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ひとは、後悔をして生きていく動物だ。
ヘカテーの言うように、後悔のないように生きられたら、それは理想だろう。
しかし、後悔しないで生きることはおそらく不可能だ。
「無理なことを言う」
「そうかね?」
「ああ」
清掃員が入ってきたころを見計らって、允嗣は席を立った。ヘカテーも彼に続き、立ち上がる。映画館は平日だからだろう、それほど混み合ってはいない。
しかし、自動ドアのむこうはひどく白く、吹雪いていた。映画館の軒下には寒そうに雪をしのいでいる人間がいる。
「すごい雪だ。傘を持ってくれば良かったね」
「こんな吹雪じゃ、傘など無意味だろう」
たしかに、これほどの吹雪ならば、傘など逆にいらないのかもしれない。
「……映画館にいてもしかたがない。すぐ近くに喫茶店がある。そこですこし休むぞ」
「そうだね。そうしよう」
この吹雪がいつやんでくれるのかはヘカテーにも分からない。すぐにやんでくれると良いのだが。
映画館を出ると、やはりひどい雪がヘカテーの白いほおへとぶつけるように吹雪いている。おもわず青い薔薇の髪飾りを押さえ、目を閉じた。
「ひどい雪だね」
「これだけひどいんだ。これ以上ひどくなることはないだろう」
ブーツを履いてきてよかったかもしれない。
地面をゆっくりと踏みしめる。滑って転ぶなど、したくはない。目の前が白んでしまうくらいの吹雪で、目を開けていられないくらいだ。
120年ほど生きてきたヘカテーでも、これほどの吹雪はあまり見たことがない。
映画館を出て、5分ほど歩いただろうか。街角のちいさな喫茶店が見え、允嗣がドアを引くと、ちりん、とちいさな鈴の音が響いた。
「いらっしゃいませ」
壮年の男性がにこりとほほえんだ。アンティークもののランプや蓄音機が置いてあり、この部屋そのものがどこか、ずっしりとした雰囲気がある。
いちばん奥の席にすわると、そっと允嗣は息を吐き出した。窓がガタガタと鳴り、まだ雪はおさまりそうにない。
「ホットコーヒーふたつ」
「かしこまりました」
彼は何気なく注文したが、内心ヘカテーは胃が心配だった。コーヒー1杯くらいでどうということはないだろうが、この吹雪だ。2杯くらいは頼むかもしれない。
コートを脱ぎ、背もたれにかける。
「ここはきみの行きつけかね?」
「――ときどき来るだけだ。ここは静かで、落ち着くからな」
「そうか。そうだね」
低い音で、ジャズが流れている。
バリトンにも似た静かな音に、ヘカテーはそっと耳をかたむけた。
曲名は分からない。しかし、彼女とおなじほどに年をかさねてきたであろうその音。
コーラスのない音楽は、永遠にも似た時を生きる。受け継ぐ人間がいるかぎり。そう考えれば、魔女たちはそういうものとともにいるのだ。
魔女の命と命を受け継ぎ、そしてまた、アリアドネのような魔女が生まれる。
無限の軌跡を綴るその古い歴史も、おそらく――ひとつではない。たくさんの時間と時間が茨のように絡み合い、やがてそれがひとつになり、再び分かれてゆくのだ。
「こういう場所にはあまり来たことがなくてね」
「……梢に聞いたのだが」
彼は眼鏡が曇ったのか、ハンカチでぬぐいながら問いかける。
その問いの続きを待っていると、ヘカテーが思いもよらぬ言葉が投げかけられた。
「結婚していたのか」
「結婚? ああ、まあね。でも、彼のことはもう忘れてしまったよ。どんな顔だったのか、どんな声をしていたのかも。――ひどいと思うかね?」
「………」
湯気がでているコーヒーを置き、静かに去って行く主人の様子を見つめた允嗣は、そっと息をはいた。
「俺には分からない。だが、個人という存在はいずれ忘れられる」
「……そうか。ひとと魔女はその点ではおなじかもしれないね」
魔女も、魔女からやがて忘れられていく。彼女たちは人間のように記録されることもない。ただ、脈々とその力と使命を受け継いでゆくだけなのだ。
神と争い、人間の願いを聞き遂げていくだけの存在が魔女だ。それ以外、ひとと比べれば劣っているのだろう。
思考や、想いという観点で見れば。
「好きだったのか? その男が」
「ふふ。おそらく、政略結婚みたいなものだったからね。恋愛など彼との間にはなかっただろう」
「………」
「魔女のなかにも人を愛した魔女もいるが、ほんの一握りだろうね。わたしには分からない。ひとを愛することが、一体どういうことなのか」
「――人間も、おなじだ。恋愛感情という、理解の及ばない感情を持つ人間もいる」
その言葉に、おもわずヘカテーが目を見開く。
まるで、自分以外のことを言っているようだ。彼は目を細め、そっとコーヒーを飲み込む。湯気が、蝶のように舞った。
「俺は――」
一言、ほんのちいさな声で――ジャズの音楽に紛れてしまうまで――大事なものを包み込むような声で、囁く。
「そうは思わないが」
黒いつややかな髪の毛から、しずくが落ちてゆく。外の吹雪で溶けた雪が、今更になってしずくとなったのだ。
「魔女には、分からないかもしれないな」
まるで自嘲するように笑い、壁際にかざってあるシャガールの絵を見上げる。その目は翡翠のように透明で、うつくしい。
翡翠の羽の色をしたその目は、ヘカテーを再び見据えた。
「魔女とひととはちがう。――ちがうものを理解しようというのは――無理なことなのだろうか」




