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いつもより一時間早く家を出る。だからなのか、日差しはまだ弱くて、土手の上を流れる風もどことなく気持ちがいい。
ただ……僕の名前を呼んでくれる、あの元気な声は聞こえない。
重い足取りのまま、学校のグラウンドに着いた。朝の日差しが教室の窓に反射して眩しい。
そしてそこで僕は見たんだ。誰もいないグラウンドを黙々と走っているその姿を……。
「ミク……」
美空が僕に気づいて驚いた顔をする。それからペースを落とし、ゆっくりと僕に近づいてきて言った。
「コタ。あんた集合時間、一時間間違えてない?」
「お前こそ……」
帽子からのぞく美空の髪に、朝陽が当たっている。
「野球なんか……好きじゃないって言ったくせに」
すねたように、ぷいっと美空が横を向いた。それと同時に、聞きなれた太い声がグラウンドに響く。
「おい、どうした? めずらしいヤツがいるじゃないか」
「か……川田先生」
「琥太郎。お前、時間間違えてないか?」
美空と同じことを言いながら、先生が僕の前に立つ。朝からやる気満々の先生は、もうユニフォーム姿だ。しかも体がデカいから、それだけでものすごい威圧感なのだ。
「あの……えっと……昨日は、練習を休んで……すみませんでした」
先生がじろりと僕をにらむ。そんなふうにされたら、ものすごく怖いんですけど。
「どこか悪かったのか?」
「いや……あ、はい。ちょっと心が……」
隣で美空がかすかに笑ったのがわかった。
「心が折れたか?」
「はぁ……でも、もう二度と無断欠席はしません。それから野球も頑張ります。頑張るって言っても……あと少ししかないけど」
「大会は明日だぞ? 今さら何を頑張るんだ?」
腕を組んだ先生の視線が僕に降り注ぐ。
「それは……その……」
今さらどんなに頑張ったって、野球が上手くなるわけないし、試合にだって出れるはずはない。
僕は今まで、美空や玲二のように、努力を続けてこなかったから。
だけどこのままじゃダメなんだ。ダメだってことだけはわかる。何か……何か僕にできることは……。
「おい、美空」
「はい」
先生の視線が美空に移る。
「お前こいつに、声の出し方教えてやれ」
笑いをこらえたような顔つきの美空が、ちらりと僕のことを見る。
「そのくらいならできるだろう? 琥太郎にも」
「はい。そうですね」
そうですね、ってなんだよ……そうですね、って。美空まで僕のこと、馬鹿にしてるのか?
「琥太郎。最後ぐらいは、誰にも負けないくらいの声出してみろ。美空のようにな」
先生の太い腕が動いて、美空の頭をぽんぽんとなでる。美空が誰よりも一生懸命なこと、きっと先生も知っている。
「先生……」
そんな先生に僕はつぶやいた。
「すみませんでした。おれ、志藤龍介の弟なのに……全然期待はずれで」
先生がふっと白い歯を見せて僕に答える。
「そうだな。期待はずれだったよ。龍介は努力の男だったから」
僕は先生のことを見上げる。
「琥太郎、お前、龍介が何にもしないで、あんなに上手くなったとでも思ってるのか?」
思ってる。あいつは僕と違って、最初から何でも上手くできたから。
「そんなわけないだろう? あいつは誰よりも努力をしていた。朝一番にグラウンドに来て、一番後に帰るのは、いつも龍介だった。まあ、もちろん、元からの才能もあっただろうが」
聞きなれた先生の声が、僕の耳を通過して胸に響く。
「兄弟といっても、全く別の人間だ。おれは最初から弟のお前に期待なんかしていない。ただ、龍介の努力は見習って欲しかった。誰よりも努力しているヤツが、お前の一番そばにいたんだからな」
毎朝。僕が寝ている間に家を出て、走り込みを続けていた龍介。一度戻って支度をすると、またすぐに学校の練習に出かけて行った。
練習が終わってからも毎日自主練をして、夜は丁寧なストレッチをしたあとに、ノートを書いて一日の反省をする。
そんな龍介の姿を、僕は毎日見ていたのに。見ていたのに、やろうとはしなかった。
龍介と同じことをやって、負けるのが嫌だったから。
先生が僕の頭をこつんと叩いた。そしてにやりと笑うと、背中を向けて去って行く。
先生の向こうにユニフォーム姿の部員たちが見えた。先頭に立ってグラウンドに挨拶しているのは、あの玲二だ。
「コタ……」
美空の声が耳に聞こえた。
「がんばろ? 試合」
「……うん」
「最後だもんね?」
最後……本当に最後なのか? 僕が、美空が……野球をするのは、もうこれが本当に最後なんだろうか?
美空が背中を向けて走り出す。僕は美空の、白い帽子と白いユニフォームをぼんやりと見送る。
美空の声がグラウンドに響いた。その声を聞くのももう最後なんだと思うと、なんだか無性に寂しくなった。