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しめった風が、台風をつれてくる。
ヘカテーは、ふいに思い立ち、テレビをつけた。
勝手にテレビをつけたことくらいで怒るような男ではないと知っているからだろうか。
ニュース・キャスターが焦ったような表情で、台風が近づいています、と伝えている。
そういえば、金鵄も昨日くらいに、台風がくると言っていた気がした。
がらすのようにきれいな木目のローテーブルに、そっと顔をうつしこむ。
隻眼の目が、まるでモノクロの映画のようにヘカテーには見えた。
「……」
人間だったらと思うことは、罪だ。だが、敬虔なクリスチャンが告解をするように、その罪をだれかにあがなってもらうことはできない。
もっとも、罰を与えるものなどいないのだが――。
吐息だけで笑うと、玉ねぎと牛肉を炒める音とにおいが届いてくる。
白いゆびが、宙に弧をえがく。すると、うつくしい、透きとおるような青――インディゴ・ブルーの蝶が部屋のなかを漂いはじめた。
なんのこともない、ただのたわむれだ――。蝶はただ光の緒をまといながら、ゆったりとはためいている。それは、悪意に反応して消えてしまうこともなく、ただヘカテーが与えた蝶を喜ぶように、蜜をすう、ほんものの蝶のようにたゆたった。
「……心配かね」
ぼんやりとした、影。
それがふたつ、並んでいる。允嗣の両親だった。
ふたりはほほえんでいる。
彼らはよりそい、ただかぶりを振った。
「そうか。それならば――いい。きみたちが守ってきたこの家だ。わたしが心配することはなにもなかったね」
そして、彼らは「ありがとう」と言った。ことばを発することはなく、くちびるの動きでそう感じただけだが――。ヘカテーはうなずき、さまようように舞っている蝶にささやいた。
「彼らの道しるべとなるんだ」
インディゴ・ブルーの蝶は彼らを導くように、徐々に消えていく。そして、彼らの影もやがて、消えてしまった。
彼らは、いつでも允嗣と梢のそばにいるだろう。允嗣たちが忘れないかぎり。
笑っていた。
彼らは、まるで安心したようにほほえんでいた。
ヘカテーは長い髪を肩にすべらせて、くちびるの端をあげ、ほほえんだ。
その笑みがモノクロの映画のように、ローテーブルに映った。
「ヘカテー」
それから数分もしないうちに、允嗣がキッチンから出てきた。ベージュの、リネン・コットンのエプロンをたたみながら、彼は眉根をよせた。
「どうしたんだ」
「どうもしないさ」
「……」
彼エプロンを椅子にかけて、そっと息をついた。
どこか悩んでいるようすの允嗣は、ヘカテーを見下ろしたまま、くちびるを閉じている。
「俺より何倍も生きているというのに、頼るということを知らないんだな」
不機嫌をあらわすかのように、彼はつぶやいた。
ヘカテーはくちもとに指をあてて、そっとほほえんだ。允嗣はそれをめざとく見つけて、眉のしわをよけい深くさせる。
「頼る必要がなかっただけだよ」
「頼れ」
はっきりと、允嗣は言った。
頼れ、と。
まるで、禁句をつぶやくように。
「……」
ヘカテーは、もう笑ってはいなかった。
ただくちびるをぐっと結び、目を伏せて、允嗣の視線からのがれる。
ひとと魔女は違う。
それを、允嗣は嫌というほど見てきたはずだ。
腹に穴を開けても生きていける。人外の力をも、見せつけてきた。
それでも允嗣は――ヘカテーを見放さなかった。いや、迷っていただけなのかもしれない。
ひとは、肉体という箱に閉じ込められた魂を持つ生命体だ。
魔女とは、まったく違ういきもの――。
「ずるいだろう」
はっとヘカテーは顔をあげて、允嗣の顔を見上げる。そこには、居づらそうに目をそらした男が、迷子のように立ちすくんでいた。
どちらの道がただしいのか、分からない表情をしている。
しかし、ヘカテーはその答えを教えるすべなど、どこにもない。
ふたりの迷い子は、ただふりだした雨の音を聞いていた。
「ずるい、か……。きみの口から聞けるとは思わなかった」
「茶化すな」
雨の音はBGMにふさわしい。
「よく考えてみた」
彼の短い髪の毛が、惑うようにゆれる。悩むように、ただしい道を見つけようと必死になっている。
ひとは迷ういきものだ。
だから、それを制したりはしない。
「俺のなかにある、感情がなんなのか」
ヘカテーはもう、口を挟むことはなかった。ただ、彼のことばだけを受け止めている。
「守りたいと思う。たとえ、その必要がなかったとしてもな。その先の答えを、俺はずっと考えていた」
黒い瞳を伏せて、なにかを思惟するようにくちびるを結んだ。
うつくしい、黒曜石のような瞳をかくすように、そっとまぶたをとじる。
言うべきか、言わないべきか、いまだ思考していた。
「俺は――」
外からふたりの間を引き裂くような稲妻が、部屋を一瞬にして銀色に輝いた。




