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ヘカテーは立ち上がり、窓のそとを見た。
雷がとおくで光っている。
直後、ひどい音が耳朶を打つ。どこかに落ちたのだろうか。
部屋のなかでさえ、びりびりと振動した。そして、ふっとキッチンの電気が消えた。
それでも允嗣は身動きひとつしない。
彼の瞳は濡れ、わずかに輝いている。
床のかすかな軋む音。
ヘカテーは覚えのない恐怖にかられた。
足がすくむような感覚。ひさしく感じたことのない、恐怖という姿の見えない化け物。
「俺は、俺から逃げない。逃げられない」
「そうだね。ひとは、自分自身から逃げられない。うまれたときから」
ことばを、慎重にえらぶ。気をゆるめると崩れ落ちそうな足を叱咤して、つぶやく。
「もう十分、迷ったと思う。おまえが魔女で、永遠に似た時を生きるのだということも知っている。いや、それはおそらく、ただの言い訳を探すためのものだったのかもしれない」
雨がつよく降っている。それでも彼の声はよく聞こえた。
冬におとずれた、宵闇のような声で。
「おまえが好きだ」
首すじに、長い髪の毛がさらりとふれる。隻眼の瞳がとじられる。ああ、と、思惟をした。
せめてわたしが人間だったなら、と。
(いや、それは――。意味のない思いだ。わたしは魔女。人間にはなれない。)
「……そうか……。そう決めたのは、きみなのだね」
「そうだ」
雷が鳴った。
するどい点滅。ヘカテーは、允嗣の顔を見上げた。彼の表情は、月夜の波のように凪いでいる。
彼女はあきらめたように息をそっとついて、手に持っていた道化師を床に落とした。ことん、と、音がして、ともすればふるえそうになる足を叱咤し、一歩允嗣へとむかう。
「わたしは……」
「返事は今しなくともいい。ずいぶん、待たせたからな。おまえも、考える時間がほしいだろう」
ヘカテーは答えない。道化師の青い宝石がかすかに雷に反射して輝いただけだ。
青く、深い色の隻眼。なにかを思考しているわけでもない。
「いいの」
自分の声ではないようなことばを、つぶやいた。
うすい赤に染まったくちびるが、そっと開かれる。允嗣は、それを黙って聞いていた。
「わたしで――いいの」
蝶が舞うような声色。
青い、青い瞳が允嗣を見つめている。
彼は、ヘカテーと対照的な黒い瞳で、彼女を見つめた。
「俺はおまえを選んだ。そこに後悔はない」
「きみはわたしを置いていってしまう。かならず、きみはわたしをおいて死んでしまう」
「そうだな。おまえをおいて、俺は死ぬ。それでも、決めた。人は後悔するいきものだ。だが、俺は後悔したくはない」
彼はそう言って――笑った。今まで見たことがない、やさしい笑みだった。
将来を約束することはできない。かならず、允嗣はヘカテーを置いて死んでしまうのだから。
それでも――ヘカテーは、その一瞬にも似た時間を、愛おしみたい、と思う。
死は、ひとのおわり。
それでも、消えはしない。ヘカテーが生き続けるかぎり。
すべてのおわりではない。
允嗣、とヘカテーのくちびるがかたどった。
血色のいいくちびるが、彼の名を、二度、よぶ。
彼は、ああ、とこたえる。
いつからだっただろう。
いつから、彼は強かったのだろう。そして、いつからヘカテーは弱くなったのだろう。
ひとを好きになることは、弱くなることだ。弱点が増えるということだ。
それでも、ひとは強くなる。自分以外のものを守ろうと、強くあろうとすることができる。
それが、涙が出るほどにいとおしい。
「ずいぶん、待たせたな」
眼鏡の奥の瞳が、ゆるんだ。
いとしいひとにむける瞳だった。
それは間違いなく、ヘカテーにむけられている。
そっと、月に伝えるような声で、ささやいた。
「きみは、わたしを選んでしまった……」
淡くにじむ、プルシャン・ブルーの瞳。
(もう、取り戻せない。)
右目から、涙がこぼれた。
允嗣とヘカテーの距離が、かすかに縮んだ。
「わたしも、きみを……選んでしまった」
静かな湖面に一滴のきよい水をしたたらせるように、ヘカテーは目を閉じた。
白いほおを、すっとその清らかな涙がながれる。
両手で顔をおおう。
長い、絹のような黒髪が肩からするりとこぼれおちる。黒いチュール・レースを裾にあしらったドレスが、かすかにふるえた。
允嗣のすきとおるような黒い瞳が、ヘカテーを見ている。
「そうか」
彼は、それだけを呟いた。
やさしい目をしていた。ヘカテーはそれを見ない。ただ、顔を手でおおったまま、肩をかすかにゆらしていた。
あいされることなど、なかった。
あいすることなど、なかったはず。
魔女は、人間のねがいをかなえるためのお人形。
そこに、愛などなかった。
必要もなかった。
「わたしは、ことばを知らない。わたしのことばを」
「気長に待つ」
「きみに捧げるものも、なにひとつない」
「もとから期待していない」
「きみより、90も年上だ」
「……それは……どう頑張ってもどうしようもできない、が、俺にとっては些細なことだ」
允嗣が口ごもると、ようやくヘカテーは顔をあげた。目尻が赤くにじんでいる。のこった涙をゆびでぬぐって、ヘカテーはそっとくちびるを開いた。
「銀色の月」
「なんだ、それは」
「わたしの、大切なものだよ。きみにも、覚えていて欲しい……」
雨がふりつづける夜。
月は見えない。
「わたしがこの世界で初めて見たもの……。それが銀色の月だった。空にうかんだ、うつくしい銀色の月……。允嗣。わたしは、思い出すよ。きみは、わたしの銀の月。はじめてみたきれいなもの。大切な……」
うたをうたうように呟いた彼女は、どこか幼い少女のようだった。
それでも、それはヘカテー自身のことばだった。迷いのない、こころからのことばだった。




