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「ヘカテーさま……」
「まあ、行ってみよう。ケリュネイアの様子もどこかおかしかった。それに、大天使じきじきにわたしをご指名とはね」
「そ、そんな! 絶対罠ですよ!」
水晶の湖の上を靴音をたてて歩くヘカテーについてゆく金鵄は、やはりどこか怯えているようだ。
それはそうだろう。今までの天使とは力の差が違う。
しかし、とヘカテーはおもう。
ケリュネイアのあの瞳。罠に嵌めようとしているような色をしてはいなかった。ケリュネイアはすでに魔女たちの敵になっている。だからこそ――嘘などつく必要はあるまい。
「金鵄。おまえはそこで待っておいで。もし罠だとしても、おまえを巻き添えにはしたくはないからね」
「いいえ!」
鳶色の目を真摯に開いて、金鵄はかぶりを振った。
恐ろしいのだろうか、手がわずかにふるえている。
「いいえ、ヘカテーさま。俺も参ります。俺は、ヘカテーさまの使い魔ですから」
「……そうか。分かった。では、行こうか」
水晶の湖。
透明な湶の上で、ヘカテーは道化師に息を吹きかけた。
うつくしい鉱物が徐々に消えてゆく。消えて、そして――鐘の音が聞こえてくる。
時を告げるべき時計台の鐘ではない、いやしいものが天の国にやってきたのだと、そう知らせている。
金鵄は怯えるようにして、ヘカテーのうしろに控えていた。
インディゴ・ブルーの爪先。道化師を握りしめて、「狭き門の扉」を見上げる。
白い羽根。
産毛のような、うつくしい羽根が天から舞い降りてきた。
ヘカテーはそれを見もせずに、その扉に手をかけた。
ぎい、と音をたてる。
白い白い扉を開けると、そのむこうは白いだけの通路が広がっていた。
「一本道か。ご丁寧なことだね」
白い壁には、見えない向こうまでステンドグラスが連なっている。しかし明るすぎるせいで、その色ガラスは反射せずに、ただただ立ちすくんでいるだけだった。
聖人の姿が刻まれているステンドグラス。ふいにそこに目がとまった。
「……」
ヘカテーが立ち止まり、その聖人であろう女の姿を見上げる。
「……これは……」
「どうしたんですか、ヘカテーさま」
「……」
赤い紅をつけたくちびるが、そっと閉ざされた。
目の前にある、ステンドグラスの聖人の女。見たことがある。ヘカテーの記憶の海にうもれていた、たったひとりの女――。名前はなんと言っただろう。
「サンタ・マリア――?」
「え? ヘカテーさま、知ってるんですか? この人」
「ああ、どこかで会ったんだ。どこだったかは忘れてしまったが」
「で、でも、一応、敵ですよね? こういう人たちって」
「いや――。まあ、確かにそうかもしれないが、おそらくこの人は違った、ような気がする」
隻眼の瞳をそっととじる。
右目がかすかに痛む。
すでにうしなわれた右目。もう、なんの未練もない右目が、うずく。そこにはもう何もないというのに。
「大丈夫ですか?」
「ああ、平気だよ。……行こうか」
青い瞳のサンタ・マリア――。彼女は、その瞳に悲哀をうかべていた。涙をうかべて、一心にこうべを垂れている姿が、脳裏にうかぶ。
そっと瞼をとじて、その光景を振り払った。
どれほど歩いただろうか。
襲ってくるような、野蛮な輩もいない。おそらく、ヘカテーがくることを事前から知らせておいたのだろう。
ただただ、静かだ。
耳鳴りがするほどに。
目の前に、巨大な扉がある。
白い、簡素で重厚な扉の取っ手に手を当て、思い切り押す。
先刻のような音はたたず、ただただ静かだった。音さえしない。ヘカテーはくちびるを結んで、その先にいるであろうあの女と、大天使に対峙するべく、道化師を軋ませた。
きい、と、何かの鳴き声のような音が聞こえる。
「ひっ!」
金鵄のかすかな悲鳴。
白い大理石の大部屋。奥にある豪奢な椅子に、ちいさな影があった。
「よくぞ参られた。魔女ヘカテー殿。そして、使い魔の金鵄殿」
「大天使、と言ったか。いや、白百合の君と呼んだ方がいいかな」
「どちらでも結構。今日お呼び立てしたのは他でもない」
「わたしを救えると?」
ちいさな影は、愉快そうに肩をふるわせた。
男でも女でもない声は、どこか不気味にも聞こえる。
「そうかもしれないな。しかし、魔女という生き物はちがう。もとから救えるなどと思ってはいまい。この私も、きみも」
「どういうつもりだ。リリイ」
歯が軋む。
馬鹿にされた、とは思わぬ。
ただ、ケリュネイアと言っていることが違うということだ。
「魔女とわれわれは敵同士。それは脈々と続いてきたことだ。人間の命のようにね」
「……」
「そう警戒するな。私はヘカテー殿と戦うことなど、これっぽっちも思ってはいない」
「信じろとでもいうのか?」
「私には、ことばしか許されていない」
ちいさな影が、ゆっくりと床に足をつける。
まるで、10歳前後の子どもだ。
ゆっくりと近づいてくる。金色の髪、そしてヘカテーよりもすこしうすいサファイアのような瞳を持つ大天使は、どこか沈んだ表情をしている。
うしろに控えている金鵄は、敵意をむきだしにして今にも飛びかかりそうだ。
「おやめ、金鵄。どういうことだ、リリイ。おまえは大天使、われらは魔女だ。相容れることはできないと、おまえも言ったはずだが」
「そうだ。ヘカテー殿の言うように、われらは敵同士。しかし、もう――やめにしようというのだ」
「なんだと?」
「私はもう疲れた。戦うことにも、救うことにも。ヘカテー殿。貴殿もそう思わないか」
「……なるほど。休戦と言うことかね」
嘘ではないだろう。
大天使ほどのものが嘘をつくということはない。ほかの大天使のことは知らないが、この大天使――白百合は、「本当に」そう思っているらしい。
「ヘカテーさま……本当にこんな奴のことを信じるんですか?」
「信じるか否かはまだ分からないさ。ただ、嘘はついていないように見える。金鵄」
「は、はい?」
「おまえはどう思う?」
「え? ええっと……。戦わなくて良いのは楽ですけど、でも……」
「そうだね。それは真理だ。リリイ。わたしもそうはおもっている。しかし、ほかの大天使どもが黙ってはいまい」
大天使はうっそうとした森のように、暗い表情をして――そして、くちびるを開いた。




