染めて、上目遣いに僕を窺うようにして言った。
「今度の土日は家族は誰もいないの。だから、わたしの家に泊まりに来ない?」
そのちょっとあざとい仕草にくらっと意識が飛ぶような錯覚さえ覚え、僕は一も二もなく頷いた。
大事な用がある。
そう言って、藍に先に教室に戻っているように伝えた。
首を傾げながらも藍は頷いて、てくてくと去っていく。
僕は生徒相談室に赴く。込み入った説明をしなくてはならないので、藍にそれを話すのはまたの機会だ。
僕が扉を開くと、そこにはいつものように一木先生と、そして、そのデスクの向こうの窓際に、彼女の姿が見えた。
「やあ。相田君。来ると思っていましたよ」
先生はそう言って僕を出迎え、彼女の正面に僕を誘導した。
もはや合計何杯目になるやらのコーヒーを振る舞われ、僕はそれに軽く口をつける。
「どうも。こんにちは。また会えましたね」
「……ええ。ほんとうに。こんな強引な形で会うことになるなんて、わたしは思っていなかったけれどね」
依田先輩は相変わらず長い前髪を振り払おうともせず、僕と鏡合わせのように同じ動きでコーヒーを飲む。
焙煎されたコーヒー豆の匂いが鼻腔をくすぐる。
一木先生がノートPCに何か打ち込んでいるらしい。
カタカタというキーボードの音が静かに耳に届いた。
「……」
「……」
僕と依田先輩は等しく黙り、お互いがお互いを窺い合うようにして相手の目を見つめていた。
もっとも、この場合、僕は相手の目がどこにあるのかいまいちはっきりとしないわけだけれど。
「差し当って、まあ、とりあえず、一番わかりやすいところから攻めたいと思うんですけど」
「ええ、何かしら?」
僕は依田先輩の見えない表情を窺って、それから言った。
「先輩、自分のフルネームを十回言っていただけますか?」
彼女はぴくりと肩を震わせて、僕の表情を探るようにじっとこちらを見た。正確には、僕はそう感じた。
「どうして、そんなことをしないといけないのかしら?」
例によって、以前聞いたようなくぐもったような声で彼女が逆に聞き返す。
僕は言った。
「その理由はあなたが一番よくわかっているんじゃないですか? 依田莉亜先輩?」
彼女はそれから、観念したように肩を落として、僕の言った通りにし始めた。
「依田莉亜依田莉亜依田莉亜……」
あまり口にしやすい言葉でもないだろうが、不平も漏らさず、彼女は繰り返しその名前を口にする。
ちらっとデスクの方にいる先生を窺うと、彼はこちらを意に返した様子もなく、黙々と自身の仕事に向かっていた。もしかしたら、先生は事前に彼女から事情を聞いていたのかもしれない。
でなければ、得体のしれない生徒である彼女に相談室の鍵を預けるなんて不用意な真似はしないだろう。
そのうち、繰り返された彼女の名前の最初の音が、だんだんと後ろの音とつながって聞こえてくる。
最終的に、彼女の名前は次のような言葉に変換されて、僕には聞こえた。
「――ダリアよ」
依田莉亜先輩はそう言って、ぷつりと黙る。
それからやがて堰を切ったように肩を揺らし始め、甲高い笑い声を上げた。
すなわち、
「あははっ」
と。
「……よくわかったって褒めてあげる」
依田先輩のような、あるいは百日のような口調で言った彼女は、無造作に自身の長い黒髪を掴んで、それを外した。
長髪のウィッグ。つまりはカツラ。
その下にウィッグを上につけるためのネットのようなものを被っていた。
「……このままだと不格好だから、ちょっとあっち向いててくれる?」
黒い瞳をして、頭にネットを被った百日にそう言われ、僕は素直に視線を逸らした。
窓の外に十月の空が見える。
きれいな空色だなー。
「もういいよ」
言葉と共に前を向くと、そこにはいつも通りの金髪蒼眼の百日ダリアの姿がある。
「……長髪でウィッグ被るの超めんどくさいんだから、その手間わかってよね」
「自分でやっておいてそれはないんじゃないか?」
「じゃあ、相田は依田先輩の助けがなくても、藍ちゃんと仲直りちゃんとできたって言えるわけ?」
「う……」
それを言われると、確かにその通りだ。
助けられた彼女に手間をわかれと言われたのならば、その通りに理解する意思をみせる必要があるだろう。
「まあ、大変だよな」
「うん。よろしい」
大仰にうなずいて百日は笑った。
「それで、お前がそんな変装をしようだなんて思ったきっかけはなんなんだ?」
話を仕切りなおすようにそう口にする。
百日が手元に持っている毛玉のようなウィッグを指し示しながら言った。
「単純にちょっとしてみたかったっていうのと、ボク相手だと相田は余計な意地を張って事情を説明しないんじゃないかと思ったから。年上の会ったことも話したこともない先輩なら、逆に話しやすいかもしれないとも思ったしね」
何より、と彼女は続ける。
「ボクが力になってあげられるのなら、何だってしてあげたかったからね」
口にした後、彼女は照れたように僕から目を逸らす。
「栗原もお前も本当にいい奴すぎて、僕は感謝の念が尽きないよ」
そんな彼女をからかうようなことはせず、僕は素直に口にした。
「ありがとな。百日」
「……そ、そんな素直に言われると恥ずかしい……。……やだ、こっちみないで」
内気な少女のようなことを言い、百日が顔を覆う。
僕はその反応に何と返していいやらわからず、微妙に目線を逸らした。
「で、まあ、話を戻すと、お前がよく喧嘩する彼氏だの、トムだの言ってたのは、斎藤のことなんだよな?」
「……う、うん。そう。あいつ以外にいないでしょ?」
「お前、本気であいつのことトムって呼んでるのか?」
冗談とかじゃなくまじめに気になってそう訊くと、百日は微妙に気まずそうに顔を横向けた。
「……まあ、なんというか、成り行きで」
「深くは訊かないが、そういうことなんだな」
「察して」
それ以上を彼女が語ることはなさそうだ。
おそらくはまた、彼女のツンデレなのか何なのかよくわからない性質が作用して、そんな流れになったんだろう。聞かなくてもそれくらいはわかる。
「なるほどな」
薄々、察していたことではあったが、依田先輩として彼女から聞いた話が驚くほど百日の状況と合致していたことに改めて思い至る。むしろ何で同一人物だとそのときに気づかなかったのかという話だ。
ずっと寒そうにしていたのも。容姿がコンプレックスだという話も。よく喧嘩する彼氏のトム(さいとうつ『とむ』)も。そして、言っている話の内容にしたって、その前に百日に聞いた話に非常に酷似していることがわかる。
逆に堂々としすぎていて、気づかなかったのかもしれない。
「相田はその……、ボクが変装してるってどうしてわかったの?」
「ん? ああ。まあ、大したことじゃないんだけど。お前と目が合ったこと一度だけあったよな?」
「うん。ほんとにちょっとだけどね」
「そのときさ。やけに瞳が黒いな、というか、変な色合いしてるなって思ったんだよな。何かアンドロイドみたいな。それで何でだろうってずっと考えたんだけど、カラコンなんだよな? あれ」
「うん。そだよ」
言って百日がテーブルの上に置いていた黒色のケースを手に取り、中から黒くて薄いレンズ状の物体を取り出して、右目に入れてみせる。
右目は黒、左目は蒼のオッドアイ金髪美少女の出来上がりだ。
「それでちょっと疑問に思って。容姿にコンプレックスがあるって話は聞いてたけど、カラコンまでしなくちゃいけない理由がわからなかったからな。日本人でそこまで瞳の色にこだわる人間がいるかなって。それでちょっとお前のことが頭に上って、そう言えば名前もおかしいよなって気づいて、あとはすぐだ」
「……ふぅん」
簡単に見破られたことが気に食わないのか、やけに意味深な相槌を打つ百日。
僕はその態度に疑問を呈する。
「お前だって、気づいてもらいたくて、あんなわかりやすい名前にしたんじゃないのか?」
そう。でなければ、いくら情報が重なっても、依田莉亜=百日ダリアとはなかなか確信が持てなかった。
「そうだけど、でも、実際にボクがばらす前にばれるとむかつく……!」
頬をわずかに膨らませてそう主張する百日に、僕は改めて礼を言っておくことにした。
彼女にしっかりと頭を下げる。
「……な、なによ」
「今回のことは助かった。ありがとう」
「ぐっ……。相田の癖に……! ボクの変装を見破った挙句に、そんなに潔く感謝されちゃったら、怒るに怒れないじゃない」
「……いや、まあ、それは悪かったよ」
自分からばらしたかったというのならば、何も知らないふりして彼女に気持ちよくネタ晴らしさせるのもありだったかもしれない。
せめてもの感謝の気持ちとして。
「……次こんなことがあったら、絶対、わかんないようにしてやるから」
「いや、次はないから」
そう決意する百日に、僕は小声で突っ込みを入れた。
今回の話はこれで一区切りです。依田莉亜先輩の正体、わかったでしょうか。登場したときのタイトルが『How do you do??』で、?が二つついていたのはタイプミスではなく、英語の定型文で『はじめまして』が『How do you do?』なので、それに?を一つ足して、本当にはじめましてかな、みたいな意味合いでつけました。
今回の話は相田君の劣等感と藍ちゃんの慢心の対比、それから家族の問題と、ダリアさんの変装、みたいなところをメインに考えて書きました。少しでも面白いと思っていただければ幸いです。
もうすぐ投稿を再開してから一年が経ちます。書き始めたのは2014年で、しばらく書いた後に放置して、何度か飛び飛びに更新した後に一年ぐらいまた放置して、その後2016年末に再開したって感じですね。文量だけ見れば58万文字くらいなので、ラノベ一冊10万文字と換算すれば、約六冊分くらいの量は書きました。話数としては110部分くらいまで。たぶん、がんばれば200くらいまでは普通にいけるとは思うんですけど、ここまでくるとどこで終わらせたらいいかわからなくなってきますね。とりあえず、書きたい情熱があるうちは書き続けようかなと思っています。
ここまで読んでいただいてありがとうございました。本当にありがたいな、と思っています。
次からは相田君と藍ちゃん二人がずっとイチャイチャする話を時間を引き伸ばして、描写細かく延々とやろうかと思っています。よろしければお付き合いください。