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本当にありがとうございました、と頭をさげた結は、ヘカテーと允嗣をのこして、家に帰っていった。
ビル街は、まだ賑やかだ。
日曜日だが、スーツを着た若い男性や、夕食にむかうであろう家族連れがヘカテーたちのまえを通り過ぎる。
華やいでいるわけではない。
允嗣はそっと息をついた。
蔓草のように、こころのなかを這う植物は、いまだとけない。
「ヘカテー」
「なんだね」
「……今日は助かった。礼を言う」
「わたしはなにもしていない。気にすることはないよ」
黒のエンパイア・ドレスは風にゆれ、ふわりと風をふくんだ。
「おまえの力をあてにしないと、誓ったはずなんだがな……」
「結果的に、魔女の力を使わなかったから、いいんじゃないか」
「そういうわけにもいかないだろう。これは俺の問題だ」
「大げさだねぇ」
くすっとほほえんだヘカテーの表情はどこか、少女のようにみえる。允嗣はそれを見ないふりをして、そういえば、と話を切り替えた。
「金鵄はどうした」
「金鵄なら、食べるものを食べて飛んでいってしまったよ。どうやら見たいテレビがあるみたいでね」
「そうか……」
使い魔も、テレビを楽しみにするものなのかと、理解する。
「ヘカテー、腹が減っているなら、うちに来たらどうだ」
何をいっているのか分からないまま、允嗣は口をついて出たことばを、素直に吐き出した。
ふと自分は一体何を口走ってしまったのかと後悔する暇もなく、ヘカテーは隻眼の瞳を見開いた表情をただ呆然と見つめる。
「いいのかい?」
「あ、ああ……」
「久しぶりに梢にも会いたいしね。ご同伴にあずかろうか」
「分かった。梢に電話するから、すこし待っていろ」
そう言い残して、ヘカテーに背をむけた。
なにも、自分が作るのだから電話をしなくてもいいのだが、ここから逃げたいなどという、無様な想いから電話をしてしまった。
電話口の梢は、うれしそうにもちろんよ、と笑っている。
しかし、允嗣のこころはどこか違う場所に浮遊しているようだった。
「あ、私、これから友達の家で夕食を食べる約束をしているの。だから、私のぶんはいらないよ。お兄ちゃん、私がいないからってヘカテーさんを襲っちゃだめだよ?」
「何のことだ、それは」
「だから、友達の家にね」
「それは分かっている。俺が言ってるのは――」
「あ、もうこんな時間! 私、行かなくちゃ。じゃあね、お兄ちゃん」
「まて、梢!」
切れた携帯からは、つー、つー、という、ひどくまぬけな音が聞こえてくる。
おもわず允嗣は眉間にゆびをあてた。
もっとも、允嗣は刑事なのだから、むざむざ危ない橋を渡ることもないのだが。
「梢がどうかしたのかい?」
「いや、……梢は、友人の家で夕飯を食べてくるらしいから、いないと」
「そうか……。それは残念だ」
「まあ、いい。ついてこい。夕飯がふたり分なら、いつも通り作れるからな」
「ありがとう、允嗣」
湖のようにひとつしかない青い瞳。
そこには、なんの邪気もなかった。彼は彼女に背をむけて、くちびるをそっと結んだ。
家につくまで、ふたりはなにも話すことはなかった。
玄関につくまで、ただ通り過ぎる近隣の住人たちを、見送っただけだ。
「入れ」
「ああ。お邪魔するよ」
ドレスをかつげて家に入ると、彼女はそっと目を細める。なにかを見るように。
「きれいなままだね。とても、空気が清浄に澄んでいる」
「……」
「きみのご両親の愛情が満ちている。とても、きれいな家だ」
「……そうか」
「信じないかね?」
「いや」
眼鏡をおしあげて、シャツの上に着ていたうすいカーディガンを脱ぎ、ハンガーにかける。
信じられない、と思っていたのは以前のことだ。今は、自分の視野が狭かっただけなのだと知る。
「待っていろ。夕食を作ってくる」
「わたしも何かできることはないかな」
「ない。そもそもおまえ、料理できるのか?」
「料理などしたことはないねぇ。紅茶や緑茶をいれるくらいならできるが」
「なら大人しくすわっていろ。30分もあればできる」
そうか、とヘカテーはどこか寂しそうに肩をおとした。
その姿ははじめて見る様子で、允嗣はおもわず息をのんだ。彼女も、そんな表情をするのか、と。
「わかったよ。大人しくしていよう」
「そうしてくれ」
ソファに大人しく座り込んだ彼女は、中庭につづく窓をみつめ、そのままくちびるを開くことはなかった。
キッチンに入り、冷蔵庫のなかを確認する。
たしか、棚のなかにはトマト缶もあったはずだ。
今日はハッシュドビーフにしようと、壁にかかっていたエプロンを身につけた。
のこされたヘカテーは、そっと窓のそとを見上げる。
すこし、曇ってきたようだ。台風のおおい季節がやってくる。
膝のうえにおいた白い手を、知らず知らずのうちに握りしめていた。




