るりっとるりるり
夏休み明けにした席替えから一か月ほどは経っていたが、まだ席替えはしていない。
なので、未だ僕の右隣の席は藍で、左隣の席は栗原で、前の席は百日という位置関係が保たれている。
栗原とは朝、学校に来たときには嫌でも顔を合わせていたし、挨拶も交わしていた。
授業中のペア学習などで話すこともあり、疎遠になっていたというわけではない。
しかし、交わしていたのは上っ面だけの、本質に至らない表面的な会話のみだ。最近、風邪を引いて体調が悪いだの、この間百日の家にまた泊まりに行っただの、そういう話。
だから、いざ彼女に「僕のいいところってどんなところ?」なんてことを訊き出そうと思うと、どう切り出していいのかがわからない。
そんなことを突然言われても、栗原も困ってしまうだけなのではないかと思う。
何より、僕を好きだと言ってくれた優しい栗原に、振ってもなお甘え続けるのは大概にしろという話でもある。
直接、彼女に話を訊くのははばかれることでもあった。
なので、僕は放課後、授業終わり、栗原にメッセージを送った。
『僕のいいところってどんなところ?』
「……相田君」
そして、送って五秒もしないうちに、左横から嘆息するような声音が聞こえてくる。
見ると、栗原が心底、呆れた目で僕を見ていた。
「何で目の前にいる人にメッセージを送ってくるわけ?」
「いや、その、なんだ、僕と直接話すのは嫌かと思って」
「……これまでも普通に話してたと思うんだけど。何なら、振った直後にむちゃくちゃしてたよね? 何で今更そんな気を遣おうとするの?」
「……ごめん」
呆れ返っているという有様の栗原がそう言い、最近妙に内省的になっている僕はその言葉に謝罪を返す。
そんな僕の態度に、栗原はちょっと眉をひそめた。
そして、僕を通り越し、その向こう側で教科書等を片付けて帰宅の準備をしている藍に目をやる。
それから一つ、彼女は頷いた。
次の瞬間に僕を見た栗原の目はひどく穏やかだった。
「……謝ることじゃないよ。わたし、何にも怒ってないんだから」
告げられた声音は優しく、包み込むような柔らかさがある。
「……ごめん」
もう一度謝ると、栗原は仕方ないなあ、とでも言うかのように苦笑した。
「悩みが尽きない人だよね。相田君も」
そうつぶやくと、栗原はぽんとスマホを触る。
すると、今度は僕の方のスマホが震えた。
見ると、メッセージが一件。栗原から。
『十分後に、図書室ね』
顔を上げると、微笑みの下の彼女と目が合う。
僕は今度はこう言った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
彼女は答えた。
先に教室を出て行った栗原を見送った後、藍には今日は用事があるから、先に帰っていていいよと告げた。
ちょっと小首を傾げた彼女は、「そうなんだ」と小さく答え、そのまま教室を出て行った。
自分の席で少しの間、ぼーっとしていた僕は、それから図書室に向かった。
閲覧スペースを横切り、区切られたブースがいくつか存在する個人スペースに入る。
そのうちの一つのブースのドアに背中を預け、腕を組んで、栗原はこちらを見据えていた。
「なんでそんなイケメンがするようなポーズを取ってるんだ?」
「気分」
僕が訊くと、端的にそれだけ言って、彼女はブースの中に入っていく。その後に、僕も続いた。
大きな楕円形のテーブルの周りにキャスター付きの椅子がいくつか置いてある。
そのうちの一つに彼女は腰を下ろし、僕はテーブルを挟んで、対面の椅子に位置取った。
「それで、またどんな事情で藍ちゃんといざこざっているわけ?」
「いや、そんなのお前聞きたくな……」
「言いなさい」
「……はい」
元から僕は栗原には頭が上がらない。
そう強く主張されてしまえば、逆らう選択肢などありはしないのだ。
依田先輩にもしたような説明を栗原にもすると、彼女はまたも呆れたようなため息をついた。
「この期に及んで、まだ相田君はそんなこと言っているわけ?」
「この期に及んでってなんだよ」
そんな、僕が自分に自信を持つような事件なんてなかったと思うのだが。
むしろ、僕が自分に自信を失うような事件なら、たくさんあった気がするけど。
「わたしは、そんなくだらないことに悩む人に告白したつもりはないんだけど」
「ご、ごめんなさい」
やはり彼女にはどうしようもない弱みを握られているような気がする。
そういうことを言われると、肩を縮める以外に取る態度が見つからない。
「要するに、話をまとめるとこういうことでしょ? 君を好きだったわたしに、どういうところが好きだったかを教えてほしいと。しかも、藍ちゃんには訊けないから、その代わりに」
「……い、いや、そういうんじゃな……」
「違うの?」
「いえ、そうです。すいません」
さきほどの慈愛の態度はどこへやら、鋭い眼光でにらみつける栗原。
僕は終始、恐縮しっぱなしだった。
「そういえば、さ。いろいろあってなあなあで忘れていたんだけど、相田君はわたしの下僕をもう一度やるっていう約束をしていなかったっけ?」
「あ……」
淡々とした様子でそう言う栗原の言葉に、僕は思い出した。
百日の件に彼女を付き合わせる代わりに、僕は彼女の下僕に、つまりは言いなりになるということを彼女に約束したということを。
「また、わたしへの貸しが増えちゃったね♡」
ものすごくいい笑顔で、あざとく小首を傾げてそう言う彼女に、僕の額からは嫌な汗がだらだらと流れていった。
一呼吸置いて本題に入る。
栗原は前置きなしに、僕の目をしっかりと見て、はっきりと言った。
「相田君のいいところはきっと、優しいところだと思うよ」
優しい。
誰にも優しいはずの栗原が僕をそう言う。
「それはお前のいいところじゃないのか?」
「違うよ」
訊くと、即答が返ってくる。
言った彼女の表情は常にない冷たさを伴っていた。
しかし、次の瞬間にはその冷たさに熱がこもる。
栗原はにっこりと、優しく、笑った。
「わたしは優しくなんてない。わたしは優しくなろうとしているだけ。わたしは優しくなろうとがんばる普通の人なだけ。本当に心から優しいわけじゃないんだよ」
静かな図書室の中の、ある程度防音の効いた雑音の聞こえないブースの中に、彼女の穏やかな声音が残響する。
僕は言った。
「それなら、僕だってそうだろ。人に優しくなんてないし、優しくなろうともしていない。僕のいいところが優しいところだなんて思わない」
僕は栗原のことをとても信頼している。
彼女の言った言葉なら、それが冗談でもなければ完全に真に受けるだろうし、彼女の意見を考慮に入れないなんてことはありえない。
けれど、同時に僕は僕を知っている。
僕が知っている僕と、栗原が見ている僕。
どちらを信じるべきかは未だ天秤の上にある。
「誰にでも優しい人は、それは本当に優しい人? 誰にでもいい顔をする人は、それは本当にいい人?誰にでも甘い言葉をかける人は、それは本当に正しい人? 相田君の言っている優しいっていうのはそういうことでしょ?」
そして、だからこそ、きっと栗原の言葉は深く、僕の心に沈み込む。
彼女は胸に両手を当てて、まるで心の内から気持ちをそのまま言葉にするように、口を開く。
「わたしの見るあなたは、たしかに無愛想で、口下手で、行動力はあっても、気遣いは苦手だったり、時々人を傷つけるようなことを言ったり、世間一般で言う、優しい、というイメージからはかけ離れているかもしれない。けど、それでも、あなたに助けられたわたしにとっては、あなたはとても優しい人だよ。相田君。
わたしはあなたみたいになりたくて――本当に誰かが困っているときに優しくなれる人になりたくて、今までやってきた。あなたみたいに優しくなりたくて、がんばってきたんだよ?
だから、そんな自分に自信がないなんて、言わないで」
栗原は立ち上がり、僕のそばに近寄って、僕の両肩を掴んで、真正面から僕の目を見据えた。
「相田君は優しい人だよ。とっても、とっても、優しい人。あなたは誰も見限らないから。わたしも、藍も、斎藤君も、ダリアも、あなたは誰も見限らない。ひどいことをされても、ひどい言葉を投げかけられても、あなたは誰も諦めなかった。
いじめられていたわたしの机の中に、手紙を書いて入れてくれたのはなぜ?
クラスに一人で浮いていた藍に、声をかけ続けたのはなぜ?
斎藤君に藍を傷つけられたのに、彼と友達になったのはなぜ?
ダリアにあなたは心を傷つけられたのに、それでも彼女を受け入れたのはなぜ?
特別だなんて言わないよ。普通とも言わない。
あなただけが特別な人間で、誰よりも優れているからすごいだなんて、誰とも違っているからすごいだなんて、そんなことをわたしは言わない。
けど、あなたがやってきたことはあなただから、できたことでしょう?
誰にでもできたわけじゃないし、同じようにできる人はいても、あなたと同じようにできる人はいないでしょう?」
だからね、と、栗原は切なげな笑みを浮かべた。
「藍があなたを好きになったのはあなたが相田君として、あなたにできることを全部したからだよ。相田君の場所に別の人がいたのなら、その人はあなたよりうまくやったのかもしれないし、もっとずっときれいに物事を収めることもできたのかもしれない。けど、きっとね。きっと――藍は、あの子は、あなただからこそ、好きになったんだと思うよ」
栗原はそれから、僕の肩を掴んでいた手を離し、僕から顔を逸らす。
「優しいっていうのはそういうこと。あなたは他の人には冷たい態度を取ったり、ひどい言葉を投げかけたりするかもしれないけれど、藍には優しいでしょう?彼女には優しくて、彼女のためには本気になれる。とてもひとりよがりで、とても自分本位な理屈かもしれないけど、それでいいってわたしは思うよ。相田君はそれでいいって」
僕は彼女の言葉に耳を傾けている。
彼女の心から紡がれる言葉に耳を傾け、心を傾け、改めて、彼女の存在をありがたく思った。
「これは、本当にわたし一人の意見で、他の人や、他の女の子が同じように思うかっていうのは全然、わからないんだけど」
それから、栗原るりは僕を振り返って、優しく、微笑んだ。
「……好きな女の子のために、一生懸命がんばる男の子って、とってもかっこいいと思うよ」
僕は彼女のその微笑みに、情けなかった今までのすべての自分を放り出し、そして、心からの笑顔を向けた。