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死ぬということがどういうことなのか、魔女には分からない。
魔女は死ぬ、というよりも「いなくなる」といったほうがいい。魔女は死なない。ただ、そこから忽然といなくなるだけの存在だ。
「死んだら、そこでおわりだ。今まで積み重ねてきたものも、希望も、絶望も、すべての感情も、なかったことになる。それはおのれのなかのことだけだ。しかしほかのだれかのなかに居続けることもできる。思い出として、記憶として――または、憎しみとして」
「憎しみ……」
「憎しみは、感情のなかでも一番強い感情だ。だからこそ、残りやすいんだろう」
とっくに冷めてしまった紅茶を、永劫がそっと飲み込む。
読めない表情をしているのは、明宜だ。ただソファーにすわり、じっとしている彼の目は、湖よりも深いいろをしている。
魂の色やかたちも読めなければ、表情も読めない。
おそらく、この男は外側からくるすべての感情や思いを遮断してしまっているのだろう。だからこそ――わざわざ見えないようにしているのだ。傷つくことのないように。
傷つくことに慣れる人間はそうそういないのだから。
「……」
「おそらく、きみのご母堂の憎しみは消えないだろう。きみが死ぬまで」
「……分かっているつもりだったんですけど、やっぱり、辛いものですね」
実母に憎まれるということがどういうことなのか、ヘカテーにはわからない。
これからも分かることはないだろう。だからこそ、なにかを言うことはできない。支えることばも、なにもない。それはヘカテーの役目ではないからだ。
「永劫。きみは憎しみを背負って生きていかなくてはいけないのかもしれない。しかし、それを意識するかしないかはきみ次第だ。憎しみだけを意識して生きていくことは辛く険しく、死ぬよりもつらいことなのかもしれないだろうから」
「そう、ですね」
「まあ、わたしはあまり心配していないのだけどね――。きみには、きみを守ってくれる人がいるのだから。その人を、大切にしなければいけないよ。永劫」
彼はあいまいにうなずき、そっと明宜を見上げる。
その目はどこか、迷っているようにも見えたが、結局永劫がなにかを呟くことはなかった。
「……ごめんください」
玄関の方から、聞き慣れた声がする。
あの声は、レトだろう。珍しいこともあるものだ。レトはあまり、人間の領域に足を踏み込まないというのに。
「悪いね。客人がきてしまったようだ。すこし、席をはずすよ」
「ああ、はい」
どこかぎこちない様子でうなずいた永劫が気がかりだったが、レトの声がする方へむかう。
黒く澄んだ魂をもつ彼は孤独だが、ひとりではない。だから、おそらく――大丈夫だろう。たとえ心と魂が不安定にゆらいだとしても。
扉を開けると、黒いヴェールをかぶったレトが、神妙な顔つきで立っていた。
「レト。めずらしいね。こちらにくるなんて」
「ええ。ヘカテーさま。……」
「何かあったのかね?今、お客がきているんだ。悪いが――」
「そうでしたの? それは申し訳ないことをいたしました。……いえ。だからこそ、かしら」
銀色の髪の毛が太陽にかがやいているが、レトの表情はどこか暗い。ヘカテーはおもわず眉根をよせる。
伏せた瞳はなにかを思惟しているようだ。
「あの……もしかして、そのお客さまは……」
「ああ……。そういうことか。たしかに、われら魔女のごちそうとも言える魂をもつ青年はきているよ」
「やっぱり。ですが、ヘカテーさまの獲物でしたのね。ならば、わたくしは引きましょう」
どこか残念そうにため息をつく彼女は、こうべを垂れてこの風車小屋から去ろうとしたが、ヘカテーがそれを制す。
「レト。わたしは彼の魂を食わない」
「え?」
「かといって、おまえに譲ることもしない」
「どういうことですの?」
レトには分からないだろう。
目の前にごちそうがあるというのに、手をださないというわけが。
不思議そうに、純粋に「わからない」というような表情をしている。
「彼には大事な人がいる。そして、彼を思っている人もいるからさ。その彼を食って、残るのは負の感情だけだ」
「負の、感情……」
「怒りや憎しみ。そういったものだ。そういうものは、死んでも残る。われらとは違うからね」
「やはり、わたくしには人間のことは分かりませんわ。でも、ヘカテーさまがそう仰るのならそうなのでしょうね。ヘカテーさま。よろしければ、その彼、というかたにお会いしてもよろしいでしょうか?」
彼女は柔和の神の名を戴く魔女だ。永劫に会ったとたん襲う、などということはないだろう。
うなずき、客間へいざなう。
「どういうかたですの?」
「ああ――。とても、強い子だよ。見れば分かる」
客間へ続く扉を開け、レトが客間に現れた直後に、永劫のとなりにすわっていた明宜が警戒するように目をほそめた。
「いきなりで悪いね。彼女はわれらとおなじ、魔女だ」
「レト、と申します。そうですか、あなたが――」
「そう警戒せずとも、彼女は永劫を襲わないよ。魔女のなかでも理知的だからね」
レトは真っ白な髪をゆらし、首をかたむけて、そっとドレスの裾をもちあげた。
どうやら彼女は永劫に敬意を払っているようだ。
「その魂。ヘカテーさまの仰るとおりですわ。とても――黒く澄んで、おいしそう。でも、わたくしはあなたの魂を食らいません。そう約束をいたしましたから」