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カエルレウスの魔女  作者: イヲ
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-6-

 ひとは、後悔をして生きていく動物だ。

 ヘカテーの言うように、後悔のないように生きられたら、それは理想だろう。

 しかし、後悔しないで生きることはおそらく不可能だ。


「無理なことを言う」

「そうかね?」

「ああ」


 清掃員が入ってきたころを見計らって、允嗣は席を立った。ヘカテーも彼に続き、立ち上がる。映画館は平日だからだろう、それほど混み合ってはいない。

 しかし、自動ドアのむこうはひどく白く、吹雪いていた。映画館の軒下には寒そうに雪をしのいでいる人間がいる。


「すごい雪だ。傘を持ってくれば良かったね」

「こんな吹雪じゃ、傘など無意味だろう」


 たしかに、これほどの吹雪ならば、傘など逆にいらないのかもしれない。


「……映画館にいてもしかたがない。すぐ近くに喫茶店がある。そこですこし休むぞ」

「そうだね。そうしよう」


 この吹雪がいつやんでくれるのかはヘカテーにも分からない。すぐにやんでくれると良いのだが。

 映画館を出ると、やはりひどい雪がヘカテーの白いほおへとぶつけるように吹雪いている。おもわず青い薔薇の髪飾りを押さえ、目を閉じた。


「ひどい雪だね」

「これだけひどいんだ。これ以上ひどくなることはないだろう」


 ブーツを履いてきてよかったかもしれない。

 地面をゆっくりと踏みしめる。滑って転ぶなど、したくはない。目の前が白んでしまうくらいの吹雪で、目を開けていられないくらいだ。

 120年ほど生きてきたヘカテーでも、これほどの吹雪はあまり見たことがない。

 映画館を出て、5分ほど歩いただろうか。街角のちいさな喫茶店が見え、允嗣がドアを引くと、ちりん、とちいさな鈴の音が響いた。


「いらっしゃいませ」


 壮年の男性がにこりとほほえんだ。アンティークもののランプや蓄音機が置いてあり、この部屋そのものがどこか、ずっしりとした雰囲気がある。

 いちばん奥の席にすわると、そっと允嗣は息を吐き出した。窓がガタガタと鳴り、まだ雪はおさまりそうにない。


「ホットコーヒーふたつ」

「かしこまりました」


 彼は何気なく注文したが、内心ヘカテーは胃が心配だった。コーヒー1杯くらいでどうということはないだろうが、この吹雪だ。2杯くらいは頼むかもしれない。

 コートを脱ぎ、背もたれにかける。


「ここはきみの行きつけかね?」

「――ときどき来るだけだ。ここは静かで、落ち着くからな」

「そうか。そうだね」


 低い音で、ジャズが流れている。

 バリトンにも似た静かな音に、ヘカテーはそっと耳をかたむけた。

 曲名は分からない。しかし、彼女とおなじほどに年をかさねてきたであろうその音。

 コーラスのない音楽は、永遠にも似た時を生きる。受け継ぐ人間がいるかぎり。そう考えれば、魔女たちはそういうものとともにいるのだ。

 魔女の命と命を受け継ぎ、そしてまた、アリアドネのような魔女が生まれる。

 無限の軌跡を綴るその古い歴史も、おそらく――ひとつではない。たくさんの時間と時間が茨のように絡み合い、やがてそれがひとつになり、再び分かれてゆくのだ。


「こういう場所にはあまり来たことがなくてね」

「……梢に聞いたのだが」


 彼は眼鏡が曇ったのか、ハンカチでぬぐいながら問いかける。

 その問いの続きを待っていると、ヘカテーが思いもよらぬ言葉が投げかけられた。


「結婚していたのか」

「結婚? ああ、まあね。でも、彼のことはもう忘れてしまったよ。どんな顔だったのか、どんな声をしていたのかも。――ひどいと思うかね?」

「………」


 湯気がでているコーヒーを置き、静かに去って行く主人の様子を見つめた允嗣は、そっと息をはいた。


「俺には分からない。だが、個人という存在はいずれ忘れられる」

「……そうか。ひとと魔女はその点ではおなじかもしれないね」


 魔女も、魔女からやがて忘れられていく。彼女たちは人間のように記録されることもない。ただ、脈々とその力と使命を受け継いでゆくだけなのだ。

 神と争い、人間の願いを聞き遂げていくだけの存在が魔女だ。それ以外、ひとと比べれば劣っているのだろう。

 思考や、想いという観点で見れば。


「好きだったのか? その男が」

「ふふ。おそらく、政略結婚みたいなものだったからね。恋愛など彼との間にはなかっただろう」

「………」

「魔女のなかにも人を愛した魔女もいるが、ほんの一握りだろうね。わたしには分からない。ひとを愛することが、一体どういうことなのか」

「――人間も、おなじだ。恋愛感情という、理解の及ばない感情を持つ人間もいる」


 その言葉に、おもわずヘカテーが目を見開く。

 まるで、自分以外のことを言っているようだ。彼は目を細め、そっとコーヒーを飲み込む。湯気が、蝶のように舞った。


「俺は――」


 一言、ほんのちいさな声で――ジャズの音楽に紛れてしまうまで――大事なものを包み込むような声で、囁く。


「そうは思わないが」


 黒いつややかな髪の毛から、しずくが落ちてゆく。外の吹雪で溶けた雪が、今更になってしずくとなったのだ。


「魔女には、分からないかもしれないな」


 まるで自嘲するように笑い、壁際にかざってあるシャガールの絵を見上げる。その目は翡翠のように透明で、うつくしい。

 翡翠(かわせみ)の羽の色をしたその目は、ヘカテーを再び見据えた。


「魔女とひととはちがう。――ちがうものを理解しようというのは――無理なことなのだろうか」


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