How do you do??
昼ご飯を一人で食べた後、僕は生徒相談室を訪れた。
昨日の夜、家に帰っていろいろと考えたこともあって、もう一度一木先生に相談に乗ってもらおうかと思ったのだ。
藍の誘いを断ってまで一人になることを選んだ手前、自分の中にある感情に早く区切りをつけておきたい。
でなければ、楓さんから頼まれたところである藍と睡蓮さんとの関係改善にも憂いなく向かうことができない。
そうした焦りにも似た切迫感に胸を押し潰されそうになりながら、僕は相談室の扉を開ける。
「……ん?」
そして聞こえてきた声はいつもの一木先生の落ち着いた声音ではなく、どこかくぐもった感じのする女子の声だった。
見ると、昨日僕が座っていた窓際のソファーに一人の女子生徒が腰を下ろしている。
彼女の前のテーブルには昨日の僕と同様、コーヒーが置かれており、同じように相談室を訪れた生徒なのだろうと思われた。
まあ、この部屋は別に僕や藍だけが占有しているわけではないのだし、他の生徒がいたとしてもおかしなことではない。むしろそれは普通のことだ。
けれど、込み入った話というか、割と自分の内面に関わる話をしようとしていたこともあって、このまま不在の一木先生を待とうかどうしようかと迷う。
しかし、大して迷う暇もなく、部屋の出入り口付近で突っ立つ僕に、その女子生徒が声をかけてくる。
「君、扉開けたままそこに突っ立ってられると隙間風が寒いんだけど」
「あ、すみません」
言われて、そんなに寒いか?と疑問に思ったものの、こないだの百日の例もある。体感温度は人それぞれだろうと思いなおして、素直に扉を閉めた。
そのまま何となく、元々相談しようと思っていたのもあって、一木先生のデスクの前に立つ。
「先生に用事?」
「あ、そう……ですけど」
そんな僕を見て、女子生徒が訊き、僕が答える。
そこで初めて、彼女の姿をまともに視界に入れた僕はちょっと驚いた。
彼女の容姿というか、風貌がちょっと変わっている。
何が変わっているかと言って、前髪が異常に長い。腰に届きそうなほどの長さの黒髪なのはまあ、いいとして、後ろ髪だけなく、前髪の長さも尋常ではない。目元はおろか、鼻先すら完全に覆うほどで、おかげで顔の上半分はほとんど見えない。目を見ても、目が合ったのかどうかわからないし、そもそもどこが目なのかもわからない。
さらには、暖房のかかった室内にも関わらず、寒さ対策か、首の周りに薄ピンクのマフラーを巻いており、口元までもが見えない。
結論を言えば、長い前髪と首元のマフラーで、その女子生徒の顔形が全然、わからないのだった。
「あの」
「……何?」
あまり細かいことは気にしない僕ではあったが、さすがにその女子生徒の様子にはちょっとどころではなく気になるところがあり、口を開く。
「どうして、そんなに前髪が長いんですか?」
僕がそう訊くと、彼女は訊くと思ったと言わんばかりに頷いて、それから言った。
「とりあえず、座ったら? 先生に用事なんでしょ?その間、わたしの話し相手になってくれない?」
台詞と共に彼女の対面のソファーを指し示される。
話の流れがいまいち腑に落ちなかったものの、はあ、と気の抜けた声を漏らし、言われるままにソファーに腰を下ろす。
「それで、何だったかしら?」
「いえ、だからその、前髪……」
「ああ、そうだ。自己紹介がまだだったわね。先に名乗らせてもらうわ」
「……はい」
僕の話を聞いているのかいないのかわからない相手の様子に若干辟易しつつも、耳を傾ける。
「わたしの名前は莉亜よ。ちなみに学年は二年。よろしくね」
「はあ、先輩だったんですね。それで、その莉亜というのは名字ですか? 名前ですか?」
「名前に決まっているじゃない。ちゃんとわたしの名前、って言ったでしょう?莉亜なんて名字の人いる?」
「いませんね。はい」
「名字は依田よ」
「……何でわざわざ二つに分割して言ったのかわかりませんけど、依田先輩ですね。わかりました。僕は相田涼です」
「相田涼……」
僕の名前に聞き覚えでもあったのか、依田先輩はその長い前髪の上から額に手を当てて、しばらくして言った。
「つまらない名前ね」
「……名前につまらないも何もないと思いますけど」
なんだろう。この先輩、そこはかとなく失礼だな。
思うとともに、そういう人だからこういう場所に来ているのかもしれないとも思った。
「ちなみに、先生なら会議に呼ばれて昼休み中は戻らないそうよ。ここを出るときは施錠して、鍵を保健室の先生に預けるよう言いつかっているわ」
「……それ、最初に言えませんでした?」
じゃあ、僕がここに来たのは完全に徒労ということではないだろうか。
先生に相談しに来たのに、先生はいなくて、代わりによくわからない言動の先輩がいるとか。
「……出直します。どうぞごゆっくり」
事務的にそう告げて、立ち上がろうとする。
しかし、伸びてきた白い手が僕の手首をつかんだ。
「待ちなさい。少年」
「年は一つしか違わないんだから、その言い方はおかしいと思うんですけど」
「わたしの暇つぶしに付き合いなさい」
「……嫌です」
すげなく断り、手を振りほどこうとする。
けれど、思いのほか力の強い依田先輩はなかなかそれを離してはくれない。
「……何でそんな頑ななんですか?」
「わたしは寂しがり屋なのよ。友人にもよくそう言われるの。だから、波長の合いそうな人とは長くお話ししていたいのよ」
「いや、だからって、人の事情を気にしないのは」
「どうせ暇でしょ? 君」
「……まあ、そうですけど」
「なら、わたしとのご歓談に付き合うのも吝かではないのではなくて?」
やたらと僕にこだわる依田先輩だが、前髪が長いせいで、やはり顔は見えず、何を考えているのかまったくわからない。
「わかりにく言い回しをしないでくださいよ」
「性格も含めていろいろわかりにくいのは初期設定なのよ。友人にもよくそう言われるわ」
「友人あなたのことよくわかってますね」
「……ええ、そうでしょ」
なぜか小さく笑い声をあげて、依田先輩は頷く。
どうあっても僕の手首をつかむことをやめそうにない先輩に根負けした僕は条件を出すことにした。
「じゃあ、前髪がそんなに長い理由を教えてくれたら、一緒にいてあげてもいいですよ」
「寛大なご処置、痛み入るわ」
言葉とは裏腹に尊大に頷いて、先輩が言う。
「前髪が長い理由ね。それはひどく簡単なことよ。容姿にコンプレックスがあるの。だから、それを隠すために、こういうヘアスタイルにしているわけね。わかった? 女の子の言いたくないことを言わせようとする、気遣いのできない相田君?」
「……すみません」
少し強めの口調で言われて僕は思わず、謝罪を口にした。
「なるほど。つまり、君は君の恋人に対して抑えがたい劣等感を覚えていて、それがゆえに上手くその恋人と自然体で接することができない。また、その恋人のお姉さんから頼まれた彼女のお母さんとの問題についても、行動することができない。そういうことなんだね」
依田先輩は僕から聞いた話をまとめるようにそう言った。
「まあ、要はそういうことですね」
なぜだか、僕はこの人に元々一木先生に話そうと思っていた内容を話してしまった。
十数分前に初めて話したばかりの相手になぜそうまで心を開いてしまったのか自分でもわからない。
先輩の性格的なところに親近感でも覚えたのかもしれないし、あるいは容姿にコンプレックス、つまりは劣等感を持っているという彼女なら、もしかしたらいいアドバイスをくれるかもしれないと考えたからかもしれない。
今日初めて会った相手にそんなことを相談してしまうほど、僕って他人を信用する人間だったっけと少し不審に思う。
けれど、実際話してしまったのだから、仕方がない。
とにかく僕は依田莉亜先輩に、自身の事情について説明し、彼女はそれを真剣な様子で聞いていた。いや、前髪のために表情はわからないのでたしかなことは言えないが、少なくとも雰囲気は真剣だったと思う。
「それで一木先生には、自分を知る、とかなんとか言われたわけね」
「はい、まあ、そうですね」
「ふーん」
興味があるのかないのか、まじめに相談に乗ってくれているのかいないのか、いまいち判然としない態度で、彼女はそんな声を上げる。それから長い前髪に手をやって、うざったそうにそれを払いのけようとしたが、すんでのところで手を止めた。
「……やっぱりそれ、じゃまなんじゃないですか?」
「そんなの当たり前でしょう? こんな細っこい長さの物体が束になって目の前にぶら下がってたら、じゃまに感じない人間なんていないわよ」
「なら、やめればいいのに」
「人には言えない事情は誰にでも存在するのよ。誰にでもね」
意味深なことを言って、それから彼女は話題を切り替えるように一つ、咳払いをした。
「自分を知る、っていうの、具体的に君はどうやって実践しようと思っているわけ?」
そうして、やはりまじめに僕の相談に乗ってくれる気はあるのか、そんなことを訊いた。
「まあ、なんていうか、自分の内面と向き合うとか、そういう……」
「ああ、それなら止めといたほうがいいわ」
「……どうしてですか?」
「そんなの決まっているわ。人間一人で悩んだところで良い答えなんて出ないからよ」
依田先輩は迷いのない口調でそう言い切った。
「それは経験則ですか?」
「まあ、そうね。人間って、自分自身が思っているほど中立的なものの考え方をしていないものよ。大抵、変な偏見やら先入観やらに凝り固まってる。そんな状態で一人で考えただけじゃ、正しい答えなんて導けないのよ」
やけに実感のこもった言い回しだった。経験則というからには、彼女はどんな経験を経てきたというのか。
「一人がだめなら、じゃあ、どうするんですか?」
「人に訊きなさい。それも、信頼できる人間に」
「……信頼できる、人間」
「そう。当然、誰でもいいわけじゃないわ。まったく知らない他人に訊いたところで、君の劣等感を解決する手がかりなんて得られやしない。だから、あなたのことを好きであなたのいいところを知っている。そして同時に、あなたがもっとも信頼する、そんな人間に助言を求めるのがベストでしょうね」
「……そんな都合のいい人間がいるわけ……」
先輩にそう言われて、僕は頭の中に数少ない自分の知り合いを思い浮かべた。
そうしているわけがないと思ったその相手を、僕はすぐ身近に知っていることに気づいてしまった。
「……どうやら、思い当たる人はいるみたいね。当然、その恋人本人というわけじゃないのでしょう?」
僕の表情から読み取ったのだろう。依田先輩は長い前髪ながら、こちらを覗き込むようにしてそう言った。一瞬ちらっと髪の隙間に見えた彼女の瞳は、まるで無機物か何かのように、艶を消した真っ黒な色をしていた。
「ええ、さすがにそれは僕もわかってますよ」
その瞳にちょっと気になる点を感じたものの、あえて触れることなく僕は答える。
僕が劣等感を覚えている藍自身にその解決の手がかりを求めたところで、僕の感情はより複雑にもつれていくだけだろう。そもそも、感情的に藍にそんなことを訊くのは、なんというか、耐えられない部分がある。
それこそ、自分が情けなくてしようがなくなる気がする。
「ならもう、話は単純ね。その人に君のいいところを教えてもらうのよ。そして、君はその言葉を信用する。信頼する。あるいはそれができなくても、そうなれるよう努力する。自分から見た自分だけではなく、他人から見た自分だって、きっと自分なのだから」
「はあ、まあ、そうなんでしょうけど……」
「歯切れの悪い言い方ね」
「その相手っていうのがちょっと……」
「こじれた相手?」
「……そう言えなこともない、というか」
「恋愛感情のもつれ?」
「……もつれてはいないんですよ。たぶん、こじれてもいませんねただ」
「気まずい」
先輩の言葉に、僕は頷きを返した。
告白の返事をした直後は他の問題もあって、なあなあで済まされていたものが、時間が経つごとに気まずく感じられてきて、やがてちょっと疎遠に感じるみたいな、そういう気持ち。
日常的な態度を見て、向こうはそんなに気にしていないというか、完全に振り切っている感じなんだけど、最初はそんな感じだった僕の方が今度は逆に気にしてしまっているというか。
有体に言って、だから気まずいのだ。
――栗原るりとまともに向き合うのは。
「ま、そんな相手に自分の良いところを訊くなんて重い、だるい、めんどくさい、と思う気持ちもわからなくはないわ」
「いや、めんどくさいまではいかないですけど」
「でも、それでも、君はその人のことを信頼しているのでしょう?」
「……」
「だったら、胸を借りる気持ちで飛び込んでいけばいいんじゃない?」
知らないけど、と、どこか照れ隠しをするように、彼女は付け加えた。
「そうかもしれませんね」
「ええ、きっとそうよ」
力強く頷いた彼女は目の前にずっと置かれて湯気を立てていたコーヒーにそこでようやく口をつけた。
マフラーを首にずらし、晒された口元の肌は白く、艶のある薄紅色の唇がやけに浮いて見える。
一口二口、黒い液体を口に含んだ彼女はそっと顔を上げた。
「実はわたしにも彼氏がいるんだけど」
「へえ、そうなんですか」
少し意外だ。
性格もそうだが、この前髪の長さで付き合っている人がいるというのも妙な感じだ。
どういう交際の仕方をしているのだろう。彼氏には素顔を晒しているのか?
「トムって言うんだけどね」
「……え、海外の方ですか?」
「ううん。愛称よ」
「はあ」
日本人に愛称でトムってつけるとか、どういうセンスをしているのだろう。彼女は。
「けっこう反りが合わないというか、喧嘩することも多いんだけどね」
「……はあ」
「でも、それでも、相手のことをある程度信頼しているからこそできる行いっていうのもあってね。これくらいやっちゃったら、怒るかもしれないけれど、けど、きっとすぐに許してくれるって」
「……」
「だから、君も、怖がらずに相手のことを信頼しているのなら、勇気を出して挑戦してみるといいわ」
「……はい!」
最後に先輩らしいことを言った彼女に、割と元気のいい返事を返して、そんなところで僕は席を立った。
相談室を去る間際、彼女を振り返って言う。
「……また、昼休みにここに来たら、先輩に会えますかね?」
それを聞いた彼女はやはり表情の見えない顔を上げて、たぶんこちらをあの黒い瞳で見つめながら、おそらくは微笑んだ。
「ええ、君がそれを求めるのなら、きっとね」
扉を閉めて廊下に出る。
ずっと暖かった相談室の中に比べて、廊下はやはり、少し肌寒い。
最初に隙間風を嫌がった彼女の気持ちもわかるようではあった。
けれど、その寒さに抗い、僕は歩を進める。
蝕むような寒さを怖がる必要はない。
なぜなら僕はもう、人のぬくもりを知っている。
人のつながりを知っている。
藍も、栗原も、百日も、斎藤も、楓さんも、凛も、父さんも、母さんも、一木先生も、依田先輩も。
僕は多くの人に助けられて生きている。
僕は一人じゃない。
だから、怖がる必要はない。
恐れる必要はない。
僕はそのつながりの中にいる自分を意識する。
僕はそのぬくもりの中にいる自分を意識する。
劣っているのはたしかかもしれない。
届かないのもたしかかもしれない。
けれど、僕がその中にいるのもまたたしかなのだと。
そう考えたとき、僕は自分の心の内で何かが変わっていくような感じがした。
劣っている自分の価値はないなんて思っていたけれど、それでも、そんな僕をなんだかんだで助けてくれた人たちがいるのなら、僕はそれを無視するような生き方をしていいのか。
僕という僕を構成する内にあるものは、もはや僕だけのものではない。
藍と、栗原と、百日と、斎藤と、楓さんと、凛と、父さんと、母さんと、一木先生と、依田先輩と、いろいろな人と関わる中で生まれてきた僕の心だ。
だから、それは僕だけのものじゃなく、だから、それは僕を助けてくれた人たちにもらったものだ。
僕の心が劣っていると、そう感じたけれど、けれど、彼らからもらったそれらが劣っているなんて、僕は思えない。
彼らから分けてもらったその心遣いを、心根を、そして、ずっともっと綺麗なものを、僕は軽々しく劣っているだなんて言うことはできない。
だから、僕の中にいるのは僕だけじゃないからこそ、僕自身は決して、誰かに誇れない人間ではないのかもしれない。
僕はそう感じ始めていた。
今週は日曜23時にも投稿します。ちょっと週一投稿がじれったく感じてきたので。