優しいるりちゃん
六月中旬。
梅雨真っ盛り。
その日は早朝から豪雨が続いていた。
朝六時に目を覚ました僕は、六時四十分に家を出ようとして、玄関に降り注ぐ大量の雨粒に嫌気が差した。
家の中に戻って、ちょうど目を覚ましたところの父親に、通勤前に学校まで送ってくれないかと申し出たところ、即断で「かっぱを着て行け」と言われ、意気消沈する。
仕方なく自転車を車庫から出そうとしたが、そのタイミングで雷がぴしゃりと鳴り、雨脚がさらに強まった。
風こそないものの、道路のコンクリートに打ち付ける水滴はさながら重機関銃の弾丸のようだ。
「……電車で行こ」
脳みそ筋肉親父の判断に逆らうことを速攻で決定した。
傘立てから父親の黒い傘を引ったくり、それを持って最寄り駅に向かう。
帰ってから何か文句を言われたら、「かっぱを着ればよかったじゃん(笑)」と言ってやることにしよう。
雨脚の強い中、傘を差して駅に辿り着き、やってきた電車に乗り込む。
電車内は非常に混雑しており、雨ということもあってかなり蒸していた。
サラリーマンのおじさま方の隙間を縫って壁際のスペースをどうにか確保する。
学校近くの駅まではおよそ二駅だが、そこからさらにバスを乗り継いで、目的地まで三十分ほどバスに揺られる必要がある。
僕が登校に自転車を用いるのも、実はその乗り継ぎの面倒くささが原因でもあった。
目的の駅を降りると、ちらほら同じ学校の制服の人間も見られる。
その中に知った顔もあった。
同じクラスの栗原るり。
僕と九々葉さんに関わろうとする変わり者の人間。
けれど、そのどちらからもすげない対応をされている人。
友達は連れていないようで、彼女は一人でいるようだった。
おそらくは僕と同じバスに乗るのだろう。
一瞬、話しかけようかとも思ったが、そんなに親しい仲でもないと思い直してやめておいた。
バスに乗り込む彼女にばれないように、タイミングをずらして乗り込む。
彼女はバス前方の席。僕は後方の席。
後ろから見ると、彼女は手にしたスマホを見つめていて、僕の存在には気づいていない。
まあ、気づいたところで話しかけられることもないだろうけど。
高校前のバス停に辿り着いたところで、バスを降りた。
土砂降りの中、傘を差して雨を凌ぐ。
そのときまで栗原は僕の存在には気づかなかった。
淡々とした足取りで昇降口に向かう彼女から距離を取り、歩み遅くゆっくりと校舎に向かう。
傘を叩く雨の音が耳障りなほど騒々しかった。
幸い、その日の雨は夕方まで続かなかった。
放課後にはすっかり晴れ間が見え、空は雨上がりの風情を残している。
九々葉さんにさよならを言って教室を後にした僕は、昇降口で靴を履き替え、高校前のバス停に立った。
手に持った傘をうざったく思いながら、バスを待つ。
「あ……」
しばらく経ってから、気の抜けたような声がして顔を向けると、そこに栗原が立っていた。
「……どうも」
明らかに僕を見て反応した彼女に何も言わないのもどうかと思い、そんな言葉を投げかけておく。
栗原は訝しげに首を傾げ、窺うように僕を見た。
「相田君って、バス通学だったの? 一度も見たことないけど」
「いや、自転車通学だけど、今日はひどい雨だったから」
「あ、そうなんだ」
彼女が納得したように声を上げ、それから沈黙が落ちる。
僕には特に栗原に持ちかけるような話題がなく、あるいは彼女にとってもそうだったのかもしれない。
そこで会話は止まり、それ以上新しく続くことはない。
バス停には他にもバスを待っている生徒がいるとはいえ、一度会話を交わした手前、何となく言葉のない沈黙が重かった。
「……きゅ、休日とか何してるの? 相田君は」
「寝てる」
「そ、そうなんだ……」
気を利かしてだろうか。そんな話題を振って来た栗原に一言で返し、それっきりまた会話は途切れた。
別に気まずくしようとして言ったわけじゃない。
正直に答えたら、たまたま気まずくなっただけなのだ。
十分ほどその沈黙に耐えたところで、バスがやってきた。
一番に乗り込む僕に、栗原がその後に続く。
ようやく会話のない気まずさからおさらばだ。
そう思ったのだが。
「……」
「……」
目の前に見えた四人掛けの椅子に僕が座ったところ、その隣に一人分ほど空間を開けて、栗原が座ったのだ。
結果として、微妙にさっきの雰囲気を引きずることになる。
そこでやっと、僕は疑問に思った。
どうして、この女子は僕から距離を取ろうとしないのだろう。
クラスで中心にいるような人間が、クラスで浮いているような僕と関わったところで、何のメリットもないと思うのだが。
そこまで考えて、なんだかひどくめんどくさくなってきた僕は、単刀直入に訊いてみることにした。
「なあ、何で近くに座ったんだ?」
「……え、あの……、ご、ご迷惑でしたか?」
なぜか敬語になって問い返す栗原。
「別に。ただ純粋に疑問に思ったから訊いただけ。さっきあんだけ気まずい沈黙が落ちてさ。なのに、なんでまだ近くに座ろうとするんだ? お前みたいな女子にとっては、ああいう気まずいの拷問みたいなもんだろ? わざわざそれに飛び込もうって気が知れない」
「……拷問って……、そんな大げさな。わたしはただ……」
「ただ?」
「……ただ、近くの座席に座っただけだよ」
「ふぅん」
それこそ、九々葉さんの言うところの建前ではないだろうか、と思った。
けれど、この場合の建前は人を傷つけるようなものじゃないだろう。そう直感的に思う。
本音がどうであれ、気にしてもしなくてもどっちでもいい類の建前だと思われる。
だから、深くは尋ねないことにした。
その代わり、別のことを訊いておくことにする。
「……お前ってさ……」
「あのね、相田君」
「ん?」
「『お前』はやめてくれない? 君の言い方だと、自分がほんとにどうでもいい人間だって言われてるみたいに聞こえるから」
「じゃあ、栗原」
「……はい」
「お前が以前、九々葉さんに話しかけたとき、どういう反応をされたんだ?」
「結局、お前って言うのは変わらないのね……。いいですよーだ」
「……悪かったよ」
やけくそのように言う栗原に、ちょっと申し訳ない気持ちを感じた僕は謝る。
「九々葉さんの反応?」
「そうだよ。おま……栗原が話しかけたときはどんな感じだったのかなって……」
「うーん」
それでも、質問に答えくれる気はあるのか、額に手を当てて考える風の栗原。
「話しかけても何も答えてくれなかった」
「……僕のときと同じだな」
「繰り返し繰り返し話しかけてたら、だんだん迷惑そうな顔をして……」
「……」
「……わたしと話すの嫌? って訊いたら」
「訊いたら?」
「ぼそっと『……嫌』って……」
「……あー」
「それから、『もう関わらないで』とも言われたかな」
「……」
「そこまで言われたらさ。もうどうにもできないよね」
「……まあ、な」
きついなー、それは。
九々葉さんの気持ちはこの前聞いたところではあるが、拒絶された側の人間とこうして話していると、それはそれでちょっとかわいそうに思えてくる。
「だから、わたしは疑問に思ったんだよ。あんなに頑なだった九々葉さんがどうして、相田君とはあんな風に仲良さげに話すようになったのかって」
どこか咎めるような目をして栗原が僕を見る。
「いや、仲良さげではないぞ」
「どうだか」
「……仮にそうだったとして、お前に責められるような謂れはないんじゃないか?」
「わたしがいつ君を責めたの?」
今も射抜くような視線を向けてきている気がするが、まあ、それはいいだろう。
自分には心を開いてくれなくて『もう関わらないで』とまで言った九々葉さんが、僕とはまともに人間関係を持っているのだ。むかつかない方がおかしいというものだろう。
「実際のところ、相田君は何をしたの?」
「何って、ただ怪我した九々葉さんを保健室に連れて行っただけだけど」
「ああ、あれね」
「お前も見てたろ。多少悪目立ちはしたかもしれないが、別に普通のことだ」
「ふぅん……?」
やけに意味深な相槌を栗原が打った。
「なんだ、その反応」
「別に―」
「……?」
よくわからないままに首を傾げるしかない。
「まあ、わたしとしては、九々葉さんがクラスで孤立しないなら、それでいいといえばいいんだけどね」
そして、栗原はそんなことを言った。
「お人よしなのか? お前は」
「……自分で言うのもなんだけど、ああいう風にクラスで孤立してる子は放っておけないしね」
「やっぱりお人よしか」
「そのお人よしって言葉ってさ、正直者は馬鹿を見るみたいなマイナスな意味でしか使われないよね」
「いや、僕はいい意味で使ったぞ」
「ほんとに~?」
「嘘だけど」
「……はあ」
彼女が深々とため息を吐いた。
「ところで、僕はいいのか?」
「何が?」
「クラスで孤立してる子は放っておけないんだろ? だったら、僕だってそうだったじゃないか」
なのに、僕は栗原はおろか、誰からも話しかけられた覚えがないのだが。
そう言うと、栗原はひどく難しい顔をして、困ったように眉を寄せる。
「……相田君はなんか平気そうな顔してたから」
「どんな顔だよ、それ」
「まあ、いいじゃない。過ぎ去ったことは気にしない~」
「……」
あからさまにごまかすようにする栗原の言葉だったが、たしかに終わったことだったので、それ以上追及する意味もないように思えた。
「まあ、とにかく、ね。わたしは九々葉さんが放っておけなくて、声をかけたっていうわけ。だから、もし彼女のことで困ったことがあったら、いつでもわたしを頼ってくれていいよ」
緩やかに微笑んで彼女は言って、その笑顔に不意を突かれて僕はどぎまぎする。
「……お前、いい奴だな」
「そうでしょ? るりちゃんは誰にでも優しい子なのです」
「……」
若干、言動があれだったので、白い目を向けると、彼女はあはは、と照れたように笑った。
「ま、そういうことで」
そんなところで彼女は会話を終えることにしたようで、鞄からスマホを取り出した。
それから、バスが駅に着くまでの間、一人分の空間を空けたまま並んで腰を下ろしていた。
栗原がスマホを触っていることもあったかもしれないが、そこからの沈黙をさっきのように気まずく感じることはなかった。