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「お前たちから見れば、毛嫌いしているように見えるのだろうが、実際、別に嫌っているわけじゃない」
うつむいて紅茶を飲む八月朔日允嗣は、先刻よりはだいぶ顔色もよくなってきた。だが、ヘカテーはその言葉に正直、驚く。
「俺たちは、刑事だ。証拠を固めなければ、犯人を逮捕などできない。――それには、足がものを言う。両親は、自力で証拠を掴んでいた。そこに、ほかの力の干渉があってはいけない。ただ、それだけのことだ」
「なるほど、そういうことだったか。いや――お見それしたね」
眉間のしわがかすかに深くなったが彼女は気にはせず、くちもとをゆるめた。
「人間も、回り道が必要だということか。近道ばかりでは、なるほど、傲慢にもなる」
「まるで見てきたかのような言い分だな」
「そりゃ、見てきたさ。わたしは何年生きていると思っている? 120年だ。いろんな人間を見てきたさ。黒ずんだ醜い人間も、それこそ――星のように美しく輝く人間もね」
八月朔日の手から、カップが落ちそうになる。なにをそんなに驚いているのかヘカテーにはわからない。
120年生きてきて、魔女の力に頼ってばかりの人間もいた。遠い昔の貴族だとか、華族だとかだ。占いをせがみ、たくさんの貢ぎ物を持ち込み、掃いて捨てるほどあると豪語する人間の金を払い、どうしたらいいかとヘカテーの家へとやってきた。
人間とはそういうものだと知ったのは、いったいいつからだっただろうか。
それでも、八月朔日はちがった。おのれの力だけで前に進もうとしている。
「そうか。われわれ魔女も、近い未来いらなくなる可能性もあるということか」
「……?」
「わたしたちはそういうふうに作られた、ということだよ。もともとわたしたち魔女は母親から生まれてきたわけではないしね」
「どういうことだ?」
「わたしたちは、最初からこの世界にいた。ずっと、何千年とね。一人の魔女が死ぬと、一人の魔女がうまれる。一定の数しかいない。それ以上もそれ以下も、生まれないんだ。母親がいない、ということは、“いつの間にか存在していた”としか言えない。わたしも、幼い頃の記憶はない。120年前の記憶では、たしか15歳くらいだったかな」
それゆえに、もしかすると120年以上生きているのかもしれないが、ヘカテーにはそれ以前の記憶がない。
いつから存在しているのかも、さだかではないのだ。
「だから、時折考えるよ。わたしたちの存在する意味は、人間たちのため――。そのためだけなのだと」
「――それは……」
八月朔日が顔をあげた直後、金鵄の声が聞こえた。
「どうした? 見つけたか」
「はい、ヘカテーさま。八月朔日の家から2キロほど北に行ったところです。場所は××廃工場」
金鵄の声は、ヘカテーにしか聞こえない。それゆえに、八月朔日の表情はどこか緊迫していた。
「妹は……梢は無事なのか?」
八月朔日の問いをそのまま金鵄に伝えると、「今のところ無事のようです」という返事がすぐにかえってくる。
「無事だそうだ。2キロならば、車を出したほうが早い。八月朔日、車を出せるかい?」
「ああ、すぐに出す」
冷めてしまった紅茶をそのままにして、八月朔日はすぐにきびすをかえした。玄関におかれた車のキーをつかみ、隣の駐車場へ走る。ヘカテーも助手席に乗りこむ。
タイヤが痛みそうな音を立てながら、住宅街を疾走した。
「言っておくが、八月朔日。あまり速まったまねはしないこと。相手は未知の力をもつ、悪質な天使だ」
「天使……?」
「そうだ。わたしたちの天敵である天使。人の意思を乗っ取り、いいように操るのさ。やつらは。まあ、今はいい。きみは、妹君――梢といったかな? 彼女の身を案じていてくれ」
「――分かった」
徐々に薄暗くなってきた空は、それでも晴れている。じき、月も見えてくるだろう。
廃工場内は暗く、足下さえもよく見えない。
「……」
杖に息を吹きかけると、ぼんやりとした明かりがまわりを取り囲む。八月朔日は絶句していたが、そんなひまもないだろう。指笛で金鵄をよぶと、ちかくで羽ばたくおとが聞こえた。
羽をひろげると2メートルはあるだろう、鵄の姿のままの金鵄は、ヘカテーの肩に優雅にとまった。
「こっちです。ヘカテーさま」
八月朔日のほうは決してみずに、金鵄が案内する場所は、パイプや空のドラム缶が散乱していてヘカテーが着ているエンパイア・ドレスでは歩きづらい。裾をかつげて歩くしかないだろう。
「ここです」
しばらく無言で歩くと、倉庫のような巨大なドーム型の古い建物が建っていた。
「梢……!」
「おまち!」
走り出そうとする八月朔日を止める。彼はヘカテーの言葉を聞き取ったのか、すぐに冷静さをとりもどした。
「きみはここで待っていたまえ。不用心に入っても、天使の格好のえさになる」
「待て。天使とはいったい何なんだ?」
「まあ、あとで説明することにしよう。おいで――エンプーサ」
青白い炎がヘカテーのまわりをとりかこみ、そして――金髪のあいだからのぞく、角をもつ美女が炎のなかから出現する。
「紹介しよう。わたしの眷属だ。挨拶をおし」
赤い目玉、そしてなにより深紅のドレスの下は、ロバの四本足がはえていた。
息をのむ八月朔日にむかって、彼女はちいさくほほえみ、夜の月のようにそっとささやく。
「私はエンプーサ。よろしくね」