見た
何となく、変な感じがした。
朝、涼に学校まで送ってもらった。
お昼に、一緒にご飯を食べようと誘ったら、一人で食べたいと言われた。
放課後はるりと話をしていた涼は、わたしに用事があると言って先に帰るよう言った。
いつも一緒に下校したりするわけじゃない。
わたしは普通に一人で家に帰るし、涼も普通に一人で帰る。
珍しいことじゃない。
だからちょっと、変な感じがしただけだった。
魔が差して、涼にはそのまま帰宅するように見せ、わたしは昇降口の近くに隠れた。
彼が用事があると言ったのが校内でのことなのか校外でのことなのか、どっちなのかはわからないけれど、ここで待っていれば必ず涼の姿は見られると思ったから。
廊下の陰に隠れて待つ。
すぐには涼はやってこなかった。
用事というのはどうやら校内でのことらしい。
昇降口付近の人の多い廊下の角に隠れていると、通る生徒にちょっと妙な目で見られるけれど、気にせずそのままでいた。
やがて涼がやってきたのはニ十分ほど後。
さっきわたしと話したときには、どこか後ろめたさを感じるような暗い表情をしていた彼は、今は逆に晴れやかな表情をしていた。
足取りもどこか軽やかに、彼はわたしたちのクラスの下駄箱に近づいていく。
るりと、一緒に。
「……っ」
それだけならまあ、普通に友達だからっていうことで何とも思わなかったのかもしれないけれど、彼と彼女は楽しそうに談笑しながら現れた。
涼も、るりも、楽しそうに笑って。
今朝から――いいや、最近ずっと、わたしといるときにはどこか苛立ったように、あるいは苦しそうにしていた涼が、心の底から、嘘なく、笑っていて。
楽しそうに。
気持ちが軽くなったように。
憂い一つなく。
悲しみなんて一つも感じさせない表情で。
わたしはそれを見て。
わたしはそれを見て。
わたしはそれを見て。
「――」
言葉にできない薄暗い感情が胸中を渦巻いた。
――これはたぶん、わたしの身勝手な思い込みだ。
それは間違いない。
今更、彼の気持ちを疑うなんてことはありえないし、るりと涼が、なんていうこともきっと違う。
ももちゃんの家に泊まったとき、一緒にお風呂に入って、あのときに交わしたるりとの言葉は全部、本当だったと思う。
るりといるときに涼があんな風に笑っていたからと言って、そんなはずはない。
彼があんな風に楽しそうにしているからと言って、わたしをないがしろにしているなんてことはありえない。
わたしは……わたしはそんなことを信じない。
涼はわたしの恋人で、るりはわたしの大切な友達だ。
わたしは彼らを信じている。
涼のことも、るりのことも、わたしはすごく大好きなのだから。
……。
……――。
だから、違う!
――違うの!
涼は誠実な人で、優しくて、かっこよくて、わたしに優しくて、わたしにいっぱいかまってくれて、受け入れてくれて……、だから……だからっ、そんな裏切りなんてない!そんなこと、あるわけない!
るりはとっても優しくて、かわいらしくて、わたしのこと、ちゃんと認めてくれて、女の子らしくて、気遣いができて、優しくて……優しく……って、それから、それから……。
「――っ」
……違うって、わかっているのに――っ!
どうしてっ!
どうして、わたしはっ……。
「あれ……?」
視界が霞む。
気づけば、わたしの頬は濡れていた。
手のひらで触れると、少し渇いてべたつく。
でも、渇いた上から涙は流れて、それは留まるところを知らない。
感情が、想いが、上手く制御できなくて。
震えた心は、頭で思うよりもずっとずっと強く、悲鳴を発する。
普通に考えれば間違っているとわかるはずのことが、今は真実だと思えて仕方がない。
ありえないと思うことこそがありえるとばかりに考えられて、嘘だと信じたいことが強く心の淵でしがみついてくる。
涙が。
想いが抑えきれずに止まらない。
心の器を超えた激情が、蓋をすることもできずに、零れてくる。
熱い熱い熱量を持った雫として、外に、外気に、溢れて流れる。
つらくてつらくて、たまらなかった。
昇降口近い廊下の角で涙を流す。
そんなものは人目につくに決まっている。
通りがかる生徒に向けられる視線が、苦しかった。近くで友達と話していた女子生徒が驚いたようにこちらを見る表情が恐ろしかった。
何を思われているかわからない。
名前も知らない人に見られて、泣き顔を見られて、何かを思われる。
この場に、居られない。
「……嫌っ」
短く悲鳴のように叫んで、わたしはその場を走り去った。
無我夢中で階段を上る。
るりと涼のいる昇降口には近づけなかった。
だから、階段を上って、上って、二人のいるところから離れるように遠ざかって。
そして、それ以上上ることのできないところまで来た。
屋上に続く扉がある。もちろん鍵は閉まっていて、出ることはできないけど、それでも、人気がないのはたしかだった。
「……」
踊り場の壁に背中を預けて、膝を抱える。
ほとんど光の届かない行き詰った空間で、たった一人で小さく縮こまった。
薄暗く、じめじめとした中、かびくさい匂いがして、けれど、そんなものはまったく気にも留まらない。
涙は止まらなかった。
どうして。どうして。どうして。
疑問ばかりが頭を巡って、感情ばかりが高ぶって、けれど、答えは何一つ、出てこない。
「……あああ」
疑う気持ちが止めようもなく溢れて、自分が嫌になって頭を抱えた。
虚ろに床の一点を見つめて、心を無にしようと努めるけれど、わたしの理性とはおかまいなしに、感情は溢れて。
ぽたぽたと埃っぽい床に、雫が落ちる。
涼に何か、悩みがあったのはわかっていた。
ここのところ、暗い表情をしていることが多く、彼自身について、弱い言葉を口にすることも多かった。
そして、わたしを糾弾したり。
問い詰めたり。
……なんで、るりなんだろう。
どうして、わたしに相談してはくれないのだろう。
ずっとずっと、近いところにいるはずなのに。
どうして、るりに。
――っ。
「いやだいやだいやだ――! ……わたしは、そんなこと考えない。わたしはっ……、違う! わたしはっ……信じてる!涼のこと、信じて……っ」
支離滅裂な言葉が渦巻いて、自分でも何を言っているのかがわからない。
自分でも何が言いたいのかわからなかった。
きつく、血が滲みそうになるくらい、拳を握った。
手のひらに爪が食い込んで、とても痛かった。
でも、それ以上に。
「いや」
つらいつらいつらいつらいつらいつらいつらい。
やだやだやだやだやだやだやだやだ。
もういや――――――っ。
「…………………………………………………………………………」
悲しい。
つらい。
苦しくて、息が苦しくて、胸が詰まって、頭がぼーっとする。
かと思えば、次の瞬間には、信じられないくらいたくさんの言葉が頭を渦巻いた。
「わたしなんて、いない方がいいのかな」
そして、そんな言葉がぽつりと漏れて。
でも、だからと言って何なんだ、と思った。
※
※
※
泣き続けると、急激に沸騰した感情が少しずつ温度を下げていくように、本当に少しずつだけれど、気持ちは落ち着いてきた。
誰もいない階段の踊り場で泣き続けるのは、とても寂しい気持ちになって、とても虚しい気持ちになった。
「帰らなきゃ」
時間を確認すると、もういつの間にか六時になっていた。
いつまでも、こんな場所にはいられない。
わたしは放り出すように置いていた鞄を肩にかけて、立ち上がった。
埃っぽい床に腰を下ろしていたから、汚れているだろうスカートの裾を払う。
ぱんぱんと叩くと、埃が舞った。
「けほっ」
ちょっと吸い込んでしまって、咳が出た。
咳をしても一人。
そんな俳句が頭に浮かぶ。
……少なくとも、そんな皮肉が言えるくらいには落ち着いたみたい。
それ以上、深く考えることをやめて、わたしは階段を下り、昇降口に至って、家に帰った。