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金鵄という男性は、少女とヘカテーにそれぞれ紅茶を前に置くと、出ていった。
「それで、君の名は?」
「あ……ご、ごめんなさい。……佐々木咲子です」
「そうか。では咲子。君は何をおもって、ここにきたんだね?」
魔女と呼ばれる彼女は、白磁のカップに手をつけて、紅茶をすする。
咲子は自分がいま、ひどく緊張していて、喉がかわいているのだと今更ながらに気づいた。
ふるえる手がカップを取り、ゆっくりと飲む。
これは紅茶ではなかった。
ハーブティーだ。
においは紅茶に似ているけど、このわずかな苦みは確かにハーブティー。
咲子はそれを飲み込むと、ヘカテーに聞こえぬように大きく息をはきだした。
「わ、私……、私は、ほんとうに地味で、めだたなくて、でもそれじゃいやだって思うほど強くなくて――。そう思っているうちに、消えてなくなりたいっておもうようになって……。こんなにつらいなら、この世界から消えてなくなりたい。お父さんもお母さんも、いい人。友達もいい人なのに、どうして私はこうなんだろうって考えていたら、噂をおもいだして……」
「そうか。成程。そうしてわたしのところにやってきたというわけだね」
「は、はい……」
濡れ羽色の袖から出た、わずかな白いレース。
そのさきにレースとおなじくらい白い手には、藍色のマニキュアをほどこされていた。
「君はどうしたいんだね。ほんとうに消えてなくなりたいと思っているのかい?」
「思ってます!もう、いやなんです……。こんな私、矛盾がありすぎて、もうどうしたらいいか分からない……」
三つ編みにした髪の毛の束が、肩からおちる。
もうなにもかもが分からなくなっていた。自分のことも、他人のこともわからない。
何もわからないのなら、いなくなってもおなじ。
この世界は、咲子がいなくなってもつつがなくまわるのだから。
黙って聞いていたヘカテーは、赤いくちびるをちいさく開けて、「やれやれ」とささやいた。
「それはただの、思春期の一時的な感情にしかならないよ。あとでかならず後悔するだろうよ」
「そんなことないです!私は、本当に消えてなくなりたいんです。それでも死ぬのはいや」
「生きるのも死ぬのもいや。でも消えてなくなりたい、と……。なるほど。それは確かにいい餌だね」
澄んだ青い目――その片方の目に射すくめられる。
深く、濃い青。
瑠璃色にも似たその目はまるで、獰猛な猛禽類のようなするどさがあった。
咲子はごくり、と喉を鳴らせ、喉をひきつらせる。
彼女には単純な、人間の原初的な感情がうかんだ。
――恐怖。
「咲子。われわれ魔女は、何を糧に生きているのか知っているかね。精気でもない。血でもない。命でもない。だから、人を殺すことはできない。まあ、中世の魔女はどうだか知らないが――。現代の魔女は人を殺さない。死ぬようにさしむけはしても、命を奪うことはしないのさ」
「……だ、だから……」
「君たちの心を喰らう。思考という名の心をね。君たちが何を考え、何を思い、何をして過ごすのか――。その思考、心を喰らってわたしたちは生きている。昔は食うにもひと苦労だったが、今はちがう。君らのような子どもがたくさんいる。何も、君だけじゃない」
手にした杖――まるで老年の人がつかっているような、古びた一メートルほどの木の
杖は、グリップもついている。
だが、色彩をはなつのはその杖自体ではない。
グリップのしたに、蒼い宝石がはめられていた。
青玉のようなそれは、異様な色彩をはなっている。
まるで、それは一個の生命体のようだ。
「お目が高い。この青は、道化師。こいつは生きている宝石だ。魔女の杖っていうのも特殊でね。いろいろあるのさ。――でも、君はだめだ」
ヘカテーはかぶりを振り、咲子にわらいかける。
「……え」
呆然とする咲子にヘカテーは杖をにぎり、立ち上がった。
「さあ、帰るといい。親御さんがまっているよ」
「……どうして……。どうして、喰らってくれないんですか!?」
「どうして、ってねぇ……。君はわかっているはずだが?」
突き放した言いかたに、咲子は傷ついた。
確かに傷ついたのだ。
そんな心も、もういらないとおもってここにきたのに。
傷つく場所がなくなるくらい、傷ついた。
だというのに、なぜ――。
「世の中にはね、逃げていいことと逃げちゃいけないことがあるんだよ」
「わ、私が逃げてるっていうんですか!?」
「おや、違うのかい」
ぐっ、と息がつまる。
逃げている。たしかにそうかもしれない。
それでも、もういやなのだ。
すべてを殺すつもりで、すべてをなくすつもりできたのに――。
「ひとは、みな逃げずに生きることはできない。誰かしら、何かから逃れているのさ。それがたとえ意識せずともね。だからこそ、ひとは希望を見いだせる。運命の手で目隠しをして。そして、うつくしい花のようにとけてゆくものさ。ひとの心というものは。だけど、君はちがう」
はねのける言葉だった。