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努力とか、根性とかいう言葉は好きじゃない。最後の大会なんてどうでもいいし、むしろ一回戦負けして早く引退したい。
「おらっ、琥太郎、どこ見てる! 行くぞ!」
熱血監督の川田先生の声が響いて、ノックが飛ぶ。しぶしぶグラブを差し出したら、その下をボールがすうっと転がり抜けて行った。
「何やってる、琥太郎! 外周十周、走ってこい!」
やった、サボれる。僕は適当に返事をしてグラブを置くと、砂埃の舞うグラウンドを出て走り出した。
校門を出て体育館の角を曲がると、休むのにちょうどいい木陰がある。
「ふうっ」
僕は息を吐いてから、フェンスにもたれるように座り込んだ。
この辺りは人通りも少ないし、ノックに夢中な先生は、僕のことなんかしばらく忘れるだろう。
アンダーシャツの袖で顔を拭う。汗と砂埃で、たぶん僕の顔は真っ黒だ。早く家に帰ってシャワーを浴びて、エアコンの部屋で寝そべりたい。
「おら、琥太郎! こんな所でサボってんじゃねぇ!」
不意にかかった声に、体がビクンと反応した。恐る恐る顔を上げたら、僕の前でニヤニヤ笑う男の人。
「……なんだ、リク先輩か」
「なんだとはなんだ。お前らに差し入れ持って来てやったのによ」
松村凌空先輩――ニコ上の卒業生で、あの美空のお兄さんだ。
「もうすぐ大会だろ? 今年はどうだ?」
「さあ、どうだろ? 一回でも勝てばいいほうじゃないのかな?」
「はは、相変わらずだなぁ、お前は。ミクなんかたぶん、全国制覇めざしてんぞ?」
「ありえないでしょ、それ。絶対に」
隣にしゃがみ込んだ凌空先輩と軽く笑う。乾いたふたりの笑い声が、ほんの少し涼しい風に流れていく。
「でもまぁあれだな。これでさっさとミクが引退してくれれば、我が家は平和になるよ」
凌空先輩の持っているコンビニの袋が、カサッと音を立てる。冷たそうなスポーツドリンクが目に入り、僕の喉がゴクンと鳴る。
「平和になるって、どうして?」
「ほら、うちの母親。ミクが野球やるの大反対してるだろ?」
「ああ……」
「あいつ一回、指怪我してきたことあったからな。その時、母親と大ゲンカしてさ。女の子が怪我までして、野球なんてやるもんじゃないって……でも美空は絶対やめないって言い張って、それ以来、朝も起こしてもらえないし、弁当も作ってもらえないんだ」
「ふうん……」
美空のお母さんはピアノの先生だ。凌空先輩は小さい頃から野球をやっていたけれど、おばさんは美空にはピアノをやらせたかったらしい。
「おれもそう思うよ。女のくせに、どうして汗臭い野球なんだって。せめてテニスとかバドミントンとか、そういうスポーツにすればいいのにさ」
凌空先輩がそう言って僕に笑う。
「おれにはミクの気持ちがわからない。おれもお前と同じで、ここでいつもサボってたクチだから」
アロハシャツみたいなチャラい服を着て、短パンにサンダル姿の凌空先輩は、もう野球をやっていない。進学校に入ったから、勉強が忙しくて部活どころじゃないって前に言っていた。
「さてと、おれはそろそろ行くけど」
「あ、おれも」
凌空先輩と一緒に立ち上がる。真夏の日差しが降り注いで、軽く眩暈を覚える。
「ああ、そういえばさ」
校門に向かって歩き出した凌空先輩が、振り返って僕に言った。
「龍介のヤツ、あいかわらずすげーじゃん。二年でメンバー入りしてたよな、新聞で見た」
きゅっと僕の足先が止まる。全身が硬直したように動けなくなる。
「この前も勝ったから、準決勝進出だっけ? あいつマジで甲子園とか行っちゃうんじゃね?」
「まさか……いくらなんでも」
「いや、ありえるって。ウチの野球部から甲子園かぁ。すげーよ、マジで、お前の兄貴は」
凌空先輩が僕に笑いかけて、袋を振りながら歩いて行く。僕は黙ってその後をついていく。
――すげーよ、マジで、お前の兄貴は。
小さい頃から野球が上手くて、中学ではエースピッチャーで、有名なシード校に推薦で入った、ウチの学校では誰もが知っている有名人。
それが僕の兄、志藤龍介だった。