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カエルレウスの魔女  作者: イヲ
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-2-


「ヘカテーさま……」

「まあ、行ってみよう。ケリュネイアの様子もどこかおかしかった。それに、大天使じきじきにわたしをご指名とはね」

「そ、そんな! 絶対罠ですよ!」


 水晶の湖の上を靴音をたてて歩くヘカテーについてゆく金鵄は、やはりどこか怯えているようだ。

 それはそうだろう。今までの天使(アンゲルス)とは力の差が違う。

 しかし、とヘカテーはおもう。

 ケリュネイアのあの瞳。罠に嵌めようとしているような色をしてはいなかった。ケリュネイアはすでに魔女たちの敵になっている。だからこそ――嘘などつく必要はあるまい。


「金鵄。おまえはそこで待っておいで。もし罠だとしても、おまえを巻き添えにはしたくはないからね」

「いいえ!」


 鳶色の目を真摯に開いて、金鵄はかぶりを振った。

 恐ろしいのだろうか、手がわずかにふるえている。


「いいえ、ヘカテーさま。俺も参ります。俺は、ヘカテーさまの使い魔ですから」

「……そうか。分かった。では、行こうか」


 水晶の湖。

 透明な湶の上で、ヘカテーは道化師に息を吹きかけた。

 うつくしい鉱物が徐々に消えてゆく。消えて、そして――鐘の音が聞こえてくる。

 時を告げるべき時計台の鐘ではない、いやしいものが天の国にやってきたのだと、そう知らせている。

 金鵄は怯えるようにして、ヘカテーのうしろに控えていた。


 インディゴ・ブルーの爪先。道化師を握りしめて、「狭き門の扉」を見上げる。

 白い羽根。

 産毛のような、うつくしい羽根が天から舞い降りてきた。

 ヘカテーはそれを見もせずに、その扉に手をかけた。

 ぎい、と音をたてる。

 白い白い扉を開けると、そのむこうは白いだけの通路が広がっていた。


「一本道か。ご丁寧なことだね」


 白い壁には、見えない向こうまでステンドグラスが連なっている。しかし明るすぎるせいで、その色ガラスは反射せずに、ただただ立ちすくんでいるだけだった。

 聖人の姿が刻まれているステンドグラス。ふいにそこに目がとまった。


「……」


 ヘカテーが立ち止まり、その聖人であろう女の姿を見上げる。


「……これは……」

「どうしたんですか、ヘカテーさま」

「……」


 赤い紅をつけたくちびるが、そっと閉ざされた。

 目の前にある、ステンドグラスの聖人の女。見たことがある。ヘカテーの記憶の海にうもれていた、たったひとりの女――。名前はなんと言っただろう。


「サンタ・マリア――?」

「え? ヘカテーさま、知ってるんですか? この人」

「ああ、どこかで会ったんだ。どこだったかは忘れてしまったが」

「で、でも、一応、敵ですよね? こういう人たちって」

「いや――。まあ、確かにそうかもしれないが、おそらくこの人は違った、ような気がする」


 隻眼の瞳をそっととじる。

 右目がかすかに痛む。

 すでにうしなわれた右目。もう、なんの未練もない右目が、うずく。そこ(・・)にはもう何もないというのに。


「大丈夫ですか?」

「ああ、平気だよ。……行こうか」


 青い瞳のサンタ・マリア――。彼女は、その瞳に悲哀をうかべていた。涙をうかべて、一心にこうべを垂れている姿が、脳裏にうかぶ。

 そっと瞼をとじて、その光景を振り払った。


 どれほど歩いただろうか。

 襲ってくるような、野蛮な輩もいない。おそらく、ヘカテーがくることを事前から知らせておいたのだろう。

 ただただ、静かだ。

 耳鳴りがするほどに。


 目の前に、巨大な扉がある。

 白い、簡素で重厚な扉の取っ手に手を当て、思い切り押す。

 先刻のような音はたたず、ただただ静かだった。音さえしない。ヘカテーはくちびるを結んで、その先にいるであろうあの女と、大天使に対峙するべく、道化師を軋ませた。

 きい、と、何かの鳴き声のような音が聞こえる。


「ひっ!」


 金鵄のかすかな悲鳴。

 白い大理石の大部屋。奥にある豪奢な椅子に、ちいさな影があった。


「よくぞ参られた。魔女ヘカテー殿。そして、使い魔の金鵄殿」

大天使(ガブリエル)、と言ったか。いや、白百合の君(リリイ)と呼んだ方がいいかな」

「どちらでも結構。今日お呼び立てしたのは他でもない」

「わたしを救えると?」


 ちいさな影は、愉快そうに肩をふるわせた。

 男でも女でもない声は、どこか不気味にも聞こえる。


「そうかもしれないな。しかし、魔女という生き物はちがう。もとから救えるなどと思ってはいまい。この私も、きみも」

「どういうつもりだ。リリイ」


 歯が軋む。

 馬鹿にされた、とは思わぬ。

 ただ、ケリュネイアと言っていることが違うということだ。


「魔女とわれわれは敵同士。それは脈々と続いてきたことだ。人間の命のようにね」

「……」

「そう警戒するな。私はヘカテー殿と戦うことなど、これっぽっちも思ってはいない」

「信じろとでもいうのか?」

「私には、ことばしか許されていない」


 ちいさな影が、ゆっくりと床に足をつける。

 まるで、10歳前後の子どもだ。

 ゆっくりと近づいてくる。金色の髪、そしてヘカテーよりもすこしうすいサファイアのような瞳を持つ大天使は、どこか沈んだ表情をしている。

 うしろに控えている金鵄は、敵意をむきだしにして今にも飛びかかりそうだ。


「おやめ、金鵄。どういうことだ、リリイ。おまえは大天使、われらは魔女だ。相容れることはできないと、おまえも言ったはずだが」

「そうだ。ヘカテー殿の言うように、われらは敵同士。しかし、もう――やめにしようというのだ」

「なんだと?」

「私はもう疲れた。戦うことにも、救うことにも。ヘカテー殿。貴殿もそう思わないか」

「……なるほど。休戦と言うことかね」


 嘘ではないだろう。

 大天使ほどのものが嘘をつくということはない。ほかの大天使のことは知らないが、この大天使――白百合(リリイ)は、「本当に」そう思っているらしい。


「ヘカテーさま……本当にこんな奴のことを信じるんですか?」

「信じるか否かはまだ分からないさ。ただ、嘘はついていないように見える。金鵄」

「は、はい?」

「おまえはどう思う?」

「え? ええっと……。戦わなくて良いのは楽ですけど、でも……」

「そうだね。それは真理だ。リリイ。わたしもそうはおもっている。しかし、ほかの大天使どもが黙ってはいまい」


 大天使はうっそうとした森のように、暗い表情をして――そして、くちびるを開いた。

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