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粉雪に音がないように、その言葉にはこたえない。
「どうする、か。どうしようかね。わたしは――」
「謎かけはなしだ」
強い口調で、允嗣はつぶやく。
ソーサーの上に残った角砂糖。
それを見つめ、彼はヘカテーの名を呼んだ。
「………」
眼鏡の奥の、透き通るような瞳が、ヘカテーを見据える。その目は真摯で、しかしヘカテーがくちびるに言葉をのせることは許さないと言っていた。
「それは、きみの思い違いだ」
「どうして言い切れる」
「きみは、わたしを置いていく。それを、分かっていないわけではあるまい。允嗣。わたしは、魔女だ。魔女と人間はちがう。ちがう生物なんだよ」
「かまわない」
ヘカテーの、残された瑠璃色の右目が見開かれる。そのことばは、だめだ。
聞いてはならない。
「だめだよ。允嗣。わたしは――」
「かまわない、と言っているだろう。それに、おまえが言うそれは、おまえたちの概念の話だろう。俺が聞きたいのは、ヘカテー。おまえのことばだ」
おまえの、ことば。
ヘカテーは人間の、それも90以上も年の離れた男性に、驚かされる。
ヘカテーは、ヘカテー自身のことばをつむがない。彼女自身のことばを話すには、ひどく――勇気がいる。
いつだって、一歩引いて見つめていた。
人間たちのことを。人間たちが生命をつなぎ続ける姿を。
そして、いつの間にかこう思っていた。
「人間にうまれていたら」と。
けっして叶わぬ、ねがいだ。願うことこそが、罪だ。
魔女に、恵雨はない。
神の怨敵である、魔女には。
ゆるされてはならない。
「わたしの、ことば、か」
からになった白磁のコーヒーカップの中身は、うすくヘカテーの顔をうつしていた。
どことなく、情けない瞳をしている。
「難しいね。きみのいうことばは。わたしは魔法がつかえるのに、そのことばには、効かない」
「はぐらかすな」
「そうだね。きみは真摯だ。だから、わたしも真摯に答えねばならないだろう」
それが人間で言う「まこと」ということだ。
瑠璃のマニキュアをした爪が、海の色のようにゆらめく。否、それは実際、マニキュアではない。魔女たちが身につける、魔力のひとつだ。
その色が、ゆるやかに消えてゆく。
「これでわたしは今、魔女の力など、どこにもない――。姿形だけだが、ただの女だ」
「………」
「今日は道化師も持っては来なかった。だから、こころと生命以外では、今、ほんとうにただの女だ。 残った魔力も今、封じ込めた。わたしのこころのうちがわにね」
魔女ではないヘカテーは、ヘカテーではない。
魔女ではなかったら、允嗣にも出会えていなかっただろう。
「魔力を隠すことなど、最近していなかった。まあ、魔力を隠すことは、女性が男性の目の前で裸になることと同意だからね」
「な……っ!!」
「正直言うと、とても恥ずかしい。だから、さっさと言ってくれ。言いたいことがあるんだろう? 返事はそれからだ」
黒く、つめたい色をしたヘカテーの髪の毛が、かすかにゆれる。
「……俺は」
かたん、と音がする。
顔を伏せていた允嗣が、その音でふいに顔を上げた。
雪でゆれる、窓の音だった。まだ、雪が降っている。
「おそらく今、ひどく気が動転している。だから、おまえが言うように、真摯かどうかは分からない」
「ああ。かまわないよ」
ジャズの音と、かすかな窓がふるえる音が聞こえ、ヘカテーはそっとまたたきをした。
うしなわれた左目が、かすかに熱をもつ。
ぽっかりと穴があいているだけのくぼみ。静かで、つめたい色をしている允嗣の瞳は、そのあったはずの左目と、右目を、滔々と見つめている。
「俺は、おまえを守りたいと思う。だが、まだ――分からない。これが一体、どういうものなのか。だから、もうすこし、時間がほしい、と思う」
「そうだね。それがいちばんいい。わたしには、いやというほど時間があるからね。待っているよ――。いずれ、きみのなかにある想いに、名前がつく日のことを」
窓を見上げると、雪はもう、音をたてていなかった。
降ってはいるが粉雪のようで、手のひらにのせると、すぐにとけてしまうだろう。
允嗣は椅子から立ち上がり、マスターにお金を払っている。
「きみには奢ってもらってばかりだね」
カフェから出て、允嗣にわらいかけるが、彼は素知らぬふりをした。
黒いエナメルの編み上げブーツを、しっかりと雪の上へと踏みしめ、せめて転ばないようにする。
「雪はきれいだね。羽根のようだ。でも、わたしには似合わない。魔女だからね。でも――あの女、ケリュネイアは、この雪のようにうつくしい羽根を欲している。愚かだとはおもうが、馬鹿だとは思わないね」
「……ケリュネイア? あの、金髪の魔女か?」
「そうだ。ひとはうつくしいものに惹かれるが、魔女もそうだ。うつくしい、きれいなものに惹かれてしまう。でも、それと『そうあるべき姿』とはちがうんだ」
魔女は、歴史の闇に葬られてきた。そしてそれは、そうであるべきだと、ヘカテーはおもっている。
ひとの世は、ひとの力で作り上げねばならない。
魔女の力など、ほんとうは必要などないのだ。
「だが――わたしには時折、まぶしく見えるよ。きみたち人間がね」
彼女の指にはすでに、ペルシャン・ブルーのマニキュアが彩られていた。青い魔力のかたまりは、やはりないと落ち着かない。
允嗣とは、林の入り口で別れた。
雪はもうやんだようだが、いまだ空は薄曇りになっている。
彼女は、ただ歩く。
允嗣のことを考えながら。




