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牝鹿は目をにごらせたまま、こちらに向かってくる。黄金の角を見せつけるように。
猛牛のように突進してくる牝鹿を、ヘカテーはただ哀れみの目で見つめた。
「哀れな牝鹿。おまえは、野を駆けていたほうがしあわせだっただろうに」
この牝鹿は、アルテミスの聖獣ではない。ごくごく普通の、山に生息する牝鹿だった。それをケリュネイアが狩り、無理矢理黄金の角を刺され、加工されたのだ。頭部の角の辺りには、赤い血液が流れている。
「ヘカテーさま!」
金鵄の叫びが、静まりかえった大広間にひびいいた。
若い魔女たちは、レトの機転によって避難させている。ほかの魔女たちは残っているが、恐怖にそめられた目で、ヘカテーとケリュネイアを見つめていた。
――ばちん、と、何かがはじけた音がして、牝鹿が悲鳴を上げる。
青白い炎がヘカテーのまわりをとりかこむように浮遊し、ケリュネイアを威嚇するようにゆらめいた。
杖を握りしめたヘカテーは、壇上のケリュネイアを睨む。寒気がするほどに青い瞳が、女をまっすぐ射貫いた。
「あいかわらず、反吐が出るようなことをしているね。朝焼けの魔女」
「いやね。宵闇の魔女。私は、生きるためにしているのよ。ほかの魔女とどうちがうのかしら?」
「生きるため? 本気で言っているのなら、――朝焼けの魔女。おまえは魔女のかたすみにもおけない、ただの化け物だよ」
「――化け物?」
雪のように白いほおが、くちびるが、ゆがむ。うす暗いマリア・ヴェールがちいさくはためいた。
「この、わ、私を化け物だと? おまえは言うの? ――佐柳下弦。ニンゲンの名前を持つ、愚かな生物か? このわたしを?」
青白い炎にはじかれた牝鹿が、ケリュネイアのつぶやきに共鳴するように吠える。ヘカテーは道化師を手にし、力強く握りしめた。
「金鵄。おまえはほかの魔女たちを守りなさい。そろそろ、あの子たちも駆けつけるだろう」
「ヘカテーさま?」
「エリニュスたちとおまえがいれば、最低限命はたすかるはずだ」
「!!」
青白い炎をまといながら、彼女は藍色のゆびさきを右のこめかみにあてがっていた、青薔薇を取りはらった。
あとに散ったのは、青玉のような花びら。だが、それがおちるまえに――燃え尽きる。
音をたてずに、あとからあとから落ちてくる花びらが、燃えつきていった。
「ヘカテーさま!」
まるで城の中が天空のように、夜の黒が幕をおろしてゆく。
反射的に金鵄が動き、2メートルはあるだろう、おのれの本来の姿――金色にかがやく、鵄の翼を大きくふるわせた。
「きゃあ!」
大勢の魔女たちの悲鳴が金鵄の耳にたしかに届く。
金色のヴェールに包まれた彼女たちは、ただ悲鳴をあげて、互いに身を寄せ合うしか赦されてはいなかった。
暗い雲のなかから、青白い炎とおなじくらいに青ざめた薔薇の花びらが浮遊している光景を、金鵄は見る。
「ヘカテーさま」
雲はやがて晴れ、そこにあらわれたのは――巨大な、夜の鳥だった。
人間の世界では決して見られない、うつくしく艶めく翼を持つ鳥。能面のような仮面をつけ、目を黒いヴェールで覆っているそのうつくしい鳥は、くちばしさえも黒い。
――対するは、朝。彼女の体は毛に覆われ、先刻の牝鹿よりも大きくふくれあがった角をもち、夜を食い尽くすほどに黄金に光り輝く巨大な鹿に相なっていた。
決着は、もとからついていたのかもしれない。
正気をうしなったケリュネイアでは、ヘカテーを止めることはできないのだから。
ヘカテーが羽ばたくと、城の壁中から薔薇の巨大な蔦がケリュネイアを襲うが、それでもその黄金の角で切り裂き、ヘカテーへと突進してゆく。
だが、その巨大な牝鹿の足を蔦が這い回り、ケリュネイアの動きを封じた。
「かわいそうな魂。おまえが発現するために、いくつの魂をむげにしたんだろうね」
かすかに聞こえた、ヘカテーの哀れみの声。
まるで泣いているかのように、雨夜のような声でささやいた。
「お母さま!」
エリニュスたちがこの大広間についたころには、たくさんの黒い羽根が舞っていた。シャンデリアに反射して、きらきらと輝くうつくしい羽根は、やがて空中に溶けるように消えてゆく。
黄金の牝鹿は、もうどこにもいなかった。
かわりに、巨大な黒い鳥が床に伏せっている。それがおのが母だと知っている三姉妹は、瞬時に駆けつけてその5メートルはあるかという鳥の翼にすがりついた。
「かかさま! かかさま!」
「だいじょうぶだよ。すこし、年甲斐もなくやりすぎてしまったようだ」
「あの女ね? ケリュネイアの奴!」
マリーゴールドの髪色をもつアレクトは敵意をむきだしにしてケリュネイアが去って行ったと思われる無残にこわされたステンドグラスへと視線をあげた。
「われらが母!」
静寂と化した大広間に、一閃の悲鳴がひびいた。
レトにつれられた若い魔女たちがヘカテーに駆け寄ってくる。
「申し訳ありません! 私たちに力がないばかりに……」
「いいんだよ、おまえたちが無事ならそれで」
ヘカテーは大きな翼をふるわすと、黒い霧があらわれた。その霧に吸い込まれるように、鳥の体が人型に変化する。そこに残ったのは、いつものヘカテーの姿だった。
「やれやれ、それにしてもあの女はいつもどおりだねぇ。魔女の風上にもおけないやつめ」
「われらが母、ヘカテーさま。大事ございませんか?」
「ああ、レト。すこし疲れただけさ。それにしても、ステンドグラスを粉々にしてしまった。悪かったね」
白銀の髪の毛をゆたかに結い上げ、黒いレースを施したドレスに身を包んだレトは、いいえ、とかぶりを振り、ほほえむ。
「これくらい、すぐに直せます。……あなたさまがご無事でようございました。今日はこの城でお休みください」
「すまないね。金鵄、すこし肩を貸しておくれ」
「はい。ヘカテーさま」




