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「あれぇ、お兄ちゃん、まだ帰ってないのかなぁ?」

 久しぶりに来た美空の家は、電気もついていなくて真っ暗だった。

「リク先輩もいないの?」

「きっとすぐ帰ってくるよ。上がって上がって」

 せかされるようして玄関に入ると、美空の家の匂いがした。

 小学生の頃、龍介と凌空先輩は仲が良くて、だから僕もよく一緒に、この家に遊びに来ていたのだ。

「……おじゃまします」

 泥だらけの靴を脱いで、ついでに靴下も脱いだ。僕も美空も、ユニフォーム姿のままだ。

「今すぐカレー作るからね。あ、コタ、シャワーでも浴びてきなよ」

「えっ……」

「お兄ちゃんのパンツと着替え貸してあげる。いいでしょ?」

 リビングからひょこっと顔を出して美空が言う。

「い、いや、いいよ。さすがにそれは遠慮します」

「なに気取ってんのー? ウチのお風呂、よく入ってたじゃん?」

 美空がけらけらと笑っている。

 そりゃあ昔は、兄貴たちと一緒に風呂に入ったよ。さすがに美空とは入らなかったけど、よく風呂を覗かれてたよな。

 だけど……今は違うだろ? 僕たちはもう中学生で、僕は一応男で、美空は女で……。

 そういうこと……美空は考えたりしないんだろうか。

「ほらぁ、ぐずぐずしないで入ってきて! タオルここに置いとくからねー」

 結局美空には逆らえなくて、僕は言うとおり風呂に入った。


 風呂場から出たら、新品の下着と先輩のものらしき服が置いてあった。

「あれ?」

 僕の脱いだ汚いユニフォームがない。

「あ、あれね、簡単に手洗いしてから、洗濯機回しといた。帰る頃には終わってるから」

「そこまでしてくれなくても……」

「どうせあたしのも洗ったし。ついでよ、ついで」

 美空が慣れた手つきで食事の支度をしながら僕に言う。

 美空は私服に着替えていた。明るい色のタンクトップにショートパンツ。そういえば美空の私服姿を見たのなんて久しぶりだ。

「すぐできるから。そこ座ってて」

「う、うん」

 椅子を引き出し、ダイニングのテーブルにつく。美空はそんな僕を見てまた笑う。

「なんなの? なんかコタ、ヘン。なんでそんなに緊張してるの?」

「緊張なんかしてねぇよ。お前こそヘンだろ。やけにテキパキしちゃってさ。お前、おれの母親か?」

 美空がおかしそうに声を立てて笑った。僕はぼんやりとそんな美空の笑顔を見る。

 部屋に漂うカレーの香り。首を振っている扇風機。開け放した出窓から涼しい風が吹き込んで、ガラスの風鈴がちりんと鳴る。

 美空はいつかこんなふうに、誰かにカレーを作ってあげたりするんだろうか。

 僕じゃない、美空の好きな誰かに……。

「はい、おまたせ!」

 僕の前に出来たてのカレーが差し出される。そしてそれと同時に部屋のドアが開いた。

「お、コタじゃん。お前も来たのか?」

 凌空先輩の声に顔を上げる。お前も……って?

「おーい、リュウ、入れよ。ちょうどメシ、出来てるぞ」

 一瞬、隣に立つ美空を見た。美空はほんのりと頬を赤らめて、僕の向こう側をじっと見つめていた。


「けど惜しかったよな。お前マジで、甲子園行っちゃうかと思ったよ」

「そんな簡単にはいかないよ」

 僕と美空と凌空先輩、そして今日試合に負けた龍介と一緒にカレーを食べる。

 僕の隣に座っている美空は、さっきから一言もしゃべらない。

「コレ、ミクが作ったのか?」

 スプーンを置いて龍介が言う。美空はしおらしい態度でこくんとうなずく。

「うまいよ。うん」

「ほんとに?」

「ああ、ほんとに」

 龍介が美空に笑いかけて、美空の顔がぱあっと明るくなる。そんな美空の前で、凌空先輩がニヤリと笑った。

「おれがさ、リュウが負けたらウチに連れてくるって言ったら、こいつずいぶん前からカレーの練習しててさ」

「ちょっと、お兄ちゃん、やめてよ」

「なんだよ、それ。おれが負けるの待ってたみたいじゃんか」

 僕は黙って三人の会話を聞いていた。

「そんなことないよ。あたしさっき川田先生から、リュウちゃんの学校が負けたって聞いて……それで、どうしたらいいかわからなくて……」

 美空の言葉が小さくなっていく。僕はさっき、ひとりでグラウンドを走り続けていた美空の姿を思い出した。

 なんだ。美空は知っていたんだ。龍介が負けたこと。

 それでどうしたらいいかわからなくて、とりあえず走って、それから龍介のためにカレーを作った。

 僕のためなんかじゃなく、龍介のために。

「ミク。サンキューな」

 龍介の声に美空が笑う。嬉しそうに、幸せそうに……美空が笑う。

「ごちそうさま」

 僕は空の皿にスプーンを置いた。そして静かに席を立つ。

「あれ、コタ。もう帰るのか?」

 凌空先輩の声に背中を向けたままうなずく。

「どうも……おじゃましました」

 それだけ言って部屋を出た。

 なんだか無性に腹が立って、そんな子供じみた自分に嫌気が差した。


「コター」

 美空の家を出て、しばらく歩いていたら僕の背中に声が響いた。

 砂埃のグラウンドで、誰よりもよく通る美空の声。

「これ、コタのユニフォーム。まだ乾いてないけど」

「ああ……」

 美空の手からそれを受け取る。なんだか惨めで情けなくて、僕は目の前の美空の顔を見ることができなかった。

「コタ……なんか、怒ってる?」

「べつに」

「リュウちゃんが来ること黙ってたから……怒ってる?」

 僕は何も答えなかった。狭い住宅街の道を、一台の車がヘッドライトを光らせて通り過ぎる。

「コタはさ……どうしてリュウちゃんのこと、避けてるの?」

 美空の声に顔を上げた。美空はじっと僕を見ている。

「コタは……リュウちゃんのこと、キライなの?」

 右手をぎゅっと握りしめた。そして息を吐くように言葉を吐き出す。

「ああ、キライだよ、あんなヤツ。あいつの弟ってだけで、ヘンな期待かけられて……すっげー迷惑」

 美空の目がどことなく潤んでいる。だけど僕の声はもう止まらなかった。

「おれはあいつみたいにはできないし、下手くそなんだ。小学校の時も、中学になってからも、結局試合にさえ出れなくて……おれなんかどんなに頑張っても……」

「頑張ってないじゃん」

 美空の声が僕を遮った。

「コタはなんにも頑張ってないじゃん。できないできないって、まだなんにもやってないくせに」

 目の前に立つ美空が僕を見ている。

「結局負けるのが怖いんでしょ! リュウちゃんに負けるのが怖くて、コタは本気でやってないんでしょ!」

 僕の右手がすっと伸びる。一瞬だけためらった後、その手で美空の体を突き飛ばした。

「ちょっ……なにすんのよ!」

 美空が二、三歩よろめいて、僕に怒鳴る。

「うるせぇな! お前になにがわかるんだよ!」

 わかるわけない。昔からなんでも器用にこなせる美空に、僕の気持ちなんかわかるわけない。

「女のくせにえらそうなこと言うな! バカ!」

 最後はもうやけくそだった。背中を向けて早足で歩く。

 暗闇の中に残してきた美空が、どんな顔で僕を見ていたか、僕は知らない。

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