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あいだけに  作者: huyukyu
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ずるい

 もうすっかり暗くなってしまった夜道を一人で歩く。

 こういうとき、学校と家が近いのはいいことなのか、悪いことなのか。


 すぐに家に帰って落ち着くことができると同時に、歩きながら一人で心を落ち着ける時間がほとんど持てないから。


「ただいま」


 きっと、家には誰もいないんだろうな、と予想して、それでも習慣として身についてしまっているので、玄関の扉を開けながら、家の中にそう声をかける。

 しかし、期待していなかった返事は、階段から下りてきた大きな影によって与えられた。


「帰ったのか」


 靴を脱ごうとしてうつむいていた顔を上げると、会社帰りらしく、スーツの上着を脱いでYシャツ姿の父がそこにいた。左手にはマグカップを持っている。


「……うん」


 一瞬、泣き顔を隠さなきゃ、と思って顔を逸らしかけたが、すぐに父はそんなこと気にもしないだろうと思い直す。今まで、わたしが父に優しい言葉をかけられたことはない。逆に、叱られたこともほとんどない。わたしに興味がないのだと思う。だからきっと、泣き顔なんて父は気づかない。

 今だって、飲み物を取りに階下に下りてきたところに、偶然わたしが帰って来ただけなのだろうし。


 だから、わたしは今すぐにでも自分の部屋に閉じこもって塞ぎ込んでいたかった。

 父に何も求めていないし、それを非難しようというつもりもまったくない。

 ただただいつものように、わたしのことを認識しているのかいないのかもわからないままに、超然とした態度で過ごしていてくれればそれでよかった。


「……あの、お父さん」


 なのに、父は階段の一段目にぼうっと突っ立っていて、そこからまったく退く気配がない。

 体格の大きい父にそこに居座られると、小柄なわたしでも横をすり抜けることができないのだ。


「通りたいんだけど」


 ちょっと責めるような目を向けて言う。

 けれど、父はそれを少しも意に介した様子がなく、無表情ながらも強い意思を感じる目で見返してきた。

 揺らがないその態度に、逆にわたしの方がたじろいでしまう結果となる。

 じっとこちらを見る黒い瞳の中にわたしの驚き顔が映った。


「負けるなよ」

「……え?」


 低い声でそう言われ、一瞬何を言われたのか、よくわからなかった。


 負けるな、って何が?


 説明を求めて見返すも、しかし、父はそれ以上言葉を口にすることもなく、そのまま階段を下り切ってリビングの方へ向かっていった。


「……?」


 疑問符が頭の中に浮かびすぎて、一瞬本気で首を傾げた。


 なんなんだろう、一体。お父さんは何がしたかったの?


 思うとともに、階段を上ろうと段差に足をかける。

 すると、今度は目の前に大きな手のひらが現れて、顔をぶつけそうになったわたしはちょっと後ずさった。


「な、なに?」


 またもや父。

 リビングに行ったのかと思ったら、いつの間にか戻ってきていて、片手を伸ばしてわたしの前に通せんぼをしている。

 思わず顔を見上げると、もう片方の手がまた伸びてきた。


 びっくりして首をすくめる。

 するとすぐに、頭にごつごつとした感触。


「……え」


 お父さんに頭を撫でられていた。


 その事実を認識するとともに、やっぱり疑問は湧き上がってくる。


 なんで急にこんなこと?


 目線だけを上げて父の表情を窺うも、相変わらずの無表情。何を考えているのかわからない。


「……」


 そして、特に何を言うわけでもなくて、ずっと無言。


「お、お父さん?」

「……」


 問いかけても答えはなく、ただ無言で頭を撫でられるだけ。


 しかも、撫で方もけっこう乱暴だし。髪が乱れそう。

 手がごつごつしているから、あんまり撫で心地がいいというわけでもないし。


「な、なんなの?」

「……がんばれよ」

「なにを?」

「……」


 もう一度訊くと、今度は返答があった。

 しかし、まったく要領を得ないし、詳しく聞こうとしても、それ以上何も言ってくれないし。


 ……ほんとうに、わたしのお父さんはなんなんだろう。


「……わけ、わかんない」

「……」


 ぽつりとつぶやいた。

 一瞬、ぴくりと父の手が止まった気がしたが、すぐに元通りの粗雑な感触に戻る。


「……」

「……」


 結局、それから十分間ぐらい、無言で父に頭を撫でられ続けた。

 いっそ手を振りほどいて、何度部屋に行こうと思ったかわからない。


 けれど、なぜか邪険にはできなくて、だから、わたしも無言で頭を撫でられ続けた。


 ごつごつとしたお父さんの手はそれでも、すごく大きかった。




 翌朝。

 携帯のアラームで目を覚ましたわたしはのろのろとベッドから抜け出す。

 七時。昨夜は早くにお風呂に入って、早くに眠ったので、頭はすっきりとしている。

 反面、心は重たくて、体はそれに引きずられるようにして緩慢な動きを保っていた。

 まるで月の巡りが早くもやってきたようだ。まだ大分先のはずだけど。


 パジャマを脱ぎ、制服に着替えて、階下へ。


 リビングでは、父と母、それから、お姉ちゃんが同じように食卓についていた。

 珍しく、朝に家族全員が揃っている。驚いた。


 おはよう、と一応、言っておく。

 お母さんとお姉ちゃんは普通に返してくる。


 お父さんは、とちょっと顔を窺うと、やはりいつものように薄く顎を引くだけだった。


 昨日のは何かの気まぐれだったのだろうか。わからない。


 ……もしかしたら、わたしのことを励まそうとしてくれていた、のかもしれないけれど。というか、負けるなとか、がんばれとか、間違いなくそうなんだろうけど。

 今までの突き抜けた無関心っぷりだけに、いまいち父の気持ちがわからない。


 今日の朝はパンではなく、和食だった。

 お味噌汁と卵焼き。と、当然ながら白いご飯。

 わたしは和食の方が好きなので、これまで毎日ほとんどパンだった反面、とてもうれしい。


 黙々とご飯を食べていると、お母さんが言った。


「ずいぶんおいしそうに食べてるわね」

「え? うん……まあ、朝は和食の方が好きだし」

「あら、そうだったの?  知らなかったわ」

「……」


 純粋な驚き顔で言う母に、ちょっと心の中がもやっとした。


 それからご飯を食べ終えて、いつも通り徒歩で学校に向かう。


 意図せずして、お父さんと家を出るのが一緒になってしまった。


 無言で車の方へ行く父に、わたしは声をかけた。


「お父さん、昨日はありがと」

「……」


 無言で足を止めた父は、しかし、それっきり振り返ることもなく、車の運転席へ乗り込む。


 でも、いつものようにきっと薄く顎先だけは引いていたのだろうと思う。

 後ろにいるわたしに伝わるかどうかもわからないのに、きっとそうしている。


 お父さんは昔からそういう人だったのだろう。


 わたしの目が曇っていて、今まで気づかなかっただけで。




 学校に着くと、下駄箱のところで涼の背中を見つけた。

 一瞬、息を呑んで、それから、ゆっくりと吐き出す。


「おはようっ!」


 ことさら明るく、声をかけた。

 振り返った涼はとてもびっくりした顔をしていた。それはそうだろう。わたしはいつも落ち着いた声音で話すことを旨としていて、こんなに大きな声を出したことは今までなかったから。


 目を真ん丸にして驚くその顔がかわいくて、わたしは微笑んだ。


 やがて涼もゆっくりとはにかむように笑う。

 その表情に、憂いは一つもなかった。


「おはよう! 藍」


 わたしの態度に中てられたのだろうか、芝居がかった仕草と元気な声で涼がそう返し、そして、すぐに肩を落とす。

 はあ、とため息をついた。


「朝からテンション上げるの疲れるね」


 気の抜けたようにそう言う涼に、一瞬きょとんとしてしまって、すぐにそんな彼がおかしくなってくる。


「ふふっ」


 声を漏らして笑うと、涼もなんだかうれしそうに、にやっと笑った。


 わたしの心の中にあったもやもやはその笑顔に解かれるように雲散霧消していく。


 昨日、勝手に一人で思い込んで、勝手に一人で塞ぎ込んでいた自分が馬鹿みたいだった。


 勇気を出して涼に声をかけてみたら、こんなにも幸せな朝が待っているのだから。


 そして、きっとわたし一人だったなら、今こんな風には笑えなかったかもしれない。


 そんな勇気を出せたのは、きっと、わたしのお父さんの不器用すぎるまでの気遣いがあったからだ。


「藍さ」

「ん?」


 父に感謝の想いを抱いていると、涼がふと思い出したというように声をかける。

 その言い方は、まるで昨日の朝言いかけたことの続きのようだった。


「……僕は藍が好きだよ。何があっても、その想いは変わらない」


「――っ!」


 反則、だった。

 昨日の今日で、そんなこと言わないでほしい。


 そんなの、昨日あれだけ塞ぎ込んでしまった分、嬉しくて、嬉しくて、頬が緩んじゃって、どうしようもなくなってしまうから。


「……ずるい」

「え?」

「涼はずるいよ……っ。そんなの、だめ。卑怯。ほんと、ずるい」


 想うままに口が動いて、全部、言葉にしてしまう。

 気持ちが抑えきれなくて、昇降口なのに、気づいたら涼の胸に抱きついていた。


 伝わる彼の鼓動と息遣いから、困惑と羞恥が伝わってくる。


「あー、藍さん藍さん? ここがどこで、今がいつかを弁えてそういう行動を取ってもらえると……」

「知らないっ。全部、涼のせい」

「……うん、まあ、それでいいよもう」


 今がまだ少し早い時間で人通りが少ないのがせめてもの救いだった。

 登校する生徒がピークの時間帯にこんなことをしてしまっていたら、たぶん、今日一日ずっと、まともに顔を上げていられなかったと思うから。


 わたしが落ち着くまで、涼はずっと優しく頭を撫でてくれていた。


 その手は昨日の父のものとは全然違っていて、手触りもさらさらで気持ちよく、撫でるのもずっとずっと涼の方が上手いのだけれど、でも、どこか彼と父は似ているような、そんな気がした。

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