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「いいだろう」
ヘカテーはうなずき、まっすぐ永劫をみすえた。
魂の奥の奥まで透きとおった黒をしている。めったにない、ごちそうだ。
道化師に、ふっと息を吹きかける。青い宝石からぼんやりとした光がうまれ、蝶が空中を漂いはじめた。
光の鱗粉をまき散らしながら、永劫へとむかっている。
この蝶は人の悪意に弱く、すこしでも彼の心のなかに彼の母の悪意があれば、それに反応してしまう。
悪意は、ひとを狂わす。悪意をまた感染させ、メビウスの輪のように永遠とつながってゆくのだ。
蝶は永劫のまわりを舞い、やがて――電気がはじけたような音をたてて、蝶は消えた。
「……やはり、消えたか」
「あの、……どういうことですか?」
「きみのなかにはきみのご母堂の悪意がまだ、満ちている、ということだ」
ふいに、机の上に影ができる。金鵄がやっと、紅茶を持ってきたらしい。
こわばった顔のまま、机のうえに紅茶をみっつ置くと、すぐに去っていった。おそらく、金鵄は感じているのだろう。「ふつうの」目を持たない人間の感情を。魂の奥底を見ることはできないが、見えるわずかな魂でさえ、なにかに汚されている。怨嗟、怨念。そういう類いのものだ。彼は、ひとをころした。殺して、それを後悔せず、しかし悲哀を抱えているのだ。その矛盾を、金鵄は感じ取り、恐れているのだろう。
永劫の顔はこわばり、緊張しているようだった。
「苦しめているのか否か、だったね」
「ええ」
「はっきり言って、答えは是、だ。だがそれは分かっていた結果ではないのかね? 明宜」
「分かっていた。だからこそ、道を見いだそうとしたんだよ」
最初から知っていた。
悪意がひとを苦しめるなどと、まっとうな人間ならば分かっているはずだ。しかし明宜は、それを占うように請うた。
その意味は、その「先」を見るためだったのだろう。
「その悪意を、取り払うことはできるのか否か――。俺はそれが聞きたかった」
「珊瑚さん!?」
「きみの母親がきみを苦しめているのは知っている。野良神がきみのなかからいなくなっても、悪意はなくならない」
「結論から言おう。永劫。きみのなかの悪意を取り出すことは簡単だ」
ヘカテーら魔女は、魂を食用としているゆえに、魂のなかの悪意だけを食うこともできるようにはなっている。
あまり、美味そうではないが。
「……そうか。永劫くん」
「……」
永劫は自身の膝のあたりを見下ろし、何かを考えるように、ぐっと口をつぐんだ。
これは、彼が決めることだ。
誰かが口出しすることはできない。
明宜は道を作っただけで、あとは口を出すことはないのだろう。なにも言わずにいる。
「せっかくですけど、いいです。俺のせいで死んだ両親の悪意は、俺が受け止めなくちゃいけないとおもう、から」
「では、永劫。きみは苦しんで生きつづけてもいい、ということかね?」
「生きることは、苦しむことです。苦しまない人生なんてありません」
「そうか……。ひとの生は難しいものだね」
紅茶に口をつけ、そっと飲み込む。
果実とハーブをブレンドした紅茶は飲みやすく、果実のかおりがふわりと香った。
「永劫」
「……?」
紅茶を飲んだ永劫をまっすぐ見つめ、その名を呼ぶ。
「きみは、強い子だ。とてもね。冬のあの日よりも、さらに強くなった。それは、とても誇っていいことだよ」
「……そうでしょうか」
あの冬の日、たしかに彼の魂の奥は黒く澄み渡っていた。純粋な、黒色をしていたのだ。しかし、今見るとその魂はもっともっと研ぎ澄まされ、ほかの魔女が見たなら有無を言わずに食うだろう。
だからこそ――あの女には見つかってはほしくない。その心配はないだろうけれど。
彼のこころのなかには野良神が住みついている。力が弱っているとはいえ、魔女にとって野良神はまったく理解できない代物だ。
それを好んで食らう物好きの魔女もいるだろうが。
「きみの魂を見れば分かる。澄んだ黒をしているからね」
「黒、ですか」
「そう。われら魔女のごちそうは、黒く澄んだ、黒曜石のような魂。きみの魂はまさにそれだ」
――しかし、分からないのはこの明宜という男だ。
魂の奥底がまったく見えない。ただ、全体像は見える。彼の魂は、まるでオパールのように見る角度によって色を変え、そしてかたちを変えているのだ。時折いる。そういう魂を持つものが。過去にふかい傷をおい、その傷口を乾かすことさえできず、さらに自傷するように傷をえぐってきたのだろう。
その生きかたは、幸福ではなかったはずだ。
「まあ、安心したまえ。きみには大切なひとがいるし、きみを大事におもっているひとがいる。そうだろう?」
「え、ええっと」
「だから、わたしはきみを食わない。食ってはいけない。きみの魂を食ってしまったら、憎しみと悲しみしか残らない。憎しみと悲しみは、永遠に続くものだ。それは、幸福なことではないからね」
「永遠に、つづく……」
「そうだ。きみのご母堂の魂は、憎しみと怒り、そして悲しみに染まっている。それは永遠だ。自分自身で飲み込むには、苦すぎる――」
目の前の青年は、どこか悲しげに目を伏せた。
この子はやさしい子だ。ひとの痛みを、分かろうとしてしまう。
「もう、ずっと……母は解放されないのでしょうか。憎しみと、悲しみから」
「そうかもしれない。死んだものは、時が止まっている。忘れることも、飲み込むこともできないからね」




