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「礼?」
不審そうに尋ねる男に、允嗣は「何でもない」と電話口で呟いた。金鵄も特別突き詰めることもなく、何も言うことはない。
「――そういうことだ。これから一週間はヘカテーさまはいらっしゃらないからな。おまえもこちらに来ることもないだろう」
「……そうかもしれないが――まあ、いい。では、これで失礼する」
さきにこちらから受話器を置く。
背後には梢がいて、どこか不安そうな表情をしていた。おそらく、聞こえていたのだろう。
「ヘカテーさん、どうしたの?」
「倒れたそうだ。魔女にはよくあることらしいが」
「倒れた……!? そんな、どうして?」
黒い髪の毛が大げさにゆらりとゆれる。
しかし、何故倒れたのかは允嗣にもわからない。かぶりを振り、電話がある廊下から立ち去る。
冷静を装ってはいるが、允嗣の心のなかはひどく、もやもやとしたものが現れはじめていた。
何が、なのかがわからない。
「お兄ちゃん。ヘカテーさんは大丈夫なの?」
「たぶんな。金鵄は、魔女によくあることだと言っていた」
「そうなの? でも、心配ね」
眉を寄せた梢は、リビングに行くと淹れてあった紅茶に口をつける。
心配かと問われれば心配だ。だが、それ以上に――なにか、とても険しい「なにか」が胸のなかを犯している。
ソファーにすわり、テレビをつけていても何も頭に入ってはこない。
「ねえ、お兄ちゃん」
「なんだ」
「ヘカテーさんのこと、心配?」
「それは――そうだろう」
「お兄ちゃんって、結構変わったよね。今はもう、ヘカテーさんとお話しするの、別になんともないでしょ?」
「……そうかもしれないな」
今はもう、否定することはない。
ヘカテーは自分よりも数倍長く生きているが、そこには何もない。なんの溝もなかった。あまりにも――ふつうだった。
「次のお休みって、いつだっけ」
「5日後だが」
「だったら、お見舞い行ったらどう? 金鵄さんもきっと、喜ぶと思うなぁ」
「それはないだろう」
允嗣が行って金鵄が喜ぶとは思えないが、見舞いに行くくらいならいいのかもしれない。曖昧に返事をすると、満足そうにわらった。
とはいえ「来ることもないだろう」と言っていた金鵄に会うのはいささか気にくわない。
ここで行く行かないの押し問答を自分のなかで行っていても、何の意味もない。
「じゃあ、お兄ちゃん。私そろそろ寝るね」
「ああ」
そういえば、もうそんな時間か。時計を見るとすでに10時を差していた。梢がリビングから消え、ひとりになった允嗣はぼんやりとテレビを見つめた。
しかし、やはり頭の中に、内容が入ってこない。
特別すきな番組でもないから、別段構わないのだが。
それにしても、何故だろうか――「何となく」今は眠りたくはなかった。
宇宙におちてゆくように、ヘカテーはひとり、明るい場所にただただ、立っていた。
砂漠――。
温度差もなにもない、夜が訪れない砂漠だ。
ときおり、美しく輝くルビーのようなざくろが落ちている。ヘカテーはそれをかすかに見下ろし、すぐに前をむいた。
ここには、ヘカテー以外の生命はどこにもいない。
ただ、後悔や悲しみなど負の感情しか持たないあわれな魂たちがいる。その感情に飲まれてしまうような魔女もいるが、ヘカテーはそれほど力の弱い魔女ではない。
「哀れだね。みずから差し出したというのに、今更後悔するなんて」
人間は自分勝手だと吐き捨てるのは簡単だろう。しかし、彼女はそうしない。ただ哀れみ、受け入れる。ただ、それだけだ。
絹糸のような黒い髪が風にのってゆれる。こめかみに差した青い薔薇に手をふれ、そっと息を吐き出した。
弱いこころは、強いこころにあこがれ、そして――妬む。
そうしたこころは、やがて卑屈におぼれ、やがてこころを失うのだ。そういう意味ではこのなかにいる「こころたち」は、魔女たちの「ほんとうのごちそう」ではなかったのかもしれない。
黒曜石のように輝くこころは、後悔しない。妬むことも、うらやむことも、あこがれることもない。何故なら、「おのれの真実」にたどり着いたからだ。
あの少年、大神永劫のように、本当の「こころ」の真実に触れたものならば、他人と自分を比べることはしないのだから。
「それでもわたしはきみたちを受け入れよう。わたしはきみたちを愚かだとは言わない。ひとは、後悔する生き物だからね――」
ヒールが低い、黒い靴を砂漠にうめる。
ただただ、進む。出入り口もないこの砂漠のなかを。ここには太陽も、雲もない。ただ青い空が続いているだけだ。光はどこから差してくるのかは、ヘカテーにはわからない。
「喰らったのは、わたしだ。きみたちがわたしを憎むのは良いだろう。わたしもそれを受け入れる。しかし、わたしは受け入れることしかできない。後悔をしても、辛くても、きみたちはもう、最初には戻れない」
ひとり、ささやき続ける。
その声に応えるものなど、どこにもいない。
しかし、時折「なにか」に反射し、ざくろがヘカテーの声に共鳴するように輝くだけだ。
そんな寂しい場所を、ヘカテーはただひとり、歩き続けた。