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雪がしんしんと降るなか、傘をもってせわしげに歩く男性を見つけた。背はさほど高くはないし、顔だちもさほど目立った長所というものもない、ごくごく普通の男性だ。
雪道をまるでレッドカーペットのように歩くヘカテーは、ふいに彼をみつけて立ち止まる。
彼女がほしがる「ごちそう」は、目の前にあった。
心の随まですきとおった、黒。黒曜石のように澄み渡る黒。
「きみ」
この道には、彼と彼女以外、だれもいない。それを分かっていたのか、ヘカテーを通り過ぎた彼が振りかえる。
「どこへ行くんだい。こんな雪のなか」
「家に帰る予定ですけど……」
「そうか。待っている人はいるのかね?」
「ええ、まあ」
「そうか。それはいいことだね」
彼は不審がらず、ただ淡々と答えた。
彼のような人間は今時、希有だ。それでも、ヘカテーは彼を食うことはしない。待っている人がいる人間を、むざむざ食ったりしても残るのは怒りと憎しみだけだ。そういうものもヘカテーのごちそうではあるものの、できれば食いたくはない。
人の怒りや憎しみを食っても、また続くのが負の感情だ。そこに、なにも生まれない。
「あなたも、傘もささずに大丈夫なんですか?」
「わたしかい? わたしは大丈夫だよ。なぜならわたしは、魔女だからね」
「魔女……?」
雪が、まつげにおちる。ヘカテーはそっと目を閉じて、そうして再び開いた。
「そう。わたしは魔女。きみのことはわたしは何も知らないが、きみ、――野良神に憑かれているね」
「……野良神のことを、知っているんですか」
「知っているよ。禮という女性を、きみも知っているんじゃないのかね?」
「ええ、まあ」
「そのつてでね。ここも寒い。よかったら、わたしの家に来ないかい。まあ、待っている人がいるというのなら、また今度でもいいのだが」
「俺はかまわないんですけど……。ちょっと遅くなるって電話しておきます」
彼はそう言うと、携帯を耳に当てた。
野良神のことを知っていたからかもしれないが、この警戒心のなさはどうなのだろうかと思う。
ヘカテーは空を見上げて、ちいさく苦笑いをした。
「あの、あなた、ヘカテーさんっていうんですか?」
電話を切った彼は、唐突にこちらの名前を言い当てた。予想はしていたが、やはり電話の主はあの人なのだろう。
「ああ、そうだよ。わたしは魔女ヘカテー。きみの名は?」
「俺は大神永劫です」
「そうか。では永劫。わたしのすみかへ案内しよう。ついておいで」
袖のあるエンパイア・ドレスをかつげ、道化師にふっと息を吹きかける。
ぼんやりと青く灯った杖のむこうは、林への通り道が見えた。
「道が……」
「昔からあるのさ。見えない人には見えないけどね」
林のなかは暗く、鳥のさえずりも消えている。
青白い明かりだけが、行く道を照らす。
「きみは、信じるかね」
「何がですか?」
「わたしが、魔女だと言うことを」
「え? ええ、まあ。野良神なんてものがいるくらいですから、もうあんまり驚かないですね」
「はは。なるほどね。きみもなかなか、度胸がある」
ゆるやかな丘を登り、ぼんやりと明かりがついている風車小屋をめざす。
たぶん、金鵄が待ちくたびれているだろう。雪が降っているのだし、ストーブの前で縮こまっているかもしれないが。
「ここだよ」
「お邪魔します……」
白い木の扉を開けてやると、永劫は会釈をしてから部屋の入っていった。その背に見えるのは、やはり黒曜石のような魂をしている。
しかし、だめだ。この子の魂は、もうほかの誰かのものなのだから。
「ヘカテーさま、おかえりなさい……って、あれ。誰です? お客様ですか?」
「ああ、そうだよ。金鵄、とりあえずお茶を出しておくれ。永劫、紅茶と緑茶どちらがいい?」
「紅茶で」
金鵄がキッチンへ向かい、ヘカテーがソファーに座るようにうながす。彼もすこし戸惑いながら、ゆっくりとソファーにすわった。
「永劫。彼は元気かい?」
「珊瑚さんのことですか?」
「ああ、そうだよ。彼はだいぶ無茶をする性格らしいからね。禮から聞いている」
「禮さんのことも知っているんですね……」
「ああ。そうはいっても、彼とは実際に会ったことはない。聞いただけさ。さて、きみは占いというものを信じるかね?」
ヘカテーは、すっと手のひらを永劫にむけて差し出した。目の前の彼は答えを考えあぐねているように黙っている。
「まあ、いいことなら信じたいですね」
「なるほど。よい見本だし、素直でよろしい」
「そう、ですか?」
「ああ、そうさ。占いとはね、オカルトではない。占う側の力によって左右されるものだ。それを信じるか否かも、またこちらの力にもよる。さて、きみはこれは何に見える?」
手のひらに、いつの間にかカードが乗っていた。そのカードは、インクをしみこませたようなもので世間一般的に「ロールシャッハテスト」と呼ばれている。
「それ、ロールシャッハテストですか?」
「いやいや、きみに心理テストなんかをさせるつもりはないよ。ただ、ちょっとした占いさ」
「蝶に見えます」
「そうか。蝶に君は見えるんだね。羽を広げた、蝶に」
たどたどしく頷く永劫を見て、ヘカテーはそっとほほえんだ。
そのカードに息を吹きかけると、そのトランプ大のカードから蝶が浮き出て、部屋のなかを舞う。
「蝶は、先を照らす道しるべ。成長でき、喜び事がある」
「喜び……ごと?」
「そう。――しかし」
ヘカテーはうなずき、舞うシアンの蝶を見上げた。