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7時をまわったときだった。
ティシポネーから通達がきたのは。
「お母さま! なんかでたよ!」
ブランコからたちあがり、彼女の声がする方へ走る。そして――あの女のかすかな、におい。血なまぐさい、粘ついたにおいがわずかに漂っていた。
「なんかって、ティシポネー、他に何か言い方があるだろ……」
「うるさいな! なんかって言ったらなんかなの! 棒っていうか、なんかそんなの」
本当におまえはヘカテーの眷属なのかと問いただしたくなるような返答に、金鵄の眉間にしらずしらずしわが寄る。
「お母さま、お母さま! こっちこっち!」
ようやくティシポネーの姿が見ることができたその直後、それはいた。まるで電信柱の影から直接這い出たように立っていた。
彼女の言うとおり、「棒」のような影だ。
「……ようやく見つけたよ。なめた真似をしてくれたね」
「お母さま。なんか、へんな奴を見つけたよ。えらい? ティシポネー、えらい?」
「ああ、えらいよ。ティシポネー。よくやった。さすがはわたしの子どもだ」
黒くつややかか髪をそっとすいてやると、彼女はうれしそうに高い声をだして笑った。
「……」
棒はなにもしゃべらないし、動かない。ただぼこぼこと体のなかになにかを仕込んでいるのか、うごめいているだけだ。
――あれはたぶん、蛇だろう。巨大な、大蛇だ。
「なるほど。大蛇か。やはり、あの女のしわざだね……。いいだろう、おまえに名をつけてやる。おまえは今、自我を押し込められ、本能だけで動いている。それでもこれは大罪だ。だが、わたしにも慈悲というものがある。――人の世で悔い改めるがいい」
棒のようなシルエットから、目で追えぬスピードで、長細いもの――蛇が飛び出してくる。それはまっすぐ、ヘカテーの口へと向かっていた。しかしその蛇は、前に躍りでた金鵄によって遮られてしまう。
金鵄は片手でその蛇を掴んでいた。金色の目は、その獲物をまるでごちそうを目の前にしているかのように爛々と輝いている。
「喰ってもよろしいですか? ヘカテーさま」
「ああ、いいよ。存分に味わいな。久しぶりのごちそうだ」
片手で捕まれてなおうごめいている蛇に、そのまま金鵄がかぶりつく。肉をすする音と、頭を砕く音が閑静な住宅街に残酷に響く。
道化師を片手でもてあそんでいるヘカテーは、片目でその棒のような人間を睨んだ。
「しゃべれないわけではあるまい?」
「――……だ」
もぞ、と体がゆがむ。
まだ蛇を隠し持っているのだろう。もごもごとした声が、かすかに耳に届いた。
「お――お、お、おおおおオレは――がっ」
「なんだい。もっとはっきり言ってごらん。おまえが叫びたいことは、なんだい」
「オレは特別なんだッ! オレは……他の人間どもと違う!!」
叫んだのは、子どもらしい「特別」を求める本心だった。ヘカテーは道化師を手に持ったまま、ふん、と鼻を鳴らす。
「そうかい。おまえは、特別になりたいんだね? そしてそんな一時の快楽のために、未来ある二人の娘を殺した――」
「――そうだ! オレは特別なんだ!! あの魔女から力をもらった! あの女はオレは特別だと言っていたんだ。間違いあるか!」
黒い影はゆらゆらとその体を揺らせながら叫ぶ。
そこにはすでに、人間だった頃の面影はどこにもない。
「ふんっ。ばっかみたい! あんたみたいなのを、愚か者たちって言うのよ。あんたなんて、特別でもなんでもない。ただのバカっていうのよ!」
「!!」
そのシルエットがびくり、と体を揺らせたあと、それは徐々にゆがんでゆく。蛇のようなかたちをした、細長い影が空中をウミヘビのように這った。
「オレは……特別だ! みんなオレを馬鹿にしやがって!! 見下しやがって!! オレを馬鹿にする奴はみんな死んじまえ!」
「やれやれ。もう、残ってないみたいだね。それにしても、まずそうだ。私の好みじゃない。おまえは特別でも何でもない。ただの愚か者さ」
道化師という宝石がついた杖をにぎりしめると、布が裂けるような音が聞こえてくる。
――月がかくれてゆく。まるで月蝕のように。ヘカテーの背中から、巨大な――まるで、鴉のように真っ黒な翼が月を隠したのだ。
「ティシポネー、隠れておいで」
「はぁい。お母さま」
ティシポネーがヘカテーの後ろにさっと隠れると、かわいらしい手で彼女のドレスを掴んだ。
「おまえは選ばれたものではない。ただの殺人者だよ。ほんとうは喰ってやるところだけど、おまえはまずそうだ。死ぬよりも辛い目にあわあせてやろう」
その巨大な翼がすべての蛇をまるで我が子を包むかのように、覆いつくす。
音もなく、蛇たちが翼に吸い込まれるように消えていき、やがて――絶叫もないまま、すべてを消し尽くした。
「……吸収するのもなかなか、いやな感じがして仕方がないね――。さあ」
道路に倒れていたのは、若い――中学生か高校生だろうか、まだ未発達の男子だ。
たぶん、この男子は毒気を抜かれて、抜け殻になってしまっただろう。見目はふつうの人間とおなじだ。だが、喜び、怒り、悲しみはある。しかし、「楽」を吸収したことによって、これからは「安息がない」生になる。つねに疑心暗鬼に陥り、死ぬよりつらい目にあうのだ。
「そろそろあの八月朔日が来るだろうから、さっさとづらかろうか」




