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「君はわかっているのだろう?ほんとうはそれではいけないということを。わたしたちが喰らうものはね、金木犀の花のようなものだ。甘いかおりがするものなのさ。だけど、君はちがう。君は薔薇のかおりがする。棘のある、薔薇のかおりがね」
咲子は呆然とヘカテーを見上げ、あるいは睨みつけ、膝のうえにおいてあるこぶしを握りしめた。
しらずしらず、その手が震えてしまう。
どうして。
どうして、喰らってくれないの。
ヘカテーは穏やかにわらっているだけだ。
「どうして……。私、こんなに苦しんでいるのに……。どうしてわかってくれないんですか!?」
「自分の気持ちは自分にしかわからない。孤独なのさ。わたしも、君も。だけど、それを嘆くようなみじめなおもいを抱えながらも、生きなければいけない。それが生きるという事だ。生きるということは苦しむということ。苦しみが伴わない人生は、生きているとは言えまいよ」
「苦しみだけしかないというのに?」
辛い。
それだけではヘカテーに喰らってはもらえない。
じゃあどうすればいいの、と咲子はつぶやく。
「そうだねぇ。こういうのはどうだね」
先刻彼女が道化師と呼んだ杖をかかげ、ふっ、と息をふきかけた。
直後、この小屋――薄いミントグリーンに包まれた部屋が、夜空のように色彩をかえる。
まるでプラネタリウムのように変化したこの部屋は、まるで重力というものさえなくなってしまっているような、不思議な感覚をおぼえた。
「な、なに……?」
夜空色のローブ・モンタントを着たヘカテーはぬれて光る青いひとつの目を細める。
おろおろとしている咲子は、なにもできはしない。
「これは、なんだとおもう?」
「え……よ、夜空……ですか?」
「ちがう。これは星でも月でもない。これは、深淵……。宇宙じゃない。これは人の心のなか。わたしが喰らった人々の心たち。わたしが選んだものたちの心はこれほどまでに深く、暗く、静寂にみちている。そしてなによりうつくしくて、甘いかおりがする」
咲子はまわりの空気をかいでみたが、なんのかおりもしなかった。
ただ、ちらちらと星のようにかがやく心があるだけだ。
そして、まわりをとりかこむ闇。
この闇はきっと、ヘカテーそのもの。
喰らった哀れな心を包み込む、母性。
「このなかに入るには、君はまだ若いし、心が輝いている。わたしが喰らうのは、黒曜石のように黒い、深淵のような心なのさ。君の心はまだ輝きにみちている。希望をまだ信じられる。そうだろう。心をなくすには、まだまだ惜しい」
「かがやい、てる?」
「そうさ」
彼女が杖を軽くとん、と鳴らすと、夜空のような心が消え去り、薄いミントグリーンの壁色がめにはいった。
ヘカテーは青い目をほそめて、咲子にわらいかける。
「そうだねぇ。それでも不安におもうのなら、どれ、お守りをやろう」
そう呟くと、チェストの引き出しから古びたコインを取り出すと、親指で天井に向けてはじいた。
明るい部屋のなかにきらきらと流れ星のように尾を引いて、ふたたび彼女の手のなかにすいこまれてゆく。
「裏か表か?」
「じゃあ、裏、で……」
彼女がてのひらを見せると、そこにはコインなどではなく、真っ赤な紅玉だった。血のように赤く、まさにピジョン・ブラッドの名に恥じない宝石がてのなかにある。
「ルビーはバイタリティーに富む。君に今必要なのは、これだろう」
彼女は咲子にむかってその小指大のルビーをほうりなげると、あわてて受けとった。
てのひらのなかできらきらと輝くそれは、見たこともないくらいにうつくしい。
「きれい……」
「そう、それだよ」
道化師をこちらにむけると、ヘカテーは、にっとわらった。
「美しいものは美しい。汚いものは汚い。そう思うことこそが魂がまだ輝いているという事実。その気持ちを大事にしなさい。それをあげるから、お守りにするといい」
「えっ、でも、こんな、高価なもの……。私、そんなにお金持ってないし……」
「金などいらないさ。だが、こちらもボランティアでやっているわけではない。そうだねぇ……。君のまわりで不可解な出来事がないかい?今はなくともいい。もしあれば、知らせておくれ」
咲子はこわれた人形のように頷いてみせると、ヘカテーはゆっくりと椅子にすわった。
「あいつの悪事はいつもわたしの邪魔をする。邪魔をされるまえに出た芽を摘んでおきたいからね」
「え……?」
「いや、なんでもない。相談ならいつでものるよ。今日はもう帰るといい。もしほんとうにだめだったら、わたしが食ってやるから」
ヘカテーは、まるで母親のようにわらい、帰るようにうながす。
胸の、心のほころびがほつれていくような気がした。
するすると、きれいに。
もしかすると、すこしだけすっきりしたのかもしれない。
(私はまだ、生きている……。苦しくても、それが人の生。このおまもりがあれば、すこしだけ勇気がわいてくるきがする……。)
咲子は胸に宝石を抱いて、大きく頭をさげた。