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カエルレウスの魔女  作者: イヲ
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-11-

 ヘカテーは立ち上がり、窓のそとを見た。

 雷がとおくで光っている。


 直後、ひどい音が耳朶を打つ。どこかに落ちたのだろうか。

 部屋のなかでさえ、びりびりと振動した。そして、ふっとキッチンの電気が消えた。

 それでも允嗣は身動きひとつしない。


 彼の瞳は濡れ、わずかに輝いている。

 床のかすかな軋む音。

 

 ヘカテーは覚えのない恐怖にかられた。

 足がすくむような感覚。ひさしく感じたことのない、恐怖という姿の見えない化け物。


「俺は、俺から逃げない。逃げられない」

「そうだね。ひとは、自分自身から逃げられない。うまれたときから」


 ことばを、慎重にえらぶ。気をゆるめると崩れ落ちそうな足を叱咤して、つぶやく。


「もう十分、迷ったと思う。おまえが魔女で、永遠に似た時を生きるのだということも知っている。いや、それはおそらく、ただの言い訳を探すためのものだったのかもしれない」


 雨がつよく降っている。それでも彼の声はよく聞こえた。

 冬におとずれた、宵闇のような声で。


「おまえが好きだ」


 首すじに、長い髪の毛がさらりとふれる。隻眼の瞳がとじられる。ああ、と、思惟をした。

 せめてわたしが人間だったなら、と。


(いや、それは――。意味のない思いだ。わたしは魔女。人間にはなれない。)


「……そうか……。そう決めたのは、きみなのだね」

「そうだ」


 雷が鳴った。

 するどい点滅。ヘカテーは、允嗣の顔を見上げた。彼の表情は、月夜の波のように凪いでいる。

 彼女はあきらめたように息をそっとついて、手に持っていた道化師(ジョクラトル)を床に落とした。ことん、と、音がして、ともすればふるえそうになる足を叱咤し、一歩允嗣へとむかう。


「わたしは……」

「返事は今しなくともいい。ずいぶん、待たせたからな。おまえも、考える時間がほしいだろう」


 ヘカテーは答えない。道化師(ジョクラトル)の青い宝石がかすかに雷に反射して輝いただけだ。

 青く、深い色の隻眼。なにかを思考しているわけでもない。


「いいの」


 自分の声ではないようなことばを、つぶやいた。

 うすい赤に染まったくちびるが、そっと開かれる。允嗣は、それを黙って聞いていた。


「わたしで――いいの」


 蝶が舞うような声色。

 青い、青い瞳が允嗣を見つめている。

 彼は、ヘカテーと対照的な黒い瞳で、彼女を見つめた。


「俺はおまえを選んだ。そこに後悔はない」

「きみはわたしを置いていってしまう。かならず、きみはわたしをおいて死んでしまう」

「そうだな。おまえをおいて、俺は死ぬ。それでも、決めた。人は後悔するいきものだ。だが、俺は後悔したくはない」


 彼はそう言って――笑った。今まで見たことがない、やさしい笑みだった。

 将来を約束することはできない。かならず、允嗣はヘカテーを置いて死んでしまうのだから。

 それでも――ヘカテーは、その一瞬にも似た時間を、愛おしみたい、と思う。

 死は、ひとのおわり。

 それでも、消えはしない。ヘカテーが生き続けるかぎり。

 すべてのおわりではない。


 允嗣、とヘカテーのくちびるがかたどった。

 血色のいいくちびるが、彼の名を、二度、よぶ。

 彼は、ああ、とこたえる。


 いつからだっただろう。

 いつから、彼は強かったのだろう。そして、いつからヘカテーは弱くなったのだろう。

 ひとを好きになることは、弱くなることだ。弱点が増えるということだ。

 それでも、ひとは強くなる。自分以外のものを守ろうと、強くあろうとすることができる。

 それが、涙が出るほどにいとおしい。


「ずいぶん、待たせたな」


 眼鏡の奥の瞳が、ゆるんだ。

 いとしいひとにむける瞳だった。

 それは間違いなく、ヘカテーにむけられている。


 そっと、月に伝えるような声で、ささやいた。


「きみは、わたしを選んでしまった……」


 淡くにじむ、プルシャン・ブルーの瞳。

 (もう、取り戻せない。)

 右目から、涙がこぼれた。


 允嗣とヘカテーの距離が、かすかに縮んだ。


「わたしも、きみを……選んでしまった」


 静かな湖面に一滴のきよい水をしたたらせるように、ヘカテーは目を閉じた。

 白いほおを、すっとその清らかな涙がながれる。

 両手で顔をおおう。

 長い、絹のような黒髪が肩からするりとこぼれおちる。黒いチュール・レースを裾にあしらったドレスが、かすかにふるえた。

 允嗣のすきとおるような黒い瞳が、ヘカテーを見ている。


「そうか」


 彼は、それだけを呟いた。

 やさしい目をしていた。ヘカテーはそれを見ない。ただ、顔を手でおおったまま、肩をかすかにゆらしていた。


 あいされることなど、なかった。

 あいすることなど、なかったはず。


 魔女は、人間のねがいをかなえるためのお人形。

 そこに、愛などなかった。

 必要もなかった。


「わたしは、ことばを知らない。わたしのことばを」

「気長に待つ」

「きみに捧げるものも、なにひとつない」

「もとから期待していない」

「きみより、90も年上だ」

「……それは……どう頑張ってもどうしようもできない、が、俺にとっては些細なことだ」


 允嗣が口ごもると、ようやくヘカテーは顔をあげた。目尻が赤くにじんでいる。のこった涙をゆびでぬぐって、ヘカテーはそっとくちびるを開いた。


「銀色の月」

「なんだ、それは」

「わたしの、大切なものだよ。きみにも、覚えていて欲しい……」


 雨がふりつづける夜。

 月は見えない。


「わたしがこの世界で初めて見たもの……。それが銀色の月だった。空にうかんだ、うつくしい銀色の月……。允嗣。わたしは、思い出すよ。きみは、わたしの銀の月。はじめてみたきれいなもの。大切な……」




 うたをうたうように呟いた彼女は、どこか幼い少女のようだった。

 それでも、それはヘカテー自身のことばだった。迷いのない、こころからのことばだった。

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