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朝日が昇って数時間たっても、いまだアリアドネは眠っている。
ヘカテーは彼女をみおろし、やがて玄関の扉をたたく音で視線をはずした。金鵄は町へ出て、女児用の洋服を買いに行かせており、不在である。帰ってくるにも、まだ早いだろう。
ちいさく、控えめなノック音。自室から出て、玄関の扉を開けた。
「……おや」
「ヘカテーさん、こんにちは!」
「ああ、ごきげんよう。梢。どうしたんだい。こんなところまで」
「ここにくるまで、ずいぶんあるんですね。家から2時間もかかっちゃいました。そうそう、今日は……」
彼女は、ショルダーバッグに手を入れて、なにかを探している。やがて取り出したのは、長封筒だった。
「なんだい、これは」
「映画のチケット。兄さんと行ったらどうかなって!」
にこにことほほえんでいる彼女には、悪意など、どこにもない。しかし急にここにきて、急に映画のチケットを渡すのは、何故なのか。
ヘカテーは目頭に手をあてて、わずかに唸った。
「どういうことかね? 梢。映画のチケットが、どうしたって?」
「兄さんと行ったらどうかなって!」
二度、おなじことを言う。
その表情はどこにも悪意などなく、ただただ純粋な好意のみが、かいま見えた。
「いや、梢。この前もそうだが、允嗣とわたしをどうするつもりなんだね」
「だって、兄さん、恋人の一人や二人いないから」
「……。允嗣とわたし、何歳離れていると思っているんだい? たぶん、90は離れている。これでは允嗣がかわいそうだ。――まあ、立ち話も何だから、なかに入りたまえ」
「はい。お邪魔します!」
室内に入った梢はエアコンが効いたあたたかい部屋に、そっと息を吐く。
ヘカテーが淹れてきた紅茶を、おいしそうに飲んでいる梢はどこか楽しげだった。むかいがわのソファーにすわったヘカテーは、難しい顔で腕を組んでいる。
「だって、ヘカテーさん、結婚してないでしょ? 恋人もいないかんじだし」
「恋人はいないが、結婚はしていたよ」
「そうそう。恋人はいないでしょ……って、えぇー!?」
ヘカテーは驚いてソファーから腰を上げた梢を見上げ、「何を驚いているのかね」と不思議そうにソーサーをローテーブルにおいた。
「わたしは、ある人と結婚した。でもそれももう、100年も昔のことだ。100年前は、いろいろあったからね」
「え、100年も前なら、その人はもう……」
「ああ、亡くなったよ。90年前にね」
「好き、だったんですか?」
彼女がそう問うのは、ヘカテーの表情があまりにも冷めたものだったからだ。ヘカテーは再びソーサーを持って、紅茶をひとくち飲み始める。
「さあ、どうだっただろうね。昔のことで忘れてしまったよ」
それは、好きではなかった、ということなのだろう。梢にも分かる。あいする人を亡くしたのなら、きっとそんな表情はできない。
「そうなんですか……。でも、それはそれ。ヘカテーさん、兄さんのことをどう思ってますか!?」
「は……?」
「ですから、兄さんのことを……」
「ヘカテーさま……?」
わずかにかすれた声。お古の白いドレスを着たアリアドネがヘカテーの名を呼ぶ。自室からおぼつかない足取りで歩いてきた。
「ああ、アリアドネ。起きたのか」
「へ、ヘカテーさんのお子さんですか!?」
「ちがうよ」
「な、なんだ、よかった。それにしても、すごくかわいい子ですね! アリアドネちゃんっていうんですか?」
「ほら、アリアドネ。こんにちは、ってお言い」
真っ白の長い髪がゆれて、梢にちいさく会釈をする。「こんにちは」とは言わなかったが、恥ずかしいのだろう。それを理解している梢は、「こんにちは」とほほえんだ。
「私は梢。八月朔日梢っていうの。よろしくね」
「……ん」
ソファーから立ち上がって、アリアドネとおなじ目線であいさつをすると、ちいさな彼女はひとつだけ、うなずく。
「そういえばヘカテーさん。兄さんからヘカテーさんは魔女だって聞きましたけど、ほんとうなんですか?」
「ああ……。聞いたのか」
アリアドネはヘカテーのとなりに座って、じっと外を見つめている。
梢はどこか興味深そうにヘカテーを見据え、その答えを待った。
「そうだね。この子も、わたしも魔女だ」
言葉少なくうなずくヘカテーを見て、梢は首をひねりながら「ううん」と唸ってみせる。
「いまいち分からないだろうがね。もう一つ言えば、わたしたちは人間じゃない。寿命も長いし、怪我や傷もすぐになおる。戸籍もなく、人の形を取っているが、根本からちがうんだ」
「根本から、ちがう?」
「エネルギー、とかね。きみたちは、ものを食べて、動いたりしているだろう? わたしたちは、それがない。ものを食べてもエネルギーにはならないし、こうして動くことや喋ることに、エネルギーは使われない」
「じゃ、じゃあ、どうやって動いているんですか?」
「魔力さ。以前、きみを攫った天使や、わたしたちのごちそう――黒曜石のような魂を持つ人間の心を食って、魔力としている。きみたちからしてみれば、馬鹿らしいかもしれないがね」
すこし冷めてきた紅茶をひとくち飲み、そっと息をつく。梢――彼女はいまだ不思議そうに、首をひねって唸っていた。
人間には、分かりづらいのかもしれない。魔女たちの生態は。
「でも、わたしたちは生きているんだ。人間たちとおなじようにね」
「生きている……。じゃあ、問題ありませんね!」
「なにがだね?」
今度はヘカテーが首を傾ける番だった。
「ヘカテーさんも、恋愛ができるってことです!」




