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ケリュネイア。
朝焼けの魔女。いや――もう、今は魔女ではない。魔女にうまれ、魔女ならざる性質を持った、特異な生物だ。
うつくしい金色の髪を風にゆらせながら、うっとりと目の前の存在を見上げた。白い光のなかにいるのは、大天使。
光のなかにいる大天使は、顔や姿はまったく見えない。
それでもケリュネイアは、手を組んで、目を閉じた。
「ケリュネイア。健勝なる魔女の子。おまえにひとつ、頼みがある」
「なんなりと」
「ヘカテー、と言ったか。その魔女をここにつれてくるのだ」
「……え?」
「あの魔女は、まだ救える。われら崇高なる目的のため、あの魔女の力が必要なのかもしれぬ」
「で、ですがあの魔女……ヘカテーは……」
光のなかの大天使は、かぶりを振るしぐさをして、「命令だ」とケリュネイアに突きつけた。
彼女の指は屈辱にふるえ、歯をぐっときしませる。
それでも、大天使はケリュネイアにとって絶対だった。殺したいほどに憎むヘカテーを生きながらにして連れてこいという大天使を憎む気持ちは、みじんもない。ただ、彼女の胸のうちにあるものは、疑問と、ヘカテーに対する憎しみと妬みだった。
ケリュネイアはこうべを垂れ、大天使や天使たちが住む、「天国」から去って行った。
「金鵄? どうしたんだ」
夏、いつか買った風鈴をじっと見つめている金鵄は、それから窓のそとに広がる空を見上げた。
夏の空は広く、青く白い。
「……空が広いですね」
「恋しいかね」
ソファーにすわっているヘカテーを見下ろし、かぶりを振る。
そういうことではない、と金鵄は思考した。
金鵄はヘカテーの使い魔になる以前、ふつうの鵄だった。自由に飛び回り、空に住んでいた金鵄は、時折空を見上げるような仕草をする。
「おまえが金鵄としてここにきたのは、ちょうどこんな季節だったね」
「そうですね。夏のことでした」
「戻りたいかね。ふつうの鵄だったころに」
「いえ。俺はヘカテーさまに仕えていた方が性に合っているので」
鳶色の髪の毛をゆらせて、金鵄はわらった。
そのことばは、虚言ではないだろう。
「そうか。ならばよかった」
「ヘカテーさま」
窓の外から目を離した金鵄は、神妙な顔つきでヘカテーを見下ろした。
うすい瞳の色をしている彼は、ローテーブルのむかいがわにあるソファーにすわり、俯いてみせた。
「ヘカテーさまは、今――」
「?」
「お幸せですか?」
「――どうしたんだ、金鵄」
あまりにも真剣に呟いたせいか、ヘカテーはおもわず眉をひそめる。
白いリネンのシャツを着た金鵄は、どこか不安定に瞳をゆらせていた。せわしなく指をからませたり、ほどいたりして、ヘカテーのこたえを待つようにくちびるを閉じている。
「わたしが幸福か否かか。どうだろうね。でも、不幸じゃないさ。おまえもいるし、友人と呼べる人間もいる」
「……そう、ですか」
「おまえは? おまえは、幸せかね」
「俺、ですか。俺も、不幸じゃありませんよ。かといって幸福かと言われれば、分かりません。でも、ヘカテーさまに仕えるようになってから、なんていうか――その、自己っていうものに迷うようになりました」
鳶色の髪の毛を日にあてながら、言いづらそうに呟いた。
赤ん坊のようにあまいにおいがしていた金鵄は、今や「自己」というものに目ざめ始めていると言うことか。
「それはおまえが最初からもっていたものだ。大事にしなければいけないよ。迷うことは悪いことではないのだからね」
「……はい」
「さて、今日は――」
ヘカテーがふいに口を開いたときのことだった。
あの魔女――ケリュネイアのにおいを金鵄が感じ取ったのは。
ソファーからはじけるように立ち上がった金鵄は、ヘカテーの前に躍りでて、威嚇するように喉をならせた。
「ケリュネイア、だと? こんな真っ昼間に?」
「ヘカテーさま。お下がりください。なにか――おかしい」
から、と音がする。
なにか、軽いものが転がったような音。
ヘカテーはその音に敏感に反応して、道化師に手を伸ばした、――その杖を床にかるくあてると、そこから波紋のように、透明にきらめく空間へと変化する。
床はクリスタルのように美しくで、氷のように冷たい空間は、ときおりどこからか、鳥の透明なさえずりが聞こえてくる。
その中心部に、ヘカテーと金鵄はいた。
むき出しの水晶のかたまりに、ヘリオトロープ色の蝶がとまっている。うつくしい場所だった。
そして、彼女が現れたのは数秒後。
マリア・ヴェールをかぶったケリュネイアは、くもった瞳をヘカテーへとむけ、くちびるを結んだまま正当な王を握りしめた。
「……ヘカテー。私が恨むべき、汚らわしい魔女」
「また、殺し合いにきたのかね。ケリュネイア」
「……」
ケリュネイアの瞳に、かすかな妬みの色が見える。なにかをうらやんでうらやんでたまらない、というような色が。
「おまえ。――ヘカテー。私の真なる主が呼んでいらっしゃる」
「真なる主? まさか」
金鵄の凍り付くようなことばのあと、ケリュネイアは暗い瞳をふせた。エメラルドのような瞳は、今や輝きはうせ、白い月の光を探す、迷い子のような色をしている。
「大天使がわたしを? なぜ」
「――知らないわ。生きて連れてくるようにも、言われている。おまえはまだ、救えるとも」
「救える――? 馬鹿なことを。われら魔女と天使は、敵対しているのだろう」
「だからこそよ」
ケリュネイアはそう重たく呟き、赤玉のような色をした石をつけた正当な王を振った。




