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「――心が不安定になるかもしれない。まあ、きみには支えてくれる人がいるのだから、大丈夫だろうと思うが……」
「……そこまで、知っているんですか」
「わたしは魔女だからね」
わずかにこわばった顔を見て、ヘカテーが再びほほえむ。
「お茶をお持ちしました」
「ありがとうございます……」
金鵄がテーブルに白磁のティーカップを置くと、奥へ再び戻っていった。
彼が客の相手をすることはまず、ない。人が二人いても、客が緊張してしまうだけだ。
それに、金鵄がまともに客の相手をすることはできないだろう。
「きみを呼んだのは、占いのためじゃあない。――すこし、心配になってね」
「心配?」
「きみの魂が見える、といったら信じるかな」
窓の外は、未だ雪が降っており、しんしんと降り続けて、地面をゆるやかにぬらしていた。
答えぬ永劫に笑いかけ、彼女は窓を見上げる。
「きみは分かっているのだろうが、きみの母親がきみの魂を汚している。恨み、憎み、妬み――永劫に苦しめよと言っているようだ。それでも、きみは決してあきらめなかった。生きることをね」
「……そうですね。死んだら、負けるような気がして」
「なるほど。悲しみにくれることは、そうそう難しいことではない。前を向くほうが、ずっと難しい」
琥珀色の紅茶から、かすかな湯気がただよう。
永劫はそれをじっと見下ろし、くちもとをほんのすこし、ゆるめた。
「でもきっと、俺が一人きりだったら死んでいました。俺はそんなに強くないし」
「人間は、そういうものだよ。一人では生きていけない。たとえ、本当に一人きりだったとしても、そこに何かがある限り、その人は決して一人ではないのだから」
白磁のティーカップにくちびるをつけ、そっと飲み込む。
ひとは、一人ではない。そこに空気があり、花があり、木があり、湖があり、海があり、太陽があり、月があり、そして――その人を思うひとがいる。
それは幸せかもしれないし、不幸せなのかもしれない。
ヘカテーは魔女であり、人間ではない。それでも――生きている。幸福なのか、不幸なのかさえ120年生きてきて未だわからない生だが、それでも。
「わたしも、きみも決して一人ではない。それを、忘れてはいけないよ。きみを憎んでいる人間もいるが、きみをあいする人間もいるということを。わたしもきみも、幸福ではないが不幸せではないのだから」
「……そう、ですね」
ひとりではないということを身に染みることはたぶん、あまりないのだろう。ヘカテーも、永劫も。当たり前だと思ってはいけない。このとき、この一瞬を。
いつか、そのときが来ても納得しなければならない。
後悔を身に染みませながら死ぬと言うこと以上、不幸なことはないのだろうから。
「俺は、普通で良かったんです。普通の人の生を送って、いずれ死んでいきたい。それはかなわないかもしれないですけど」
「哀れな流浪の神である野良神――。彼らに憑かれた時点で、たぶんきみの生は平坦なものではなくなってしまったのだろう。それでも、生きていけるかね? わたしは、きみの魂……黒曜石のような魂を、久しぶりに見たよ。われら魔女にとってはたいそうなごちそうだが、わたしは個人的にきみには生きていて欲しいと思っている。まだ、糸がほころぶには――はやいからね」
「俺が死んで、悲しむひとがいてくれるんです。だから、まだ生きなければいけない」
「それは、きみ自身の考えなのかい?」
かくされた右目がかすかにうずく。
すでに“ない”右目は、それでもたしかにその魂を映していた。
どこまでもどこまでも深い、その深淵にかくされた魂を。
「そうです。俺が考えて出した答えです。……使命、といっては大げさかもしれないですけど」
「なるほど。いや、大げさではない。それはきみが考え抜いて出した答えだ。だれも、それを否定することはできないだろうよ」
永劫はほんのわずかにうつむき、紅茶をすすった。もしかすると、照れているのかもしれない。
――希有だ、と思う。
「死にたいと思うのは簡単だ。それでも、きみは前を向いた。それは、誇っていいことだと、わたしはおもうよ」
「それこそ大げさですよ。死にたいと思っていても、そう思えるのは生きているからこそなんですから。死んだら、なにも感じないし、なにも思わないし、思えない」
「それでも、さ。今世、人々は希望をなくし、生への意味をなくし、おのれの影だけを見つめていることも珍しくはない。夏に来た客もそうだった。それでも、きみは顔をあげることに成功した。それこそ、難しいことだ」
すっと、紅茶を飲み込む。
かすかに冷めてしまったそれは、それでもよい香りがあたりを包み込んでいる。
ハーブと果実をブレンドした紅茶は、心身をリラックスさせるようだ。永劫はそっと息をついて、窓辺を見上げた。そこはすっかりと暗くなってしまっていて、林の木々さえも見えない。
それを見つめている永劫の目は、闇に対する畏怖を感じているように見えた。




