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「やれやれ……」
「ヘカテーさま。こまってる?」
「ああ、そうだね。困っているかもしれない」
「でも、いやじゃない?」
「そうかもしれないね……」
魔女は、人に使われてはじめて価値がでる、と誰かが言っていた気がする。誰だったのかは分からないが、おそらく、それは正しいのだろう。魔女が魔女として生きるよりも、それはおそらく――「生きている」と思えるはずだ。
ヘカテーは、それを是とも否とも言わないが、心の奥底では――いずれかの答えを持っているのかもしれない。あきらめ、という概念とおなじように。
まだ幼いアリアドネは、そのことさえもいまだ分からないだろう。概念というものも、まだまだ分からないはずだ。
「アリアドネ。おまえはまだ分からないかもしれないが、この世界はつらく、厳しい。だが、それだけではないということも分かっていて欲しい。やさしい人間もいるってことをね」
「……? うん」
「さて、金鵄も呼んでお茶にしようか。アリアドネ、呼んできておくれ」
「うん」
電話があったのは、その次の日だった。
允嗣の声はどこか沈んでいる。なぜかは分からないが、おそらくヘカテーとともに映画などに行きたくないのだろう。
それでも今日は平日だ。
彼は刑事だから、平日休みもあったとて、おかしくはないだろう。
「ヘカテーさま、気をつけてくださいよ、本当に。前だって、やつと二人きりのときにケリュネイアが襲ってきたじゃないですか。本当に俺、行かなくても大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ、金鵄。わたしもそうそうやられてばかりじゃないからね」
――それにしても、今日のヘカテーはいつものドレスではなく、金鵄からしてみればすこし違和感があった。
くるぶしまである黒いスカートに、浅紫のきれいな色をしたタートルネックのセーターと、ウールの黒いコート。
「それにしても、ヘカテーさま。今日はずいぶんと服装がちがいますね」
「まあね。ドレスじゃ隣で歩くにも困るだろう」
「そんなもんなんですかねぇ」
「たぶんね」
出かける前に寝室をのぞくと、アリアドネがベッドのなかで眠っていた。
彼女は一日のほとんどを眠って過ごしているようだ。まだ幼いのだから、眠っていても別段、おかしくはない。
「金鵄、アリアドネを頼むよ」
「はい。あ、おみやげお願いします! 焼き鳥とか!」
「ああ分かった分かった。適当に買ってくるから」
金鵄はうれしそうに薄い茶色の瞳を輝かせた。
わかりやすい男だ。いつ見ても。そう思うも、ヘカテーからみればかわいいものだから、何も言わない。
「いってらっしゃい!」
外はまだ寒く、白い雪がところどころ、溶けずに残っている。
くちびるから白いもやがたち、ヘカテーはそっと空を見上げた。
冬の空は遠く、白い雲がゆっくりと流れている。遠い。魔女と人間の距離も、おそらく遠いはずだ。価値観も、概念もちがうのだから。
ずっと、そう思っていた。そうあるべきだとも。
しかし、今はちがう。
なぜだろうか。なぜ、そう思わざるを得なくなっているのだろう。
魔女はかわらない。人間とはちがう。人間はかわるものだ。桜が一時のものではないように。人と人が別れ、そして出会い、時代が流れてゆくように。
「………」
ふっ、と笑い、変わったものだなと呟く。
「わたしも、変わるのかしらね。金鵄も、アリアドネも……」
生きとし生けるものに、変わらないものなどないのかもしれない。
森をぬけると、目抜き通りに出る。
平日だからか、スーツを着た男性や、年を重ねた女性たちが、せわしなく雪に気を使いながら歩いていた。
待ち合わせは確かこのあたりだ。ビルの入り口のすみに立っていると、茶髪の見るからにガラの悪そうな男が2人ヘカテーをにたにたと笑いながら見つめている。
「お姉さん、なにしてんのー?」
「……」
これは俗に言うナンパというものだろう。
初めてではないが、気分のいいものではない。馬鹿にされているような気がするからだ。
「待ち合わせしてんの? なに? 男?」
「きみたちには関係ないだろう」
ため息をはき出す。なにも、こういう若い連中に言うようなことでもない。それに気分を害したのか、目の前の男2人の顔がゆがんだ。
ヘカテーからしてみれば、100歳以上も離れている若輩者だ。それに、こういう軽薄そうな男を気にかける必要もないだろう。
「なんだよ、気にかけてやってんのによぉ。じゃあ、金出せよ金。あんた、いい身なりしてるから持ってんだろ?」
「……やれやれ。どの時代にもいるんだな。こういうどうしよもない男が」
「ああ?」
「失礼。わたしは連れと待ち合わせをしてるんだ」
ビルの前を去ろうとしたとき、無遠慮な手がヘカテーの手首を掴む。
ヘカテーの黒髪がゆれ、ガラスのように真っ青な目が男を睨んだ。
「離してくれないか。わたしは――」
冷えた風がほおを駆ける。いつも手にしているものがないことに、今更ながらに気づく。
今日は、あえて道化師を持ってきていない。魔女たちの魔力の根源は、まさに体のなかにあるのだが、杖にはめ込まれている宝石こそが、魔力を現実へと昇華させるためにかかせないものなのだ。
故に、杖がなければほとんど何もできない。逆に言えば、杖さえ持っていなければ魔力を昇華させるための力――いわゆる「気配」と呼ばれるものがない。だからこそ、ケリュネイアはヘカテーを見つけることは難しいだろう。
「何をしている」
なんていうタイミングなのだろうか。
威嚇するような声に驚いたのか、男2人は尻込みするように「何だよお前」と唸った。
「警察だ。今、金を出せと言っていなかったか」
「な、何でもねぇよ!! おい、行こうぜ」
慌てて逃げて帰る男は、哀れと言うよりもほほえましい。ふ、と吐息をだして笑うと、允嗣は怪訝そうに眉をひそめた。