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「じゃあお母さんはリュウの応援行ってくるから。あんた勝手にそのへんのモノ食べてって」

 寝起きの僕の前で、母さんは忙しそうだ。野球部で揃えた緑色の応援Tシャツを着て、バタバタと慌ただしく部屋を出て行く。

「ああ、そういえば、コタも試合あるんだっけ?」

「ん……」

 テーブルの上のおにぎりをかじりながら適当に答える。

「いつ? リュウと重ならなければ見に行くよ?」

「来なくていいよ。どうせ出ないから」

 僕に振り向いた母さんが小さくため息をつく。

「あんた、結局最後まで背番号もらえなかったねぇ……同じ兄弟で、どうしてこんなに違うのかしら」

 外のガレージから車のクラクションが響いた。「おーい、早くしろよ」と父さんの声が聞こえてくる。

「じゃあね。お弁当はそこに用意してあるから」

 僕の後ろでバタンと玄関のドアが閉まった。


 昔野球をやっていて、少年野球のコーチをしていた父。その父に勧められて、野球を始めた兄の龍介。兄の応援をするために、毎週グラウンドに足を運ぶ母。

 その生活は僕が幼稚園の頃から始まっていた。

「リュウちゃんは野球が上手いわねぇ」

「まだ二年生でしょ?」

「将来有望よねぇ」

 よそのお母さんたちの声を聞きながら、僕はいつも河原のグラウンドの隅で遊んでいた。

「ほら、コタも、お兄ちゃんみたいにやってみなさい」

 そんな僕の前に父さんはボールを差し出したけど、僕は首を横に振った。

「どうしてやりたくないの? 楽しいわよ?」

「コタ。一緒にキャッチボールやろうよ」

 母さんの声にも龍介の声にも、僕は絶対うなずかなかった。

「もう、この子は頑固なんだから……わかった、いいわ。あんたは勝手にしてなさい」

 去って行く母さんの背中を見送りながら、僕は遠くまでボールを投げている龍介の姿を眺めていた。

「リュウ、いいぞ! ナイスボール」

 お兄ちゃんは野球がうまい。だけど僕にはあんなことできない。

 無理だ。無理だ。できないし、どうせお兄ちゃんにはかなわない。

 グラウンドに背を向けて、緑の土手を駆け上がろうとした時、僕と同い年ぐらいの女の子に気がついた。

 この子は……いつもお兄さんにくっついてグラウンドにくる子だ。僕と同じように。

「ねえ」

 その子が僕に声をかけた。手には小さな赤いグローブを、大事そうに抱えている。

「あたしと、きゃっちぼーるしない?」

「え?」

 にこっと笑いながらも少し強引に、その子は誰かのグローブを手に取って僕に渡す。

「こたろーくんっていうんでしょ? あなたのおなまえ。あたし知ってるよ」

 ぼんやりと立ち尽くす僕の前でその子が笑った。

「あたしのおなまえ、知ってる?」

「知らない」

「みくっていうの。松村みく」

 美空がそう言って僕の手をとる。

「おいで。あっちでやろう」

「え、でも、ぼくは……」

「だいじょうぶ。あたしが教えてあげるから」

 美空に手を引かれて僕は走った。美空のはいていた短いスカートが、風に乗ってふわりと揺れた。


「こらぁ、琥太郎! どこ見てる! お前、目ぇついてんのかぁ!」

 ぼうっとしている僕の脇を、熱血先生の打った球が素通りしていく。慌てて後ろを振り向いたら、ボールを拾った外野手の玲二が、僕を見てにやりと笑った。

「もういい、お前は引っ込んでろ! 次、セカン! 美空、行くぞ!」

「はいっ」

 美空の声が空に響く。突っ立ったまま左隣を見たら、地面に小さく跳ねた球を、美空が器用にキャッチしていた。


「はぁ……」

 グラウンド整備をして、ため息をつきながら荷物をまとめる。今日も空は茜色に染まっている。

 雨、降らないかなぁ……雨が降れば練習も休みになるのに……。そういえば梅雨明けしてからずっと、空は晴れたままだ。

「コタローちゃん!」

 ふざけた声が背中に聞こえた。この声はどうせ玲二だろう。

「今日も鬼監督にしごかれてたねぇ?」

「うるせぇよ」

「案外お前、川田に気に入られてたりして。なんたって、あの志藤龍介の弟だもんなぁ?」

 バッグを背負った玲二が、僕の前でへらへらと笑う。僕は何も言わないで、ぐるりと丸めたシャツをバッグに押し込む。

「なぁコタ、このあと暇? 新しいゲームソフト、買いに行かね?」

 僕の肩をトントンと叩いて玲二が言う。

 こいつ――荻原玲二は、美空と一緒で、小学校から同じチームの仲間だ。

 いつもふざけた態度で、僕と同じくらい練習嫌いなくせに、足が速くて、どんなフライでも絶対に落とさない。

「おれ、金ねーし」

「付き合ってくれるだけでいいよ」

「それって、意味ねーし」

「じゃあ、付き合ってくれたらちょっと貸したる。おれんちでゲームやろうぜ」

 帽子をかぶり直し、重たいバッグを肩にかける。

 玲二んちでゲームか……久しぶりだな。夏休みだっていうのに、全然休み、ないんだもんな。

 いいよ……と答えようとして息をのむ。

 誰もいなくなったグラウンドを、ひとり走っている部員がいる。

「なぁ、ミクのヤツ……なんかヤバいことしたっけ?」

「は?」

 玲二が不思議そうな顔をして、僕の視線の先を追う。

「あいつ……なんで走ってるんだ?」

「あー、自主練じゃね? それより付き合ってくれんの? くれないの?」

 陽の暮れかかったグラウンド。美空の影だけが長く伸びる。

 バカだ。あいつ。練習が終わった後にさらに練習だなんて。さっさと家に帰って風呂にでも入れば、少しは女の子らしくなると思うのに。

「コタ? どうした?」

「なんでもねぇよ」

 玲二と一緒に歩き出す。

 美空はきっと思っていない。雨が降ればいいなんて、そんなこと絶対思っていない。

 だって美空は……こんな僕とは違うから。

 校舎の角を曲がる時、一度だけ僕は振り返った。砂埃の舞う中を、美空はやっぱりひとりで走っていた。

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