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「あ……!」
それに驚いた結は、口もとを手でおおって、ちいさく叫んだ。
「この蝶は、悪意に反応する。なるほど、まだきみに対して悪意にも似た感情をいだいているらしい」
「悪意……」
「ヘカテー、どういうことだ?」
ドレスのすそをつまんでふたたび椅子にすわったヘカテーは、隻眼の瞳を結にむけて、ふたたびくちびるを開いた。
真っ青な海のような瞳で。
「まだ、生きているのさ。そのろくでもない男は。かの黒曜石のような魂を持つ青年――大神永劫のご母堂のように、魂だけの存在として。わたしには見える。その悪意ある魂が」
「……ど、どうすれば……」
結はふるえる声をしぼりだすように胸に手をおいて、血の気の引いた表情で問うた。
しばし考える。
たしかに、その悪意のみを食うこともできる。
だが、やはり――あまり美味くはなさそうだ。できるならば、食いたくはない。
「おまえならば、どうにかしてくれるだろうと頼ってしまった」
「先輩?」
允嗣がことばを紡いだ意味を、ヘカテーは知った。沈んだ表情の允嗣を、ふしぎそうに見つめる結。彼女はしらないのだろう。允嗣の決意を。
「すまない」
「いいさ、允嗣。ひとの世界だけでは解決できないこともある」
彼は、魔女の力を否定した。
しかし、頼ってしまうしかない事実にひどく傷ついているのだろう。
「しかし……」
「わたしは気にしていない。しかしまた、まずそうな魂だね」
机に影ができる。やっとコーヒーが運ばれてきたようだ。ひとつひとつ、カップとソーサーを置かれて、店員はふたたびカウンターに帰って行く。
「ヘカテーさんは一体……」
「おや、聞いていなかったかい? わたしは魔女だ。だがまあ、それは些細なことさ。信じても信じなくともいい。結果から言おう。きみに憑いている愚か者の魂を、ああ――“目”と言ったほうがいいかな。その目を取り除くことはできる」
「ほ、ほんとうですか!」
結はどこに驚いていいのか分からない表情をしているが、「魔女」という存在をとりあえず置いておいて、とりのぞくことができることを信じたようだ。
「ああ、ほんとうだ。しかし、残念ながらわたしは好き嫌いがはげしくてね……。あまり対処したくないんだ。だが、安心したまえ。それ専門の人間がいる」
「人間……?」
「ああ。わたしの古い友人でね。名を禮という。林の奥深くにすんでいる、巫女だ」
「……急にうさんくさくなったな」
「何を言う、允嗣。彼女の力はほんものだ。安心していい」
ヘカテーは胃を心配しながら、ブレンドコーヒーをひとくち飲んだ。
わずかに呆然としている人間ふたりをおいて、金鵄に目配せをする。
「金鵄。コーヒーを飲んだら、ひとっ飛び行ってきてくれないか。先に知らせておかなければね。まあ、もう知っているのかもしれないが」
「ええー。面倒くさいじゃないですかぁ……」
「文句言わない。禮のことだからきっと、うまい和菓子でも隠し持っているかもしれないよ」
「それなら喜んで」
やはり、金鵄は食い物に目がないらしい。
一気飲みするものではないコーヒーを酒のようにあおいで、外へ走り去っていった。当然のように、金は置いていかない。
「すまないね、現金な子で」
「い、いや……。それにしても、どうにかなるんだな?」
「ああ、それは保証する。それに、きみも魔女の力ではなくて人間の力に頼ったほうがいいだろう?」
「あ、ああ……まあ、そうだな」
どこか言いよどんでいる允嗣を不思議そうに見つめる結は、今きづいたようにコーヒーにくちびるをつけた。
ほっとため息をつく彼女はソーサーにカップを置く。
「それにしても、私、魔女にであうなんて、夢にも思いませんでした。おとぎ話のなかだけだと思っていたから」
「魔女は歴史の影。ハインリヒ・クラーマーが魔女の鉄槌なんて本を書くくらいだからね。そう思っていたほうが幸いだろう」
「魔女狩り、か」
「まあ、それもわたしが生まれるずっとまえのことだからね。実際のことは分からないよ。だが、おおくの子たちが残虐な殺されかたをしたという」
「……」
そっと白磁のカップにくちびるをつけて、息をつく。
実際、魔女狩りは魔女ではない女性たちもおおく殺されたという。しかし、魔女狩りによって狩られた魔女は、ヘカテーたちとおなじではない。名こそ「魔女」とつくものの、ヘカテーたち魔女とはまったく違う生物だ。
だがおなじ魔女の名をいただくもの同士、魔女狩りはとてもつらいことだった。
「さて、あまりゆっくりもしていられないだろう。結。きみの心に絡みついている目を一刻も早く取り除かねば」
「あ、ありがとうございます……」
カフェを出たのは、それから数分足らずのことだった。
外は秋の気配がする風がほおを撫でる。黒い絹のような髪がゆらりと揺れて、ヘカテーは空を見上げた。
遠く感じる空には、とんびが一羽ゆっくりと旋回している。
おそらく金鵄だろう。
ヘカテーはひとり頷いて、颯爽とカフェの扉から歩き出した。




