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外は雪が降っている。
雪が降って、どれほどたっただろうか。ここは、どこだろう。分からない。ただ、寒い。
とてもとても寒くて、凍えそうだ。
丘のむこうに風車小屋が見える。あそこに、誰かいるのだろうか? とうの昔になくなった足の感覚のせいで、雪に足がつっかかって転んでしまう。ほおに雪を押しつけられ、そうして意識をうしなった。
少女には、なにもなかった。なまえも、記憶も、思い出も――。ただ、存在していた。まるで、そこから生まれたかのように。
ごっそりと色素が抜け落ちた色をした長い髪。
その白く長い髪がヒーターの火で照らされている。ベッドに横たわった少女は、まるで眠り姫のようにねむりつづけていた。
「この子、どうしたんですかね」
「見て分からないのかね。この子は魔女だよ。しかも、生まれて間もない。危なかったよ。もうすこし遅かったら、死んでいた」
「ま、魔女! この子が?」
ヘカテーの自室に眠っている少女は、まだ妙齢の姿だ。人間で何歳かと聞かれれば、10歳くらいだろうか。
青ざめた顔色をしていた彼女はすでに暖まったのか、血色のいい色をしている。くちびるも、ポピーレッドに染まっていた。これならば、もうすこしすれば目を覚ますだろう。
「……ん……」
枕に頭をこすりつける音と、ちいさなうめき声がきこえる。すぐにヘカテーが駆け寄り、その少女の顔を見下ろした。まつげまでも白い。そのゆるゆるとまぶたが持ち上げられて、その瞳がヘカテーを映した。
「あ、なたは……?」
「わたしはヘカテー。おまえとおなじ、魔女だ」
「ま、じょ……? 魔女……」
「そうだ。きみはうまれたばかりだから、何も分からないだろうがね。しばらくはここにいるといい」
白い、ストレートではないふわふわとした髪と、猫のようなピーコックグリーンの目、そして整った顔は、まるで人形のようだ。
ベッドから上半身を起こした彼女は、オフホワイトのシャンパンレースのドレスを着て、ぼんやりと目をまばたかせる。
「わたし、魔女、なの? 魔女って、なに?」
「魔女は、人間の助けとなるためにうまれたものだ。そのために、特別な力がそなわっている。わたしにも、おまえにもね」
「人間の……助けとなるため……」
「そう。でも、わたしたちは生きている。大丈夫だ。おまえはすこしずつ覚えていけばいい」
「うん……」
彼女の頭をそうっとなでて、ほほえんでみせた。彼女は安心したのか、もう一度うなずく。
「そうだ。なまえを決めないといけないね」
「なまえ……わたしの、なまえ?」
「この世界では、なまえというものを決めなければ不自由だからね」
「……」
ヘカテーはおのれの子どもに言い聞かせるように、床にひざをつけて目線をあわせた。
いまだなまえのない彼女は、ピーコックグリーンの目をまたたきさせて、首をかたむける。
「そうだね。――今日からおまえのなまえはアリアドネだ」
「アリアドネ……。うん……わたしのなまえは、アリアドネ」
「いいね、金鵄。これからこの子はアリアドネだ」
「わかりました」
金鵄はこうべを垂れ、ヘカテーの自室から出て行った。
いまだちいさな彼女はベッドのうえで、ぼんやりといまだ降り続いている雪を見つめている。
おそらく、すべてがすべて、目に見えるものが珍しいのだろう。
「珍しいかね? 雪が」
「うん。きれい。でも、雪って冷たいのね。命をうばう雪でも……きれい」
「そうだね。きれいなものっていうのは大概、棘があるものだよ。かわいいものからそれこそ――おまえの言う、命を奪うものまでね」
「命を、うばう……。命は、尊いもの?」
「そうだね。人間たちにとっても、魔女たちにとってもね。だから、むげにしてはいないよ。おまえも」
「うん……」
彼女は、真っ白な画用紙のようなものだ。
ひとつひとつ、教え込まなければ黒にも白にもなる。善にも悪にもなるのだ。
「命は、ひとつしかないんだからね」
「うん」
「……すこし、おやすみ。まだ、時間はたっぷりあるんだから」
眠たそうに彼女はうなずき、ふたたびベッドのなかにもぐりこんだ。ヘカテーはそれを見届けたあと、金鵄がいるリビングへむかう。金鵄はすでにカフェインレスの緑茶を淹れていた。
「いや、まさか魔女が生き倒れているなんて思いもしなかったですよ。俺が外に出ていなかったら、どうなっていたか……」
「そうだね、助かったよ。金鵄。しかし、魔女が生まれたということは、――ほかの魔女が死んだと言うことだ」
「ええ。でも俺たちが知っている魔女のかたたちは、寿命っていうにはまだ早いような気がするんですよね……」
緑茶をひとくち飲み、そっと息を吐く。
ヘカテーは左目をほそめ、降り続く雪を見上げた。
「たしかにね。たぶん、天使どもかあの女のしわざだろうね。ほんとうに舐めたまねをする」
「あの女……ケリュネイアの奴ですね? ヘカテーさまの腹に穴を開けた」
「穴を開けたは余計だよ。でも、大天使どもと契約したあの女が今、何をしているのか分からないが……。まあ、碌なことじゃないだろうよ」
「……。話は変わりますけど、アリアドネ、どうするんですか? いつまでもここに置いておくわけにもいかないでしょう」
「まあね。落ち着いたら、レトに預けるさ。レトがいる場所なら、たくさんの魔女がいるしいい手本になるだろう」
その夜は、アリアドネが再び目覚めることはなかった。




