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あいだけに  作者: huyukyu
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『ありがとう』

「ということでまあ、僕は最近、藍への劣等感に思い悩んでいたわけなのだよ」

「ふ、ふぅん、そうなんだ」


 放課後の生徒相談室で、僕と藍は区切られた個室の中で向き合っている。

 僕が藍に込み入った話をするのに最適で、また、藍が僕に込み入った話をするのにも最適な場所。彼女の側の事情を考えれば、藍の家に行くよりかは学校の方がまだ話しやすかろうという配慮により、僕は放課後、藍と一緒に生徒相談室を訪れることを提案した。

 頷いた藍とともに部屋を訪れると、気を遣ってくれたのか、一木先生はしばらく席を外すと言って二人きりにしてくれた。以前、栗原と一緒に来たときにも利用したが、一応、個室も存在しているので、内緒の話をするのに先生がいて差し障りがあるわけでもない。

 けれど、それでもきっと、彼はこちらの気持ちを考慮してくれたのだろう。部屋を去る際の彼の微笑みがそう語っていた。

 先生と話す間も、藍がずっと寄り添うように体を寄せてきていて、まるで命綱か何かのように僕の制服の袖を掴んでいたことも、大いに影響しているかもしれない。というか間違いなく、それが原因なのだろうけど。


「で、まあ、僕の側のとっても言いたくないことを藍に一つも包み隠さず、口にさせてもらったわけなんだけど、それでもまだ、藍はお母さんとの事情を隠蔽しようというつもりなのかい?」

 心を開くにはまず自分から、とばかりに、僕は彼女にすべて説明した。


 彼女の口にした「ありがとう」に傷ついてしまったことも、それでイラついて藍に当たってしまったことも、藍に彼女の嫌いなところはどこかと訊かれて居たたまれない気持ちになったことも、それで劣等感を自覚し、一木先生に相談していたことも、それから、依田先輩に助言をもらって、栗原に相談したことも。

 すべて包み隠さず、彼女に話した。


 いついかなるときも、誰に対しても、すべての事情を包み隠さず説明することが正しい行いとは限らないけれど、でも、少なくとも僕は藍にそれを話しておきたかったから。

 だから、僕は素直に話した。


「ううん。わたしもちゃんと話すよ。涼が勇気を出して自分の気持ちを話してくれたんだってこと、わかったから。わたしだって、がんばらなきゃ」

「そっか」

「うん。そう」


 藍はしっかりと僕の目を見てそう言った。そんな彼女に応えなければ、と、僕も彼女の目をじっと見返す。

 すると、なぜだか藍がぽっと頬を染めて目を逸らした


「やだ……。そんなかっこいい目で見つめないで。恥ずかしい……」

「いや、僕普通に見てただけのつもりなんだけど……」


 例によって例のごとく、畳の敷かれたこの個室の中で、藍は僕の対面ではなく寄り添うように隣に身を寄せている。というか正確に言えばそれは身を寄せるとかいうレベルではなく、彼女の体の大半はゼロ距離で僕の体に密着しているし、何なら体温どころか息遣いが胸元に当たるレベルだ。

 そんな体勢下でそんなかわいいことを言われてしまうと、こっちまで恥ずかしくなってくるというものなのだが。


「と、とりあえず、まあ、話を聞こうか。うん」

「あ、うん。りょうかい、涼」


 距離が近すぎるため、そんな動揺もまた藍に伝わっているはずだが、僕がそう言うと、藍は照れたようにえへへと微笑んで、頷いた。

 

「……照れてる涼、かわいい」


 それからぽつりとそう漏らす。


 非常に遺憾な感想だったが、彼女がとても幸せそうだったので、何も反論はしなかった。




「大好きだって、言われたの」


 最初に彼女はそうつぶやいた。

 最近ひどく疎遠(精神的に)だった分の不足を取り戻すように、ひとしきり僕と密着し続け、ぺたぺたと僕の体に触りつづけ、むぎゅうと抱きつき続け、やがて満足したように体を離した彼女はそう言った。

 大好き。

 明るい響きの言葉であるはずなのに、それを口にする彼女の表情は暗く、冷たい。


「大好き?」

「うん。どうしてわたしにだけ優しくするのか、って……、お父さんにもお姉ちゃんにも冷たいのに、どうしてわたしにだけ優しくするのかって、小さい頃、お母さんに訊いたことがあるの。そしたらね、お母さんは言ったの」

 大好きだから、ともう一度藍は口にする。


「大好きだから、特別優しくするんだ、って」


 つらい記憶を思い出すかのようにそう言う彼女の姿に、僕は違和感を覚えざるを得ない。

 だってそうだろう。


 大好きだと言われたことが、どうしてそんなにつらいのか。


「……僕が見た限りでは、藍のお母さんは藍にずいぶん厳しく接しているみたいだったけど」

「うん。涼はそう思ってると思った。けどね、違うの」

「違う?」

「小さい頃はね。もっとずっと、わたしに優しかった。わたしのことをいつもかわいがって、そばに置きたがって、縛りつけるみたいにかまってくれていた。けど、わたしがお母さんのことを拒んで、嫌がって、かまってほしくないっていう態度を取りつづけたら、あんな風になっちゃったの」

「それは……なんていうか……」


 つまり、子離れができない、ということなのだろうか。

 藍のことが大好きで、かわいくて、そばに置いておきたいけれど、藍が嫌がるものだから、厳しく当たってしまっている、という。


「お母さんはね。わたしに都合のいい娘でいてほしいだけだよ。お父さんも、お姉ちゃんも、あの人の思い通りになんて動いてくれないから、だから、わたしにだけは都合のいい娘でいてほしい。そう思っているだけ。だから、わたしを縛ろうとする。でもね。そんなの、本当の意味で厳しいなんて言わないでしょう? 誰かに厳しく接するのはその人のことを考えているから。お母さんが考えているのは自分にとって都合のいい娘のことだけ。本当のわたしを見てなんていない」


 だから、わたしはお母さんが嫌い、と藍は言う。

 とても冷たい声だった。

 藍には似合わない、感情のこもらないような、とても冷たい声。


「言ったんだ、お母さん」

「え?」

「大嫌いだって……。お父さんのこともお姉ちゃんのことも大嫌いだけど、わたしだけは大好きなんだって。だから、わたしに優しくする。そう言ったんだ、自分で」

「……」


『ねえ、お母さん。お母さんはどうしてわたしにだけ優しくするの?』


『藍。私はね。お父さんのこともお姉ちゃんのことも大嫌いだけど、あなただけは大好きなのよ。だから、あなたには特別優しくするの』


 藍の言葉に、僕は軽々には何も言えなかった。

 恋人とはいえ、他の家の家族の問題に、僕が何と言っていいものか、やはりわからない。

 一度話したことのある人が、それも僕の大好きな女の子のお母さんが、自分の家族を大嫌いだと言っている。そのことに対して、僕が何を言えばいいものか。それについて、僕が藍に言えることなどあるのか、と。


 けれど、思うことはあった。

 感じることはあった。

 藍への劣等感に苦しみ、いろいろな人に助けられた僕だからこそ、思ったことがあった。


「けど、それでも、睡蓮さんは藍のお母さんなんだと思うよ」

「……え」


 僕の言葉に、藍が驚いたようにこちらを見上げる。


 その頭に、そっと手を置いた。

 さらさらとした髪の感触が手に心地いい。

 壊れ物に触るように頭を撫でると、藍はゆっくりと見開いた目を閉じた。


 まるで僕の声に耳を澄ますように。

 だから僕は、今自分の中に生じた感情を、一つ一つ紡ぎ出すように言葉に変えていく。


「どんなに気に入らないことがあったってさ。育ててくれたことは確かなんだよ。今、自分がここにいるのが母さん、父さん、いろいろな人のおかげなのは確かなんだ。当たり前のことに思えるかもしれないけど、その当たり前のことが実はとっても大切なんだ」

 僕は脳裏に、父親の馬鹿面と、母のとぼけた笑顔を思い描く。

 それはやがて、今まで触れてきた人たちの顔に変わっていく。


 栗原、斎藤、百日、睡蓮さん、硯さん、一木先生、依田先輩、それから、クラスメイトやその他出会ってきた人たち。または、僕が顔も知らない、けれど、僕が毎日生きるためのいろいろな糧を与えてくれた人たち。

 そして、藍。


 僕は彼らへの感謝の想いを心に抱きながら、その中でももっとも大切な女の子に、言葉を継いだ。


「ありがたいな、って思うんだ。自分にとって都合のいいことをしてくれる人たちばかりじゃない。むしろ、してほしくないと思うことばかりをしてくる人たちかもしれない。でも、ありがたいな、って思うんだ。それでも、今の僕があるのは、いろいろな人たちのおかげだから。


 百日にはひどいことばかりをされた。人格を否定されて、藍とのことを否定され、気持ちは不安定になった。けれど、そのおかげで僕は自分の心と向き合えて、藍のことを本気で好きだと言える自分になれた。

 栗原にはどれだけ感謝してもし尽くせないほどの恩がある。もうほんとに返せない。けどまあ、いいじゃないかと思うようにもなった。人間誰しも助け合って生きているから、返せない恩の一つや二つあるだろう。けど、感謝の気持ちを持ち続けることはできるし、何かの折に僕が彼女の力になれることだってあるのかもしれない。

 斎藤の奴も、今ではいい友達だ。たまに無性にあいつをからかいたくなることもある。百日との関係を訊くと、喧嘩はたくさんするけど、けっこううまくやっているって言うんだ。それがなんだか僕は無性にうれしくて、笑ってしまう。


 僕の父もね。まあ、それはそれはむかつくことばかりをする人なんだけど、それでもさ、嫌いになれないんだよね。全然何も知らないくせに知ったかぶりして偉そうな顔をしたりさ。馬鹿なこともいっぱいされるんだけど、でも、馬鹿なことばかりするのは僕も同じだし、無駄に行動力があるところも、まあ、尊敬できるかな、って感じ。

 母さんなんかはほんとにわけわかんなかった。全然会話が成立しなくて、何考えているのかがいつも謎。でもさ、僕がつらいときにはなぜか気づいてくれて、慰めてくれるんだ。からかうようにして元気をくれて、煙に巻くようにしていつの間にか心が軽くなってる。……正直、嫌いじゃない。


 ……藍がお母さんを嫌う気持ちもわかるよ。そんな風にされたら、僕だって同じようになるかもしれない。

 けどさ、けど、それでもさ、藍のお母さん、なんだよ。


 母親、なんだっ……。


 生んでくれて、育ててくれて、小さいときとかずっとつきっきりで世話してくれたりとか、怪我したら心配してくれて、病気になったら看病してくれて、ご飯とか作ってくれて……っ……――っ。


 ほんとに、いろいろ、もらいっぱなしなんだっ……!


 ……藍の気持ちはわかるよ……。わかるけどさ、……それでも。


 でも、でも――、それでも……っ」


 言っている内に、心の中でどんどんどんどん気持ちが溢れてきて。

 

 胸がとても熱くて、とても大きな想いで満たされて。


 気づけば僕は、泣いていた。


 藍の前で何をやっているんだろう、ほんと。


 僕って、肝心なときにいつもうまくいかない。


「……涼……っ」


 彼女の声が聞こえた。

 潤んだ視界で藍を見ても、涙でぼやけていて彼女の顔はわからない。

 けど、その声音は少しどころではなく震えているように感じられた。


 胸に温かい熱を感じる。

 内側からも。外側からも。


「涼は……すごい、ね……。ぐすっ……。そんなのわたし、考えたこともなかった……」

「……すごい?……なにが?」

 まともに言葉が継げない。

 泣き濡らして、声が震える。


「わたし、お母さんのこと、お父さんのこと、それから、他の人のことも、そんな風に考えたことなかった……っ。ありがたいなんて、そんなこと、全然……っ。感謝しているつもりでも、少しも足りてなかった……。ありがとう、なんて、気軽に口にして、涼のことも全然っ……。……わたし、ほんと、だめだめだね」

 そっと、ハンカチが目元に当てられる。

 溢れる涙が拭われると、赤い目をした彼女の微笑みがそこにあった。


「わたしね。最近、自分のこと、少しはましになってきたかな、なんて思ってたんだ。ずっと前の、頑なで、誰の言葉にも耳を貸さなくて、つんつんしてるだけの自分よりも、ずっとましな自分になれてるかな、なんて思ってたんだ。いっぱい友達もできて、るりがいて、ももちゃんがいて、涼もいてくれて、そんな自分が少しは好きになれたかな、なんて」

 じわりじわりと藍の瞳に大粒の涙が滲む。

 心を満たす強い感情に耐えかねるように、唇が小さく震えた。

「でもね。全然そんなことなかったんだって、今、気づいた。わたし、自分の力で全部できたような気になってたけど。……違ってたんだね。友達がいっぱいできたのだって、ももちゃんやるりのおかげだし、わたしがこんな風になれたのは全部、涼のおかげ、なのに……。わたし、それが少しもわかってなかったっ……!」

 噛みしめるように嗚咽をこらえ、小さな肩を震わせて、藍が言う。


「あのとき、ね。涼が傷ついたっていう、その『ありがとう』を言ったとき、ね。わたしがそれをどんな気持ちで言ったかわかる……――っ?」

 彼女が心の苦痛に顔を歪めた。

「感謝なんてしてなかったっ……!ありがとう、なんて口にして、ちっともまったく感謝なんてしてなくて。わたしが、わたしが思ってたのは――」


 心から絞り出すように、自分で自分を律するように、彼女は言った。


「――打算、だった」


 藍の目に苦しそうな光が宿る。

「こう言ったら涼はもっとわたしを好きになってくれるかもしれない。こう言ったら涼はもっとわたしを愛してくれるかもしれない。ここでありがとうって言ってあげれば、涼はどんなことを返してくれるだろう。涼はどんなことをしてくれるだろう。ただそんな気持ちだった……。全部、自分のことだけだった。ありがとうなんて、誰かのために口にする言葉だったのに、わたしはそれを自分のための口にした」

 藍が下唇を噛みしめる。唇に薄く血が滲んだ。

 それは悲しみをこらえるためか。

 それとも、自分自身への怒りを抑えるためだろうか。


「わたし、自己中だった、ね……。慢心、してたね……。ありがとうなんて口にして、ありがたいなんて思ってなくて、誰のことも思っていなくて、自分の心の中にあったのは、ただ自分のことだけ」


 ごめんね。


 彼女は言った。


「ごめんね。涼。わたし、涼にきちんと向き合ってなかった……。涼のこと見るふりをして、ずっと別の物を見てた。ごめん、なさい。ほんとうに、ごめん」

 藍が深く、頭を垂れようとする。


 だけど、僕はそんなことをしてほしくなくて。

 藍にそんなことで謝ってほしくなんてなくて。

 その体を僕は強く抱きしめた。


「きゃっ――!?りょ、りょう……?」

 温かな体温が触れ合い、彼女の脈動を近くに感じる。

 首元に吐息がかかって、くすぐったかった。


「いいよ。藍。そんなの、僕はまったく気にしてない。藍がそう気づいたのなら、そんな自分を変えていけばいいと思う。僕はそういう藍も好きだし、僕が藍に感謝してるのも本当だ。だからさ、いいよ……もう。もう、気にしなくてもいい。僕は藍を信じてる」


 そう口にすると、触れ合っていた彼女の体から、すっと力が抜けていくのがわかった。

 僕に全身を委ねてくるのと同時に、背中に回された手が力を強めた。


 ぎゅっと抱き合って、それから、どちらからともなく、体を離す。

 藍の優しくて、それでいて芯の強い視線が僕を射抜いた。


「わたし、がんばってみる、ね。もう少し、がんばってみる。お母さんとのこと、もっと良い方向に向けるように。自分のことも、もっとずっと成長できるように。……わたしが涼の彼女にふさわしいわたしでいるために」


 藍の頬を一筋の涙が伝った。

 顎先から垂れ、僕の手の甲にぽつりと落ちる。

 涙が心を伝えるように、じんわりと彼女の流した熱が僕の体全体に広がっていった。


 目線をあげると、涙できらきらと輝く彼女の瞳が目の前にある。


「……涼、ありがとう」


 唇に濡れた感触が伝わって、僕は目を閉じた。


 その言葉は、今までに受けた彼女のどんな言葉よりも、深く心に染みわたっていった。

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