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「ケリュネイア」
「!?」
かすかな声がきこえる。それは、ヘカテーでもエンプーサでも、允嗣でもなかった。
男でも女でもない、幼い声がたしかにきこえてくる。
「その魔女は、まだ救うことができる。まだ、生かせておくがいい」
「で、ですが……」
姿は見えない。ただ、エンプーサがひどいうなり声を発し、その声の主を威嚇している。
「ヘカテー……!」
あの金髪の女が、「なにか」と会話をしているうちに、血しぶきをあげて倒れたヘカテーへと走り寄った。
黒い、肩まである髪が血で汚れている。うつぶせに倒れ、それでもかすかに息があるようだ。
「魔女は排除すべき輩だが、救うこともできる。彼女は、まだ救える。今日はもう引くがいい。ケリュネイア」
「は、はい……」
マリア・ヴェールをゆらし、地に伏しているヘカテーをまるで虫けらでも見るかのような目で見たあと、背をむける。
「待て! 貴様……」
「ニンゲンごときが私に話しかけないでくださる? 汚らしい」
冷めた目で、冷え切った言葉を吐き出してから、石畳の影へと消えていった。
「まったく……いやな、ほんとうにいやな、女だよ……」
「ヘカテー!」
血で汚れた髪の毛を耳にかけながら、ゆっくりと起き上がる。黒いエンパイアドレスはどす黒く汚れ、裾は糸がほつれ、ぼろぼろになってしまっていた。
彼女は腹を押さえながら、床にすわる。
「な……っ!」
絶句した。
血まみれの手で押さえている腹には、10センチほどの穴がぽっかりと開いていたのだ。
黄金の鹿の角で貫かれたその穴は、むこうがわさえも見えてしまっている。人間ならば、失血死していても決しておかしくはない。だが、ヘカテーは、苦しげにしているものの、痛みを感じているそぶりも見せない。
「ふふ……っ、言っただろう。わたしは、魔女だ。人間ではない。これくらいの傷、すぐに治る」
「……」
「気味が悪いかね? でも、そういうものだ。これくらいのことではわれらは消えない。エンプーサ。着替えをお持ち」
「はい、母さま」
エンプーサの手には、いつの間にか黒いドレスを手にしていた。それをヘカテーが手に取り――。
「……!」
人目もはばからずぼろぼろになったドレスを脱ぎ捨てようとしたのだ。允嗣は思わず顔をそむける。
「いきなり脱ぎだすな!」
「おやおや、それは失礼した。まあ、これでいいだろう。腹の穴は目立たないし。この穴も、1、2時間くらいでふさがるだろう」
「な……」
「魔女を消したいなら、そうだね……首を切り取らないと」
「……」
「と、いうのは冗談だが。さて、いつまでもここにいても仕方がないだろう。ありがとう。エンプーサ。ご苦労だったね」
「ねえ、母さま。どうして、大きな鴉にならなかったの? 鴉になっていたら、こんな怪我、しなくてすんだでしょう?」
エンプーサの問いに、かすかに――ほんのわずかに、ヘカテーの表情がこわばる。職業柄、そういうものに敏感な允嗣は、おもわず眉をひそめた。
「……?」
「さあ、どうしてだろうねぇ。さ、エンプーサ。もうお戻り」
「はい。母さま。それじゃ、バイバイ、允嗣。ごきげんよう――」
ヘカテーの影に沿うように彼女の姿がかき消えて、ただ血で汚れた髪のヘカテーと、未だ状況を飲み込めていない允嗣の二人だけが取り残された。
「ヘカテー。いったい、何なんだ?」
「何がだね?」
「――なぜ、おまえたちは戦う?」
「戦う、か……。なぜだろうね。わたしたちの天敵は神。神の天敵はわたしたち。だからじゃないのかい。それはずっとずっと長い間決められていたことだよ」
「……」
「さあ、允嗣。手を」
ぼろぼろになったドレスでぬぐった手は白く、細い。ふれるのにもためらうほどに。
「血はぬぐったはずだから、そう汚くはないのだがね」
「そういうわけじゃない」
「そうか」
おもわず否定してしまったが、当の本人はほんの少しほほえんだだけだ。そのほほえみに、允嗣はちいさく嘆息する。
「痛みはないのか」
「え? ああ、まったくないとは言えないが、大丈夫だ」
藍色のマニキュアが施された指先に允嗣はそうっと、その手を乗せた。
かすかな風が吹いたあと、目を開ける。深紅のカーペットの上に立っている自分たちの姿が、目の前のガラスの扉に反射して映っていた。
「ヘカテー、ここは……」
「さっきのデパートのなかさ。戻ってこれたようだね」
「……待て。今、何時だ?」
「12時30分だね」
「しまった……!予約の時間が過ぎている……」
珍しく慌てた様子でレストランに通じるドアを開ける。
残されたヘカテーは、その様子をそっと見守った。
結局、人間は人間なのだ。
魔女は、魔女にしかならないし、なれない。
それでも人間になれたなら、と思うこともある。人間らしく生き、人間らしく死んでいけたなら。
魔女は、長寿だ。
120歳など、まだまだ子どもだろう。しかし、魔女がそこまで長生きできないのは、天敵と戦わなければならないからである。
戦って死に、そうしてまた魔女が生まれる、その輪廻。
かわいそうな魔女が生まれるたび、その戦いはいっそう激しくなってゆく。
(それを望まないのは、何故だろうか――。)




